25.「ただいま」
コンコン、とノックが鳴ってようやく涙が引っ込んだ私は顔を上げた。すぐそこにリクの顔があったものだから裏返った短い悲鳴を上げて慌てて離れようとしたけれど、リクの腕は相変わらず私の身体を包んで離さない。
私と目が合って微笑むリクに、もう一度コンコンとノックが鳴ってようやくその腕から解放された。少し、ちょっとだけ寂しいような気がしたけれど、でも私の肩をリクが支えていたものだからそこから伝わるぬくもりにホッとした。私ってちょっと現金すぎる。
「入っていいかー?」
「いいですよ」
「ごめんなぁ、いいところお邪魔しちゃって」
いいところというセリフにもお邪魔しちゃってのセリフにも言い返したかったけれど、でも墓穴を掘りそうで言葉を飲み込んだ。少し待っていればガチャッとドアが開けられハルバとカミラが中に入ってくる。ハルバはさっきまで自分が座っていた椅子に戻り、カミラは私たちを見てにこっと微笑むだけだった。
「二人共大した怪我がなくてよかったぜ。なかったついでに、サヤもリクも一回フェネクス国に戻ったらどうだ? 流石にメリーおばさん心配してんじゃねぇかな」
「そうね、二人共ずっとこっちにいっぱなしだったもの。落ち着いている今のうちに戻るのありだと思う」
確かに二人から言われた通り、私たちはこの街に来てから一度もフェネクス国に戻っていない。街の手伝いをしているうちにあっという間に時間が過ぎていたと言ってもいいかもしれない。メリーさんのことを忘れていたわけじゃないけれど、戻るタイミングを見失っていた。
ちらりとリクを見上げてみると、彼も私に視線を向けてそしてにこりと笑顔を浮かべた。
「そうですね。一度戻りましょうか、サヤ」
「……うん、そうだね」
「二人共ゆっくりしてきてね」
こっちのことは気にしなくていいから、というカミラのお言葉に甘えてフェネクス国に戻る準備を初めてそして出発は翌日にした。私も目が覚めたばかりだし、リクも大きなものではなかったけれど怪我を負っていたから。
街の宿でゆっくりしているとノックをされ、返事をして顔を上げてみたら現れたのはセシルさんだった。彼は「手短に」と私に気遣いながらも周辺の碑石の状態の報告をしてくれた。そして街付近にある森の碑石について聞いてみれば、彼は顔を訝しげながらゆるく首を横に振る。
「そのような場所に碑石はなかったはずです……サヤさんはそこに向かったんですよね?」
「はい、碑石があると聞いて……実際碑石はあったんですけど、特に修復が必要な様子じゃなかったんです」
「……考えられることは一つ」
それは罠だったということ。碑石に似たようなものを設置し、聖女に誘導してもらって力のある神官を城に連れて行くつもりではなかったのか。セシルさんがそう口にした推測はあながち間違いじゃなさそうだと肩を落とす。美咲さんは何も聞かされていなかったのかもしれない、ただ美咲さんにそう言った人に利用されただけかもしれない。
生気の宿っていない美咲さんの瞳を思い出して、軽く頭を振る。今の彼女には何も言っても響かないだろうし、そもそもサブノック国の王から引き剥がさないとどうにもならない。でもこうしているうちに、美咲さんにまとわり付いているあの禍々しいオーラが濃くなっているかもしれない。
そんな手段を選んだサブノック国を、私は許せそうになかった。あの王は本当に利用するためだけに聖女を召喚したんだ。私は追い出されたけれど、もしかしたら私も美咲さんのようになっていたのかと思うとゾッとした。
「すみませんお疲れの時に……今は休んでください、サヤさん」
「……はい」
碑石の方は心配しないでくださいと言い残してセシルさんは部屋から出て行った。パタンと閉じたドアの音を聞いて、ぼふっとベッドの上に横たわる。
色々と考えなきゃいけないことはたくさんあるのに、思考はままならずそのまま重いまぶたは閉じていった。
翌日、しっかりと準備を整えてハルバとカミラに見送られてフェネクス国に向かって出発した。フェネクス国方面に向かうのは本当に久しぶりで霧がどういう状態かわかっていなかったけれど、思っていた以上に晴れていた。国境の門をくぐれば門兵の人たちが快く通してくれる。
「魔物の出現がかなり減ったので心身ともに余裕が出てきたんです」
「前に物資を送ってくださってありがとうございました。お気を付けて!」
口々にそう言われてホッと安堵しながらも国境を越えた。前に通った時、黒く濃い霧のせいで彼らは対応に追われてやつれていたのに今はとても穏やかだ。少しでも役に立つことができたのかな、とペコリと頭を下げた門兵さんに同じように頭を下げた。
国境を越えれば霧なんて何一つない、穏やかな青空。初めてこっちに来た時もあまりの違いようにすごく驚いたっけ、ともう随分前のように感じる。国の政策が違うだけで国の状態もこうも変わる。息を大きく吸い、吐き出せば清々しい空気が自分の中で循環したようだった。
街まではわりと距離が近い。リクと他愛のない会話をしながら歩いていれば街が見て、知らず知らずのうちに進む足も軽くなる。徐々に賑やかな音が近くなってくる。街の雰囲気が伝わってくる。一歩入れば、懐かしさのあまりに表情が緩んだ。
周りを見渡してみればあんまり変わっていないことにホッとしつつ、行き慣れた道を歩く。途中で目が合った知り合いの人たちと挨拶をして中には「おかえり」と言ってくれる人もいた。ただいま、と返せることが嬉しくてたまらない。そして――見上げてみれば、宿屋『マオ』の看板。
ドアを開ければ賑やかな店内に、あちこちから美味しそうな香りが漂ってくる。少しお客さんも少ない時間だったのか、厨房では従業員さんと談笑しているメリーさんの姿が見えた。
「メリーさん」
決して大きくはなかったと思う。いつも通りの声量で名前を呼んでみれば、物凄い勢いで振り返られた。ぽかんとした顔が、徐々にくしゃっとなってそして膨よかな身体が厨房から飛び出してきた。
「サヤ! おかえり! あんた帰りが遅いよ!」
「ご、ごめんなさいメリーさん。ただいま」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、久しぶりの優しい香りと体温にぐっと涙腺が緩む。もう私の涙腺はこの世界に来てから緩みっぱなしだ。
「リクもおかえり。あんたは随分と男前になって帰ってきたじゃないか」
「おかげさまで」
「二人共腹減ってないかい? あたし特性の美味しいご飯作ってやるから、座って待っときな!」
「ありがとう、メリーさん」
パッと身体が離されて、とても明るく笑うメリーさんはあっという間に厨房の方に消えていった。「嬉しんですよ」とリクも笑いながら言って、その言葉に「そうだね」と笑っていつも座っていた席に向かう。
そしてそんなに待っていないのに、目の前には次々と色んな料理が置かれていく。いつの間にこんなに作ったんだろう、とびっくりするほど。しかも運ばれてくる料理が止まらない。流石に二人でこんなに食べられない、と困っていると近くにいたお客さんが「余ったら俺たちが食うよ」と笑いながら気さくにそう言ってくれた。
「さぁ! たーんとお食べ!」
「メリーさん、ありがとうございます。いただきます」
「いただきます」
胸を張ってるメリーさんにお礼を告げて、早速目の前にあったスープに口を付ける。口に入れた瞬間野菜の旨味が広がって身体が温まる。そう、これだ。私の好きな料理。美味しいからついいっぱい食べちゃって、太っちゃう美味しい料理だ。メリーさんの人の良さが料理を経て伝わってくる。
いっぱいあった料理はどれも美味しくて、完食したかったけれどやっぱり全部はお腹の中には入らなかった。私の目の前ではリクが淡々と次々に食べていっていて、意外に食べるんだと関心しながら食後のお茶を飲む。余った料理は宣言していた通り、他のお客さんが「うまいうまい」と言いながら次々にお腹の中にお冷めていった。
あれだけあった料理は綺麗さっぱりに平らげられた。空になったお皿を下げているメリーさんは満足そうに次々と運んでいく。手伝おうと一度腰を浮かせたけれど「休んどきな!」と先手を打たれて、お礼を言いつつ運ばれてきたデザートを口に運んだ。そしてテーブルの上が見事に綺麗になると先に席を立ったのはリクだった。
「すみません、先に休ませてもらいますね」
「あ、うん」
「部屋は綺麗にしてるからそのまま使えるよ。十分に休みな」
「はい」
お先に失礼しますね、と私に笑顔で告げたリクに手を振って見送る。ぽつんと空いた席には片付けを済ませたメリーさんが腰を下ろした。リクが去った方向を見つめながら「やれやれ」と小さくこぼす。
「早々に休みたがるなんて、よっぽど疲れてたんだね」
「……私が無茶をさせてしまって」
私に視線を向けたメリーさんに、サブノック国に行って何があったのかを拙いながらも言葉にする。わかりづらかっただろうにそれでもメリーさんは真剣な眼差しでじっと耳を傾けてくれた。
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