第2話 元影武者、面接を受けること

***


 随分とのどかなお国であった。

 穏やかな秋風に吹かれ、ほのぼのとした気分になっていた。

 私が寒さ誇る帝国を出て、この秋のお国に辿り着いたのはいまから2か月前のこと。踏み込んだ土地では、帝国とは比べものにならないほど穏やかな空気が流れていた。目に映る景色は紅葉落葉、さらに黄金色の稲穂と落ち着いた彩度で目に優しい。稲穂は秋のお国の淡い陽の光を受け、風に揺らぐたびにキラキラと輝いていた。

 これが、あの見渡す限り白銀の世界が続く帝国と地続きのお国だとは、にわかに信じがたい思いであった。牧歌的な物語の中へと、うっかり迷い込んでしまったかのようである。


 こちらの服装は春のお国とほぼ同じで、日中は長袖のシャツになにか羽織るくらい。野良仕事に従事している者が多いからか、こちらではジャケットの着用率が明らかに低く、服の着こなしもずっとくだけた印象であった。それにデニムやブーツを合わせるのが一般的ないでたちのようで、見かける男女は年齢問わずよく似た動きやすそうな恰好をしていた。

 いま私が着ているものも、概ね彼らと相違ない。帝国から秋のお国へと向かう、夜行列車内で入手したものである。列車には大量の荷物を抱えた行商人が幾人も乗っており、そのうちのひとりが声を掛けてくれ、ついでにそれらしい服を見繕って私が着ていた帝国服と交換してくれた。彼らの抱える大袈裟な荷物の中身は、ほとんどが衣類であった。


 秋のお国との国境へと辿り着き、私が列車から降りた頃にはすでに夜が明けていた。帝国ではめったに見られぬ、久方ぶりに拝んだ朝日は晴れやかで、眠らず過ごしていた目には痛いほど眩しかった。

 眠そうな顔をした自警団員に通行パスを提示しながら、初めて入るお国なのだと静かに実感した。これは帝国の地に初めて降り立ったときにも感じたことだが、 国によって風がはらむ湿度も運んでくる香りも、どこか違うような心地がするから不思議である。


 辿り着いてからのこの2か月もの間、働きもせず私がこの穏やかな秋のお国でなにをしていたかというと、ただただ国土を巡り情報収集をしていた。

 理由は単純である。お嬢様の夫である帝国の旦那様に、

「イリーディアと違って、君は浮世離れしててもいけませんしね。新しい仕事に就く前に、一般の暮らしも多少見ておくといいですよ」

との助言を賜ったからである。

 旦那様には雇われてもいなかったのに、それ用にいくばくか路銀までいただいてしまったため、従うのが道理だろうと思ったのだ。


 しかし私は春のお国と帝国の、大陸の主要二国で過ごしてきた人間である。

 浮世離れなどと言われても、心の中で笑うほかなかった。生粋の貴族育ちである大旦那様やお嬢様ならまだしも、私はただの元影武者であり上流の民ではないのだから。正直なところ、世に出たとて困ることなどないと思っていたのだ。


 思い上がりも甚だしいことであったわけだが。


 ここ数か月の出来事が走馬灯のようにありありと思い出され、私は己の当初の見込みの甘さを深く反省しながら、やや色の褪せた上着のポケットへと手を突っ込んだ。

 これは帝国のお屋敷を出てから学んだことの一つだが、治安の悪いことにどこの国であれ道端で迂闊に財布を取り出すと、その中身の過多に関わらず高確率で物盗りに狙われるようである。幾度かのトラブル(財布を取りだして支払う、目を付けられる、人けがなくなったところで襲い掛かられる、返り討ちにする、という地獄の無限ループ)を経て、その原因が財布の存在にあるとわかり、道行く一般人に倣い私も使用を取りやめ金銭をポケットに直接入れる形をとることにしたのだ。


 常時チャリチャリと音が鳴り、いままで隠密行動をしていた私にはこれが大層癪に障り気が狂いそうであった。こんな状態にもかかわらず、一般の民が平気な顔をして歩いているのが信じらない。彼らの精神は私が思うよりずっと強いのかもしれなかった。

 それらはこれまで想像だにしないことであり、想定外の現実に半ば呆然としたところである。


 指先の感覚で、枚数をざっくりと数える。面接のときに腹を鳴らすわけにもいかないし、残金はやや心許ないが少し多めに食べておくべきだろう。いざとなれば野草でも齧ればいいか、などと暢気なことを思う。

「こんにちは」

湯気の上がる食べ物につられ声を掛けると、はいはいどうも、と愛想の良い中年男性が屋台の奥から寄ってきた。髪も瞳も黒い、肌はよく日に焼けていた。きっと地元の人間であろう。

 奥では絶えず料理をしているのか、その店主と思しき男の着ていた服からは様々な香辛料の混ざった複雑な香りがした。私は手前にあった肉料理を指さした。

「こちらを二人前いただけますか」

「はいよ。これ、結構辛いやつだけど平気かい?」

目についたから適当に選んだのだが、これは辛いのか。逡巡していると、

「ほい、味見」

と、店主がトングで掴んだ肉をひょいと差し出してくれた。

 礼を述べつつ慌てて手を出すと、躊躇いなく出来たてホカホカの肉が乗せられ、その熱さに私は慌てた。迷わず口の中に放り込み咀嚼する。

 ――うん。美味。

 この国の料理は驚くほどハズレがない。肉や野菜をザク切りかブツ切りにして炒める極めて単純な調理法ばかりだが、素材がいいのか香辛料の合わせ方がうまいのか、なにを食べても想像を上回って美味しい。

 春のお国も帝国も、それぞれ調理方法も味付けも多彩にあり、あれはあれで充分美味であったが、こちらとはどうも美味しさの種類が違うと思った。食べ物の旨みを引き出すというのは、本来こういうことを言うのかもしれなかった。


 試食の一切れも、店主に言われた通り確かに辛みはあったが、辛さより旨みのほうがずっと際立っていた。ただの屋台でこの味だ、さすが食資源の豊かなお国である。

 店主の黒い目がこちらを見つめていたので、素直に頷いた。

「とてもおいしいです」

白米が欲しくなるような、食欲をそそるピリリとした辛みであった。

「お、そうかいよかった! お連れさんも食べられそうかね?」

「私ひとりです」

え、あれ、二人前だったよね? と問われ頷く。

「お腹が減ってしまうので、ひとりで二人前食べます」

「あぁー、成長期か」

そりゃ大変だ、と苦笑された。


 そうなのだ。どうやら私はその成長期とやらで、最近とみに腹が減るのである。

 食の豊かなこのお国では、食事の大抵が安価で量も多めなのだが、それでも食べてしばらくすると腹が鳴る。

 それはこの国の食事が美味しいせいなのか、はたまた慣れぬ土地の慣れぬ習慣に頭を捻っているせいなのか、それともあの窮屈なコルセットとは無縁の日常を送れるようになったからなのか、有力貴族子女の身代わりという重圧から解き放たれたからなのか、それともそれらすべてが原因なのか。

 なんにせよ、二人前くらいなら簡単に胃袋に収まってしまう。

 だが、なにもかもが美味しいのも考えものである。この調子で食べ続ければ、お嬢様の元へと戻る前に、動くのもままならぬほど肥え散らかしてしまいそうであった。そうなると、またお側にお仕えするなど夢のまた夢である。


 今後の自分を思い黙った私を見て、食事の選択に悩んでいると思ったのか、店主がトングで示しつつ口を開いた。

「辛いのイケるなら、たぶんこっちも気に入るよ。自信作だ」

地元の品なのか、名も知らぬ色とりどりの野菜が香ばしい匂いを放っていた。

 悩んだが、欲に負けた。なにも横に膨らむとは限らないだろう。

「ではそちらと一人前ずついただけますか」

 これから背だって伸びるであろうし、動けば筋肉とてつくであろうし、お嬢様と似ても似つかぬ容姿になるには屈強な体を作ることが先決である。それにはまず、栄養を摂る必要がある。

 これはたくさん食べたいがための言い訳ではない。いつまでも切なげに鳴っている腹を宥めるためではないのだ、決して。


「そうだ、成長期なら米もいるか? ちょうど炊き立てがあるぞ~? どっちのメシにも合うと思うし、一緒にどうだ」

この手の小気味よい売り文句を躱す術を、私はまだ知らない。食べよう。

「では、一人分いただけますか」

「あいよ。成長期なら多めに盛ってやるよ」

それはありがたい。

 あれこれと喋りながら、店主は木製の大皿に軽快に盛り合わせてゆく。小銭と交換で受け取った皿はなかなかの重量だったが、これがなんの問題もなく腹に入ってしまうのだから不思議だ。

「はい、まいどあり」

礼を言い頭を下げかけたところで、屋台の後ろ、その上部から吊り下がった麻布の目隠しの切れ間から、大皿がニュッと突き出された。

「できたよー」

「あいよー」

これまたいい香りがする。新しい料理につい目を奪われた。

「おっ、これ気になる? じゃあおまけ!」

パパっと追加で盛ってくれた。客の視線をよく見ている。客商売向きの御仁だと思う。

「ありがとうございます、ありがたくいただきます」

店主は懐かしそうに目を細めた。

「うちの娘も、お兄ちゃんくらいの年頃にはびっくりするくらい食ってたもんだ。いっそ身籠ってんじゃねえかと周りが疑うくらい食って、幸い全部身長になって縦に伸びたが」

 余計なこと言わないの! と目隠しの奥から若い女性の声が飛んできて、店主は首をすくめた。どうやら親子で商売をしているらしい。微笑ましいことだ。

「人間は体が資本だからな。いっぱい食ってでっかくなりな。

 でも張り切ってちょっと盛りすぎちゃった気もするな、食べきれなかったら持ち帰り用の器もあるから言いな」

「お気遣いありがとうございます」

でも食べきれると思います、と内心続けつつ会釈をした。


 店の横にある飲食用の区画は、まぁまぁの賑わいを見せていた。空いている席へと滑り込んだが、座るなりさっそく後悔する。席取りを完全にしくじったと思う。

 背後の壁には求人広告が何枚も雑に貼られており、不要であるにもかかわらず座る前に無意識に読み込み暗記してしまったうえ、風が吹くたび揺れ動き小さく音を鳴らすので気が散って仕方なかった。

 まだ昼前だというに、隣で騒ぐ地元の酔っ払いに居心地が悪い思いをしながら、丸太の上に尻をおさめ直す。春のお国のお屋敷でも帝国のお屋敷でも見掛けなかった、切っただけと思しき丸太椅子は、僅かに斜めに傾いでおり、いつまでも尻に馴染まなかった。

 かしましい酔っ払いの騒ぎもそうだが、尻を動かすたびポケットの中で小銭が鳴り、雑音を耳にし続ける状態に私はもう我慢がならなかった。この国の風土と料理は気に入ったが、このように物の情報量が多い場所で過ごすのは落ち着かないのだ。さっさと食べておいとましようと思う。晩食までは金銭を使う予定もないのだし、小銭はボディバックにしまっていいかもしれない。

 食事に神経を集中させることを心に決め、ステンレス製のフォークスプーンで黙々と食べ進めた。店主の言う通りどの料理も米によく合う。辛みがちょうどよい。


 道中の汽車や食事などで使った銀貨や銅貨は、

「義父上様とイリーディアのことだ、きっと用意してやってないでしょうから」

と、帝国の旦那様がくださったものである。

 大旦那様とお嬢様から退職金をいただいたのに、なぜ旦那様までくださるのかと不思議に思ったものだが、この数ヶ月間に使用したのは銅貨ばかりでこういうことかと納得した。庶民の給金は概ね銀貨か銅貨で支払われるそうだが、私がいただいた退職金は、銅貨どころか銀貨も飛ばし大量の金貨の大枚であった。

 確かに庶民の生活資金など、おふたりには想像しえぬことである。どうやら金貨は一般生活ではそうそう出番がないようであった。


 帝国の旦那様が仰るには、

「新しい仕事先で給金をいただけるまで、3か月弱ってとこですか。

 その路銀が途中で尽きたり、反対に残りすぎたりしなければまぁ、金銭感覚はギリギリ合格点ってとこじゃないですか」

とのことであった。

 その期日まであとひと月もあるが、いただいた路銀は現在思っていたより減ってしまっている。少なくとも当初手にした額の3分の1より少ないことは確かだった。

 食事と着替えと移動費以外には使っていないのだが、食欲に任せて食べ過ぎてしまったのは否めない。この調子でいくと、旦那様が仰った”ギリギリ合格点”に私はもしかしたら届かないのかもしれなかった。情けないことである。


 こちらのお国は、春のお国と同じく資源の豊富な土地である。ただ資源は資源でも豊かなのは食資源のほうで、国土のほとんどは放牧地か農耕地であった。人間よりも家畜のほうがずっと多い印象で、牛や羊などの家畜がのんびりしているか、牧草がそよいでいるかというところである。

 春のお国と違いとにかく国土が広く、老若男女問わず忙しく働くさまをよく見かけた。海にも広く面しているが漁業より酪農業の方が圧倒的に盛んで、内陸の方になると海産を食べる習慣がないのは春のお国と同じである。こちらの農地は稲と麦の二毛作が主流のようだ。

 先の戦争で戦火に落ちたのか、廃村となったまま放置された痛々しい光景もいくばくか見かけたが、国土が広いので住民はまだ無事な土地に移住しつつ、うまくやっているようであった。

 人が集まり栄えている場所は国内のごく一部で、体感ではせいぜい国境と王都の付近だけ、という感じであった。そのどちらからも遠い海辺はなかなか閑散としており、されどそれを気にする風でもなく、親子と思しき家族が小舟で魚を獲って慎ましやかに暮らしていた。

 春のお国は秋のお国よりさらに豊かであったが、こちらの民の方が表情に明るさがあるように感じられるのは、こののどかで広大な景色のなせる業だろうか。


 今度のお屋敷は秋のお国でも比較的栄える、大陸の内陸南西部に位置する。

 春のお国との国境沿いにあり、宿屋も飲み屋も大衆食堂も屋台もそこそこある。牧歌的なこのお国にしては、比較的利便性の高い地域である。

 現在私がいるのは、そのお屋敷から少し歩いたところにある市場で、そこに点在している飲食屋台の一つである。通りには、野菜やら肉やらを買い込み籠いっぱいに抱えた人たちが行き交い、なかなか賑やかなものであった。


 本日はいよいよ、帝国の旦那様からご紹介いただいた、秋のお国にある貴族屋敷の面接である。

 約束は午後2時。現在およそ昼過ぎ。まだまだ時間には余裕があるが、腹ごなしもかねて向かっておいてもいいかもしれない。この辺りの地理も頭に入れたし、周辺地域の治安も把握ずみ。なすべきことはすべて完了していた。

 席を立つと、目が合った店主に食器を返し頭を下げた。

「ごちそうさまでした。どれもおいしかったです」

「おー、食べきれたか! また来てくれな!」

愛想良く手を上げた店主は、また新たに客に声を掛けられ、慌てて新しい皿を取りに戻って行った。

 穏やかな、実によいお国である。


 賑やかな市場を抜け、揺らぐ稲穂を眺めつつ新しいお屋敷へと向かう。気温は故郷春のお国にも似ているように思うが、向こうに比べ幾分か冷ややかな風が吹いていた。

 早めに向かってしまうのは、いままでの癖なのかもしれない。影武者をしていた時も待機時間は多かったので慣れてはいたが、身を隠す場所もないのに屋外で無防備に過ごすのはまだ慣れない。


 しばらく歩を進めると、赤茶けたレンガ造りのお屋敷が見えてきた。開けっ広げなお国柄か、当のお屋敷の正面玄関の門は開かれたままである。先の戦争の名残もあるのか、くすんだ鉄製の門はややひずんでいた。もしかしたら直さないと閉まらないのかもしれない。

 貴族屋敷とあって帝国の旦那様のお屋敷よりは確かに広そうであったが、春のお国の大旦那様のお屋敷の大きさとは比べるまでもなかった。ただ、帝国や春のお国にあったお屋敷とは違い、高さは2~3階ほどしかない。どうもこちらのお国では、建物は縦に積まず横に広くするのが主流のようである。

 お屋敷の両脇には、同じ色をした小ぶりの建物が2棟ずつあった。窓から見える庶民的な衣類のはためきから、使用人用かもしれないなと思う。

 帝国では同じ屋敷内の一階裏手に使用人たちが住んでいたが、こちらのお屋敷はお嬢様のご実家と同じく、使用人の居住棟が別にあるようだ。


 立ち尽くし一陣の風に吹かれながら、しかしなんと穏やかな気候だろうか、としみじみ思った。

 この日差しの麗らかなことといったらない。春のお国に比べれば陽の傾くのが少々早い気もするが、その陽さえなかなか見られぬ帝国から訪れた私からすれば、もはや気にするまでもないことであった。その辺の牛や馬が立ったまま目を瞑っているのも納得の、危険とは無縁の景色である。

 まさか私の人生にこのような穏やかな時間が流れようとは、大旦那様とお嬢様(及び帝国の旦那様)に改めて感謝しきりであった。


「いてっ」

小さな声が聞こえ思わずお屋敷の屋根から視線を下げると、庭を歩いていたと思しきその声の主が、腰に手を当て脚立にもたれ、グッと顔をしかめていた。

「――差し出がましいことかもしれませんが、お運びしましょうか」

男は驚いたように顔を上げ、開かれっぱなしの門の前にいた私に気がついた。

「え、あぁ、これはご親切に。でも、君はお客さんじゃないのかね」

小首を傾げ、そう言った男の歩く挙動はややおかしかった。庇っているのはきっと腰だろう。

 見かねて口を開いてしまったが、他の使用人たちは一体なにをしているのだろうと思う。この状態で脚立を担がせるなんてどうかしていた。

 脚立を持ったまま転べば、お屋敷にだってその音が響いてしまうだろう。それは使用人としてあるまじき失態であった。

「客ではございませんのでお気になさらず。所用で訪れたのですが、まだ幾ばくか時間があります。少しばかりお手伝いしたとて、問題なく間に合いましょう」

 第一、仕事は自分の心身の健康が大前提である。不調は早めに治すべきだった。

 それはどちらにお運びすればよろしいですか、と続けると、ようやく観念したのか、悪いねぇと男は頭を掻いた。


 庭を任されていると思しきその男は、50弱といったところか。

 年期の入るヨレた麦わら帽子に、日に焼けた赤ら顔。白いシャツとGパンは、庭仕事によるものか土で幾ばくか汚れていた。髪も目も黒いところを見るに、おそらく地元の人間であろう。

 焼けた肌は赤黒く、恰幅も良かった。袖をまくったシャツから伸びた腕も、同じく日に焼けてたくましい。運動不足のむくみとは無縁そうな、どこか筋肉を感じさせる体型だった。きっともっと若いころから、力自慢の御仁なのだろう。

 内側から溢れる力強さのようなものを感じ、話に聞いていた秋のお国の男性見本のような姿だな、と感心した。とはいえ、いまはその腰を痛めている。視線だけでそっと庭を見渡したが、やはり使用人は他に見当たらなかった。

 秋のお国は空風の吹く季節で、庭木の装いもやや侘しくなっていた。このくらいなら、この男一人でもこなせていたのかもしれない。


 場所の説明のためか、腰に手を当てつつ男が動こうとするので、どこか座ってらしてくださいと促した。広さはあるが、迷路を模したかのような複雑な春のお庭ではないのだ。口頭で説明してもらえば充分であろう。

 脚立を肩に担ぎ上げ、指示されるがままにまだわずかに葉の茂る庭木の裏へと運び込む。こんなところに置いてどうするのだと思ったが、その疑問が顔に出ていたのか、

「大丈夫大丈夫、そこなら隠れるんだよね」

と言われ、やや脱力する。この大らかさもお国柄なのだろうか。まだなかなか慣れそうにない。


 頭を掻きつつ、男はニコリと笑った。人当たりのよい笑顔だった。

「やぁどうもありがとう、助かったよ。ちょっと腰を痛めちゃってね」

「いえ、時間を持て余しておりましたのでちょうどよかったです。体を動かしていたほうが気も紛れます」

言葉に嘘偽りはなかったが、その顔を見るに気遣いと受け取られたようだった。


「用事って言ったかね、どういった用向きでここに?」

 どうやら世間話である。

 練習にはいいか、と思った。その手のものは、これまでほとんど経験がないのだ。太陽と影は1時過ぎを示したところだった。約束は午後2時、幸い時間にもまだ余裕がある。

「本日はお仕事の面接で伺いました。働いていたお屋敷からお話を頂戴しまして、これもなにかのご縁かと」

「へぇ、引き抜きかい珍しいね。でも、話し方からするとここよかもっと条件のいいとこにお勤めだったんじゃないのかい」

 まさか今現在働いているであろう人間に、前の方がよかったというわけにもいくまい。それに、建前上は帝国軍家で働いていたことになっているのである。貴族屋敷への転職なら栄転にあたろう。私は曖昧に笑った。

「どうなのでしょう。私は下働きでしたので、お給金の過多に関し詳しくはわかりかねます」

「人とのいざこざとかかい?」

「めっそうもございません。よくしていただきました」

不思議そうに見てくるので、肩をすくめるほかなかった。

 そもそも私個人としては誰にも関わっていないのに、いざこざなんてものは起こりようもなかった。それに、影武者の仕事を終えるにあたり、お手当てもそれは手厚くいただいている。馬鹿な使い方をしなければ、すでに働かなくとも生きていけるはずであった。

 とはいえ、まだ10代半ばの私が働かずに一人悠々自適に暮らすわけにもいかない。他人から見てそれがどれほど不自然な姿かくらい、ロクに世間を知らぬ私でも容易に想像がついた。


 もともと、衣食住含めすべてを過不足なく与えられてきていた。影武者をしていたころの必要物資はすべて現物支給であったし、現金をまともに手にしたのは、帝国を出る際に旦那様伝手で渡された退職金が初めてであった。

 現段階の私は、金銭の適切な扱い方はおろか、物の価値や相場も実はまだよくわかっていないのである。移動中に食事を取るにあたり、観光地化で安い食処の増えた帝国よりも、どうやらこちらの方がさらに安いらしいことは把握できたが、せいぜいその程度の認識だった。


 そしてその退職金はというと、重さも量もあり、新天地へと持ち出すのはおよそ現実的なことではなかった。

 君のものなのであまり口出ししたくはないですが、と前置いたうえで、

「一般的な金銭感覚を身に付けるまで、極力手をつけない方がいいと思いますよ。右も左もわからないうちに使いだしたら、簡単に頭がおかしくなりますよこれは」

と帝国の旦那様からも助言をいただいたので、ならばと思いその場で頭を下げ、まるごと保管しておいて貰うことにしたのだ(その際『この額を口頭で人に頼むとか正気ですか君は』との強い苦言をいただいた)。


 なので、このお国にはほぼ身一つで来たのである。一般の民もそうらしいので、まずまずの出だしであった。喫緊の課題及び目標としては、これからいただくであろうお給金に早急に慣れること、そして一般的な金銭感覚を身につけること。

 そもそも一般的な職に就くのも、この半生で初めてのことなのだ。わからないことも大いに出てくるだろう。まさしく生まれ変わったつもりで、きちんと学び、誠実に働いて生活してゆかねばならない。


 新しいお屋敷の庭師は、不思議そうにこちらを見ていた。私の髪色は大陸の中でも珍しい部類だ。きっと見慣れないのだろう。

 黒い目から逃れるように、頭の中で春のお国の大旦那様にいただいた架空の経歴をさらった。

「物心がついた頃から小間使いとして働いておりまして、成人を機に一度外を見てみてはどうかと勧められたのです」

「成人? まだ若そうに見えるが」

「今年で15になります。故郷では声変わりで男子は成人扱いでしたので」

しかしそれは、いま現在お嬢様がおられる帝国の常識ではなく、そのご出身である春のお国の話であった。

 所変わればだねぇ、こっちじゃ成人は16だ、と不思議そうに言われ、私は笑顔を作って見せた。下働きなど、愛想良しであるに越したことはないだろう。


「物心ってことは、親の代からってやつかね」

「いえ、私に親はおりません。お屋敷の使用人方に拾われまして、その伝手で小間使いとして雇い入れていただいたのです」

「……そうかい。……戦中戦後は親のない子も多いよね、うちにも幾人か似た境遇の子たちが働いてくれてるよ」

君も大変だったねえ、と気づかわしげに続いた言葉に秘かに納得した。

 ――なるほど。それで私の経歴をそう作られたのですね、大旦那様。

 人間というものは、同情心を抱いた相手には何故か警戒を怠りがちになるのである。


「御恩もありますし、働きなれたお屋敷を出るのは名残惜しいことでしたが、これもなにかのご縁かと思います。条件はさておき、雇っていただけた暁には努力を惜しまぬ所存です」

「なんだか真面目な人なんだねぇ」

と男は目を細めた。

「――あ、そろそろ時間じゃないかい? 大丈夫?」

空を見た。太陽の位置からなんとなく察した。確かにそろそろである。

 頷き、頭を下げた。

「お忙しい中、お時間を頂戴し失礼いたしました。腰、どうぞお大事になさってください」

ありがとう、また後でね、と手を上げた男にまた頭を下げ、庭の先へと歩を進めた。


 秋風にやや侘しくなった庭を通りすぎると、玄関前にいたドアマンとおぼしき使用人に、面接の者かと確認された。頷くとそのまま中へと先立って案内され、不思議な心地でついていく。下働きの面接なのに、裏口から通されないのか。

 庭や外観と違い、中はなかなか華やかな装いで、廊下の端々には必ずなにかしらの彫刻や絵画が飾られていた。

 さほど人数は多くないが、見掛ける使用人たちの表情もみな明るく前向きに働いているようで、屋敷は中も外も掃除が丁寧に行き届いていた。よいお屋敷だ。

 応接間とおぼしき部屋の前につくと、男は戸をノックした。力が強いのか音がやたら大きい。……雑だな、と内心思う。


「失礼します。面接の方がいらっしゃいました」

いいわよどうぞ、と中から返事をしたのは若い女性の声であった。

 男に促され、一人中へと入り頭を下げると、

「こんにちは」

先に挨拶をされてしまった。随分と気さくな令嬢である。

「初めまして。冬のお国よりまいりました、レオナルドと申します。本日は、どうぞよろしくお願い申し上げます」

出来る限り丁寧に頭を下げなおした。第1印象は大事である。

 礼儀正しいわねー、と令嬢とおぼしき娘はにこやかに笑い掛けてきた。

 外から見た通り、部屋もやはり広かった。大きな部屋の真ん中にまたやたらと大きな机が置かれており、向こうとこちらにそれぞれ20客ほど椅子が収まっていた。

 壁際には人が寝転がっても余るサイズのソファが3つずつ置いてあり(これが応接間の広さか?)と内心思う。


「どうぞ、座って」

机の中ほどの椅子に座っていた令嬢に、机越しの対面の椅子へと促された。

 一礼して素直に座る。イリーディアお嬢様の格好をせずに、貴族屋敷の椅子に座るのは初めてだなと思った。

 目の前の令嬢は、年の頃20過ぎといったところか。帝国におられるお嬢様より、やや上くらいの年齢に見えた。

 動きやすさ重視の国民性ゆえか、令嬢にしては身軽な装いで、ふわりとしたブラウスにデニム地のロングスカートを合わせていた。されどやはり令嬢は令嬢である、稲をモチーフに誂えられた指輪やピアスなどの貴金属はすべて揃いのものであり、純度の高そうな金細工であった。それぞれが嫌みなく、令嬢の笑顔をキラリと引き立てていた。


 慣れた笑顔をしたまま、対面の令嬢は口を開いた。

「屋敷の三女ジェシカです。いま、お父様ちょっと席を外してるの。戻ってくるまで面接は私がするからよろしくね」

「はい。よろしくお願い申し上げます」

何食わぬ顔で返事をしつつも、使用人に面接をさせないのか、まさかいつもご本人らがなさるのか? と軽く衝撃を受けた。

 大旦那様やお嬢様ならまずありえないし、帝国の旦那様だとしても、よほど退屈しておられなければご自分でなさるとは思えない。

 まさか人手が足りない? いや、貴族屋敷で人が足りないなんてことはあるまい。


 私の心情も露知らず、何でもない口調で仰った。

「冬のお国からっていったかしら? じゃあ、あなたが帝国軍家で雇われていたって子ね、ここまで遠かったでしょう? 私は行ったことがないのだけれど、向こうのお国はビックリするくらい寒いって聞いてるわ、実際のところあちらはどんなふうだった?」

「はい、冬のお国より参りました」

返答をしつつ、問われた数が多くて若干頭がクラクラした。

 春のお国も帝国も、一息にいくつもの問いかけを入れてくることはまずない。春のお国では会話とはつまり爆弾を回しあうことと同義であり、問うたぶん問われるかもしれぬので不用意に質問を投げかけることはまずないし、帝国に至っては無口が行き過ぎており、客商売でもない限り、外で知り合いと出会っても手を上げ合うくらいで口すら開かない。

 こちらは話好きが多いとは聞いていたが、想像以上であった。口を開きつつ、不自然にならぬよう浮かんだ言葉の羅列を慌てて組み立てる。


「仰る通り、こちらのお国まではやや距離がございました。夜頃あちらを出立し、明け方に到着した次第です。向こうは寒さが厳しく、この身がそのまま凍り付くかのように感じられたものですが、こちらはとても過ごしやすく快い気候ですね」

冬のお国では、下働きとしてお世話になっておりました、と言葉を続けた。うっかり言い漏らすところだった。

 問われたことはこれですべて返せただろうか、といただいた言葉を胸の中で反芻する。やや緊張を覚えた自分を自覚する。会話とは難しいものである。

 私の返答にニコリと笑った令嬢の瞳は黒く、ウェーブのかかった栗色の髪は肩で切り揃えられていた。こちらは目も髪も黒が一般的な土地なので、春の民との混血だろうかとなんとなく推測する。

 なにせ春のお国との国境にあるお屋敷である。政略的なことを考えると、充分ありうる話だと思った。


 令嬢の後ろの壁沿いには、庭師と同じくガタイのいい黒髪の男が、ソファの横にふたり立って控えていた。強面ではあるものの、肌ツヤを見るにまだ若そうである。

 やや油断の滲むその立ち姿を見るに、あのくらいなら20人いたとしても負けはしないなと少し安心する。

「あなたいくつなんだったかしら? 斡旋所から送られた資料、部屋に置いてきちゃった。結構華奢ね?」

「今年15になります。華奢でしょうか……? 体格はこれから育つかと思います」

私が華奢というか、こちらの男性の体が出来上がるのが早いのでは? と内心思う。春のお国で15なら、言及されるほど珍しい体型ではなかった。

「私の小間使いとして募集を掛けていたのだけど、普段は馬や牛のお世話とかを主にしてもらうことになるの。力仕事は平気?」

「はい、問題ありません。ご命令に従います」

特には異論なかった。雑務とて仕事は仕事である。手を抜かずやり抜くつもりだった。

「食べ物の好き嫌いはあったりする?」

「今のところ、特にはございません。だいたいのものは美味しくいただけます、辛いものも好きです」

先ほど屋台で知ったばかりの自分の情報も開示した。

 買う前に辛いよと気遣われたがまったく気にならなかったし、きっと得意なほうなのだろう。なんなら成長期も相まって、一人前では足りず食べすぎたくらいだ。おかげで腹を鳴らさずにすんでいる。

「そう、好き嫌いはないのね。いい子ね」

とジェシカ嬢は笑った。わざわざ聞くようなことだろうか。


 それからあれこれと聞かれたことは、これまでどんな仕事をしてきたのか(先ほどの庭師への返答と同じく、大旦那様に作っていただいた経歴からお話しした)今までどんなことが面白かったか、大変だったかなど、おおむね世間話の延長という感じであった。

 ジェシカ嬢は手元に紙もペンも持っておらず、聞いた返答をなにかに書き記すこともなく、なんでもないような事柄をあれこれと聞いてきた。

 屋敷の当主が来るまでとのことであったし、この令嬢なりの時間稼ぎなのだろうかと思っていたが、特に困るそぶりもなくニコニコとしたまま世間話のような質問を続けてくるので、だんだんと疑心暗鬼になってきた。質問もどんどん想定外の方向へと転んでいる。

 ……なんなのだろう、なにか裏でもあるのだろうか。


 やや不安になってきた頃、ふと部屋の戸が開き、一礼した男がまっすぐ寄ってきてジェシカ嬢にこそりと耳打ちをした。

「――そう。……でもまぁ仕方がないもの。可哀想だけど帰ってもらって? お腹が減ってそうだったらなにか持たせてあげてくれる」

かしこまりました、と下がっていく。

 ……なんだろう、と内心思う。

 様子を伺っていた私に気がつき、困ったような顔をしてジェシカ嬢は肩をすくめてみせた。

「この面接ね、来たのはあなたで5人目なの」

それが多いのか少ないのか判断がつかなかった。

「紹介状があったのはあなただけだから、だいたいはどこかから噂を聞いてやってきた飛び入りね。外では話してないのに、いったいどこで知ったのかしら」

困っちゃうわよねぇ、と軽く笑った。貴族がごく軽い感じで笑う時は、だいたいがしっかり疲れている時である。

 ご当主が席を外されているとのことであったし、私を除きすでに4人の応対をこなしていたなら、確かに消耗もするのかもしれなかった。社交が仕事とはいえ、本来関わらぬ庶民相手に対話を重ねるのは、さぞお疲れになったことだろう。

「『ここで決まらないと食べていけない』って、居座る人もたまにいて」

最初に来た人がまだ応接室から出てくれないのよね、と困ったような顔をして笑った。

 そこが応接室ならこの大きな部屋はどういった用途の部屋なのだ、と内心疑問に思いつつ私が黙っていると、ジェシカ嬢は視線を落とした。

「でも、来てくれたからと全員は雇ってあげられないの。

 戦後に私財召し上げってあったじゃない? あれで現金はゴッソリ帝国に持っていかれちゃったものだから、うちもそんなに余裕がないのよ。みんな雇ってあげられるくらい、裕福だったらよかったんだけどね」

独り言のように言葉を紡ぐと、目があった私に小首を傾げ、問うた。


「この話聞いてどう思う?」

どう、とはどういった意味だろう。

 真意を掴みかねた私の口からは、思ったことがそのまま漏れ出た。

「こちらは、この辺りでは一番大きなお屋敷とお見受けしました。遠方から仕事を探しに来た身からすれば、使用人寮があることも魅力的に映りますし、働き口として人気があるのも頷けます」

目を丸くされたが、素直に言葉を続けた。

「ただ、条件を度外視すれば、この近辺にはまだお仕事があるように感じました。

 市場の飲食店で、実際に私は幾つかの求人広告を目にしております。『こちらのお屋敷でなければ食べていけない』というのは、恐らく雇い入れて貰いたいがゆえの方便かと存じます。お屋敷の方がお心を痛められることはないかと」

ジェシカ嬢は目を丸くしたまま聞き終えると、ーーあは、と破顔した。

「あなた面白いわね! これ聞くとみんな、自分ならあれができるこれができる、頑張るので私こそ雇ってくださいって言うのよ? 方便だなんて言った子は初めてだわ」

「さようでございましたか……」

どうも一般的な返答ではなかったようである。

 会話の難しさに若干の不安を改めて覚えた私をよそに、ジェシカ嬢はしばらく楽しそうにコロコロと笑っていた。


 しかし、雇う雇わないはお屋敷側が決めることである。いくら雇われたくとも、なにを述べたとしても難しいときは難しいだろうと思った。お屋敷にだって事情がおありになるだろう。

 素直にその旨を口にすると、そうかもね、と微笑まれた。

 ジェシカ嬢は常時にこやかであった。通常、こういった方は本心が読みにくい。笑顔が真顔と同じである場合、本当に楽しい時との区別がつかないのだ。どこのお国であれ、貴族の基本姿勢は変わらないのかもしれなかった。


「ところで、いい名前ねレオナルドって」

不覚にも浮き足立つのを感じた。

「ありがとうございます、光栄に存じます」

「名前、気に入ってるのね」

素直に「はい、とても」と頷くと、優しく目を細めた。

「由来はなぁに? 聞きたいわ。名付け親から聞いてたりする?」

「本の登場人物から、と聞いております。どういった内容の本なのかまでは聞いていないのですが……」

気に入ってその名から取ったそうで、と続けると、ジェシカ嬢は手づからポットを手に取り紅茶を注いでくださり恐縮する。

 会釈しカップを取る。口にする前に無意識に嗅いだが、ご本人も同じものを飲んでおられるし、カップにも異常は見られなかった。鼻腔をくすぐる香りからも問題なさそうである。

 ありがたく口に含むと、どこか甘みを感じた。良い茶葉のようであるが、私の記憶にはない味だった。このお国の品だろうかと思う。


「――あなた、なんだか可愛らしいわね」

思わぬ言葉に、返事に窮した。

「さようでございますか……? 恐縮です」

「随分とお顔の可愛い子が来てくれたなと思ったけど、中身も可愛いのね? 私にも弟がいたらこんな感じかしら? ごはんをいっぱい食べさせたくなるわね?」

返事に窮した私に、「末っ子だからかしら、小さい頃は下の子が欲しかったの」と目を細めた。

 可愛いは成人男子を表する言葉ではないように思ったが、私も単純なものである。良い名だと言われた途端、目の前のご令嬢が急にとてもよい人間のように思えてきて、その発言も特には気にならなかった。

 ――初対面の方に言及されるほど、良い名を戴いていたのだな。


 ……年若い子を見て可愛いと思うなんてどうなのかしらねー、と独り言を述べたジェシカ嬢は、ふと振り返り壁際の男たちを見やった。

 なにか目配せをされた男たちが、ゆっくりと近寄ってくる。気づかれぬよう私は少しだけ尻を浮かせ、椅子に浅く座りなおした。

「うちの下働きはとにかく体力がいるし、力仕事よ。

 可愛くても困っていても、きちんと働けない人は雇ってあげられないの。どのくらい力があるか、少し確認させてもらうわね」

 このふたりを制圧しろということだろうか、と思う。それなら簡単そうだ。グーパンチを2つ許可していただければ、たぶんものの数秒で終わる。

「かしこまりました。なんなりと、」

言い終わる前にジェシカ嬢が男たちを促した。

 男ふたりが私の横に立った。

 なんだろう? なにか一方的に仕掛けられるのだろうか。その場合、どこまで手を出して大丈夫なのだろうか。

「このふたりはそれぞれ体重が80キロ前後あるわ。

 本採用になるかどうかの最終決定権はお父様にあるんだけれど、私名義の使用人になるものだから、一応ね。ひとり抱えあげられたら現段階での合格を出すわ」

「……?」

――? それだけ?

「おひとりですか? おふたりいらっしゃいますが」

「? ふたり?」

腕が二本あって、片腕でひとりずつ抱えられるのに何故ひとりだけでいいのだろう。

「いえ、なんでもございません。おひとり抱えればよろしいのですね」

まぁいいか、無駄に労力を割く必要もあるまい。何か理由があるのかもしれないが、私が考えることではない。


 男はどちらも私より20センチほど背が高く、それぞれ180以上はあるだろうか。

 片腕で米俵のように抱えると、恐らく男の足が床についてしまう。ならば横抱きが確実だろうと思った。男一人ならなんてことはない。筋肉でゴツゴツとした、持ちやすそうな方の男にしよう。

 椅子から立ち上がり、ゴツゴツしたほうの男に一礼した。

「失礼します」

男の脇下と膝裏に腕をやり抱えあげると、みんな目を丸くした。

「あら! 力持ちなのね!!」

「恐縮です」

「じゃあ、あとはお父様が頷けば採用ね」

ふとみると男は腕の中で顔を赤くし、両手で顔を覆い小さくなっていた。

「ご協力いただきありがとうございました。お足元にお気をつけください」

下ろし再び頭を下げると、男たちはジェシカ嬢に促され壁際に戻っていった。

 あれこれと説明をしだしたジェシカ嬢に頷きつつ、向こうからポソリと聞こえた。

「……姫抱きされてやんのー」

「うるせえー……、ビビった……」

なにか失礼にあたったのだろうか。声掛けがおかしかったのだろうか。色々と考えてみたが、よくわからなかった。


「たぶんそろそろね」

なにがでしょうか、と問う前に戸が開いた。

 ジェシカ嬢が声を張った。

「お父様ー! お庭は? どう?」

お父様、との発言に慌てて立ち上がり頭を下げる。令嬢の父とくれば、この屋敷の当主である。粗相があってはならない。

「あぁ、いいよいいよ堅苦しいのは」

促され顔を上げた。

 ――あれ、と思った。

 ノックもなく入ってきた男は、肩に引っかけたタオルの先でその赤ら顔を拭いながら寄ってきた。

「やっぱりちゃんと人を雇ったほうが良さそうだ。もう僕の手には余るよ、腰も痛いしさ」

目が合ったので改めて頭を下げると、その男は手を上げて応じた。


「やぁやぁ、さっきは脚立をありがとう。僕がこの屋敷の主人です」


 ――この方が、秋のお国の貴族3等家の主人。


 …………。庭師じゃなかったのか。

 お庭で世間話をした男であった。痛むのかまた腰を撫ぜつつ、されど浮かべたその溌剌とした笑顔たるや、私の知る屋敷の主人像とはすっかり掛け離れていた。

 貴族屋敷の主人というお方は、常に背筋がシャキッとしており、腹を刺されようが家族が拷問されようが顔には涙はもちろん汗の一筋すら浮かべず、いつもいつでも笑顔で、それは底知れぬ笑顔で常に泰然としていなさるものだと思っていた。

 少なくとも、春のお国におられる大旦那様はそうだった。

 帝国の軍人屋敷のあの旦那様も、笑顔ではあるがこんなに快活な表情はなさらなかった。


 どうも、どちらともだいぶ種類が違いそうだ。

「僕にも飲むものくれるー?」と言いながら、庭師改めご当主は私の座っていた横の席まで寄ってきた。「はーい」と軽く返事をしつつジェシカ嬢が手を伸ばしたので、私は慌ててポットを掴んだ。

 余所者である私がやるのもおかしな話だが、貴族令嬢に何度もそんな真似はさせられない。もしこの方がイリーディアお嬢様であったらと思うと、私は耐えられない。ここの使用人はなにをしているのか、壁際のさっきのふたりは、なにをいつまでも黙って見ているのか。まるで理解できない。

 脇に用意されていた新たなカップを一つ取る、欠けがないかだけサッと目視確認し注ぎ込む。机上へと差し出すと、ご当主は「どうもありがとう」と微笑み、立ったままカップを取り上げた。

 その現実が一瞬理解できず、呆然と見つめた。

 なんの躊躇いもなくカップを傾けると、その喉仏を上下させひと息に飲み干した。

 ……ここは。貴族屋敷、だったよな。


「で? どうだいジェシカ、この彼は」

何事もなかったかのように紡がれたその言葉に、私は現実に引き戻された。まだ面接の途中である。

「80キロをお姫様抱っこして平気な顔してたわ」

なら大丈夫そうだね、と笑顔になった。

 ……お姫様抱っことはなんだろう。先ほどの横抱きのことだろうか、と心の中で一人問答する。

「君は真面目そうだし、なにより親切だったしね! 採用採用! はい決定ー!」

「あらー、よかったわね! お父様ったらこれでも結構面倒くさい人なのに」

「、面倒、って。えっそんなことないよね? 別に僕、面倒くさくないよねぇ??」

突然声をかけられ、先ほどの男たちが壁際で慌てて頷いた。

「でもねお父様、私もねこの子すっごくいいと思ったのよ! 素直だし礼儀正しいし力持ちだし!」

「ジェシカは父様の話いつも聞いてくれないねぇ……」

「そんなことないわ? 褒めてくれてるときはちゃんと聞いてるもの」

ニコニコとしたご息女を前に、呆れたのかお屋敷の旦那様は肩を落とした。

 視線に気づき、背筋を正しまた私に向き直ると、快活な笑顔をつくった。

「――まあいいや、これからよろしく頼むね。慣れぬ土地でしばらく戸惑うこともあるだろうが、君も楽しく暮らしてくれたら嬉しいね」

と、バシバシと背中を叩かれ、思わずたたらを踏んだ。ドアマンのノックの時も思ったが、どうもみな力が強いようだ。

 私は、大旦那様や旦那様にこんな豪快に背中を叩かれた覚えは一度だってない。


 ――これが外の世界か……。


 いかにも親子という感じの、同じ笑顔がそこにあった。ニコニコと笑いながら、おふたりはほぼ同時に口を開いた。

「ねぇ歓迎会いつにする? お酒は飲める? 無理しなくていいんだけど、こっちはお酒もおいしくて有名なのよ! 果物が美味しくてね、それで作るの!」

「ジェシカ、彼は15って言ってたからお酒はまだ駄目だよ」

「あらそっか! そうだったわ! じゃあ食べ物は何が好き? 牛とヤギだとどっちが好き? 羊も馬も豚もいるからよりどりみどりよ!」

「こっちで食べるなら牛がいいんじゃないかい? 帝国じゃあ、あまり食べないらしいからね! おいしいのになんでだろうねぇ?」

「あらそうなの? なんでかしら? 帝国ってやっぱり変なお国ねー、あのね私ね、やっぱりこの秋の国と言えば牛だから、牛を食べてもらうのがいいと思うのだけど」

「ヤギも美味しいよー、うちではあんまり飼ってないけど食べたければ用意するしね」

「食べる物だけはたくさんあるのよ、遠慮しないでいっぱい食べてね!」


 キャッキャと笑いながら話しかけてくるおふたりを前に、情報が処理しきれず私は固まっていた。爆弾を回すとかいうのどかな速度ではない、これは強肩による手榴弾のぶつけ合いだ。

「ね?」と改めて問われ、これは果たしていつのどの言葉に対する「ね?」なのだろう……? と心底思う。

「……はい。お心遣い、感謝いたします」

礼儀正しい~~、とふたり同時に言葉を放った。

「しかしさすが春のお国の出身だねぇ! 行き届いてる! それに向こうの若い子は妖精だなんて聞いてたけど、まさか成人男性でもこうだなんてねぇ、礼儀は帝国の軍人屋敷で暮らしたせいもあるのかな? しっかりしてるねぇ!」

「本当にきちんとした子よね! でも帝国ってそんなにおっかないお国なの? 行ったことがないからピンとこなくて。とても寒いってさっきこの子が教えてくれたの。そういえば、あっちはごはんもみんな凍っちゃうってどこかで聞いたことがあったわ、本当?」

ジェシカ嬢の黒い瞳と目が合った。ご当主とお話しされていたのに、急に問われたので私は戸惑った。

「……はい。油も凍るので、料理をするにはまず凍った油を火に掛けて、溶かしてから行うのが一般的です」

「まぁ! それは大変ね!? なぜそんなに大変なところに帝国の人たちはずっと住んでいるのかしら? もっと住みやすい土地に住めばいいのに、寒いところが好きなのかしら?」

不思議ね? と小首を傾げたジェシカ嬢に、私は微笑むほかなかった。


 ……聞き取ることで精一杯で、口を挟む隙がほとんどない。

 私からすれば、こんなに膨大な爆弾を矢継早やに投げつけあうお二方のほうが、よほど不思議かつ難解である。改めて、きっちりと自信を失いかけていた。

 こんな調子で、無事、やっていけるのだろうか。


 ――あ。

 ふと思い至り、その赤ら顔を見返した。

 目が合うと、私の新しいお屋敷の当主はにこやかに笑って小首をかしげた。そのしぐさは、ジェシカ嬢とよく似ていた。

 私は、自分の出身が春のお国だとは一言も言っていない。雇い話も帝国の斡旋所伝手で来ている筈だった。


 ……脚立の折に成人が声変わりだと答えたことでわかったわけか。

 帝国の成人は確か13。こちらのお国は16。夏のお国は知らぬが、私のような明るい色の容姿は、向こうではそうそう生まれない。


 会話は爆弾を回すことと同義、情報戦なのである。のどかな新天地に浮かれ、すっかり平和ボケしていたようだ。

 まぁ私個人に関し、知られて困ることなどなにもないのが幸いであった。大旦那様まではいかずとも、貴族屋敷の主人は主人ということだろう。


「ね? あなたもそう思うわよね??」

「はい」

返事をしつつ、この国の別の意味での難度の高さに私は早くも戦々恐々としていた。晴れやかな顔で問いかけられ思わず頷いたものの、その内容を完全に聞き逃していたのだ。


 ――気を引き締め直さねば。


続.

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