第3話 元影武者、お使いに行くこと

***


 お屋敷には先程の旦那様と三女ジェシカ様、普段はお仕事で外を回られているらしい長女夫婦の4人で暮らしているそうな。

 あとは寮住みの使用人が数十人おり、それとは別に通いの使用人も数十人おり、さらにいる下働きに関しては人数がわからないとのことであった。3等家にしては人が多いような気もするが、敷地面積や所有する家畜の種類を考えると仕方のない面もあるのかもしれない。


 ジェシカ様の姉にあたる二番目のお嬢様は、何年も前に帝国との国境にあるお屋敷に嫁がれたそうで、「いまは手紙のやりとりだけなんだよね」とお屋敷の旦那様は寂しそうに仰った。

 そしてここの奥方様だが、もとは春のお国の出身だそうで、先の戦争の後にご実家に半ば強制的に離縁させられ、連れていかれたきりずっと音沙汰なしなのだそうだ。旦那様はやはりお寂しそうであったが、ジェシカ様のお声は冷ややかであった。

「きっととっくに再婚でもなさってるのよ。……お姉様たちが結婚された時ですら、お手紙一つくださらなかったもの」

いくらなんでもあんまりだわ、と固い声で言った。


 それもありえない話ではなかったが、私は黙っていた。

 筆跡まで完璧に偽装したまったくの別人と、手紙のやりとりをして暮らしている人間もあちらにはいたりするのだ。

 他国に置いてきた配偶者や子供たちからの手紙だと言われ、まさか血縁に騙されているとも思わず、それこそ年単位でやり取りを重ねていく。そのうちその手紙の相手から心配や後押しをされたからと、再婚話を受け入れてしまう。

 春のお国ではそれがお国やお屋敷の最善であるならば、そのために必要とあらば身内すら当たり前のように謀る。そういうお国だからこそ、先の戦争でも無傷ですんだのである。


 いままで私は、お屋敷のことを考えれば当主が家族に下す離縁や再婚の判断も正しいことだと思ってきた。しかしジェシカ様や新しい旦那様の様子を伺うに、道徳的に考えてあれは罪であったのだとようやく悟った。

 ……身内に騙されている者を見たことはあったし、偽りの幸せを与えられ無邪気に喜ぶ姿を哀れとも思っていたが、それきりにされた人間の気持ちなど考えたこともなかったのだ。


 黙っていた私に気付き、ジェシカ様はなにごともなかったかのように朗らかな笑顔を見せた。

「採用おめでとう! 最初は家畜のお世話をしてもらうわね? 私の手伝い仕事はそっちに慣れてからお願いするから、よろしくね」

「かしこまりました」

馬は好き? と問われ、考えるより先に肯いていた。

 あのような大きな体躯が思いもよらぬ早さで駆けていく様は清々しく、また、頼もしいものである。自分でも知らなかったが、同意したのだからおそらく私は馬が好きなのだろう。

 とはいえほとんど関わったことはない。非常時のためにと乗馬の訓練を受けたことはあったが、幸か不幸か実戦で乗る機会もなかった。


 旦那様が壁際にいた男たちに視線をやった。

「どちらか、彼を仕事場まで案内してあげてくれるかい」

さきほど私が抱えなかった、ゴツゴツしていないほうの男が挙手した。

「かしこまりました。旦那様、その者の担当は」

「馬はどう? ダグがお休みで人手が足りないでしょう?」

レオナルドも馬は好きなんですって、とジェシカ様が続けると、部屋に一瞬ピリついた空気が流れた。

「馬、ね……。訊くのを忘れてたよレオナルド、君、馬牛羊どれが好きだい?」

ジェシカ様が、うま! うま! と懸命に口をパクつかせた。

「馬が好きです」

嘘は吐いていない。

「じゃあいっか、馬で」

「、しかし」

ゴツゴツしていないほうの焦ったような声にも動じず、

「問題ないさ。ねぇジェシカ?」

晴れやかな笑顔で頷いたご息女を見て、旦那様は改めてニコリと微笑んだ。

「あんまり皆を困らせちゃいけないよ」

穏やかなお声だったが、

「ええ。もちろん」

薔薇色だったジェシカ様の頬から、すっかり色が抜けていた。


「じゃ、今度こそ案内をよろしく」

「私も行く」

「こらこら、案内にふたりもいらないよ」

目を逸らしたまま小さく呟いたご息女に旦那様が呆れた声で制止した。「暇だからお散歩に行くだけ」と答えながら、ジェシカ様はやや前かがみになりスカートを摘まんだ。ゴツゴツしていないほうが、いつの間にか音もなくお側に寄っておりその椅子を引いた。紅茶の時は動かなかったのに椅子は引くのか、と不思議に思った。

 当然のように椅子を引かれ立ち上がったその姿は、これまで私が目にしてきた令嬢たちとまるで同じであった。

 ジェシカ様は私とゴツゴツしていないほうを促し、ゴツゴツしたほうが開いた扉を出て行った。退室前に旦那様に頭を下げると、例のごとく人当たりの良い笑顔で手を振られた。


 扉を閉めるなり、こちらを見ていたゴツゴツしていないほうと目が合った。

「人は見ためによらないな、お前けっこう力あるんだな」

「恐縮です」

先ほど旦那様に返事をしたときとは打ってかわって、男は随分とくだけた話し方であった。使用人同士とはいえ、貴族屋敷の務めなのにそれでいいのだろうか。

「力仕事が多いから助かるわ」

 ジェシカ様はニコニコとしながら、我々と横並びになって歩き出した。内心驚愕するが、ふたりはそれをまったく意に介していない様子でなおのこと混乱する。

 まるで、私の見て来た常識が非常識だったような気がしてくるから不思議だ。

「ダグの調子はどう? ギックリ腰だっけ? 戻ってきたら違うお仕事してもらった方がよさそう?」

さっきからいったい誰なのだ、ダグとは。

 男が丁寧に返事をした。

「現状のままでよろしいかと。伯父の場合、仕事が変わったら変わったで変に張り切ってまた痛め直してしまうような気もしますので」

馬ならミニチュアもいるしな、と私を見て言った。

「反対なのね」

「当然です」

すげなく言い切った姿に落ち込むでもなく、ジェシカ様は口を結び軽く肩を竦めた。

「そう。ダグにはお大事にって伝えておいてくれる?」

私もそろそろお父様にお庭辞めてもらわなきゃねー、と遠い目をした。


「あ、レオナルド。ダグはね、リックの伯父上なの。ダグラス。

 馬担当のひとりだったんだけど、少し前から療養中でね。急遽あなたに頼むことになっちゃって、なんだか悪いわね」

「とんでもないです。雇い入れていただけてありがたいです」

この男はリックというのですね、と思いつつ頷く。

「リックの家はね、代々うちで働いてくれてるの。今はお母上と伯父上含めて3人ね。リックももう15年くらい経つんだったかしら?」

「ええ。年数だけで申しましたら、ルカと同じくらいかと」

 また新しい名が出てきた。話題に上る人間がいちいち多い。

 されどそれはきちんとしたお屋敷にありがちなことで、私は内心ホッとしていた。面接前に見掛けた、どこか楽しげに働く使用人たちの表情が思い出された。

 お屋敷によっては、我慢の限界に達した使用人たちが急にごっそりと辞めていくこともあったりする。長く働く人間が多くいるということは、ここはそれだけ働きやすい職場なのだろう。

 ただ、家族ぐるみが多いとなると新参者の私には幾ばくか努力が必要になるなと思った。他を知らぬ人間の集まりなのだから、排他的な側面もそのうち見えてくるだろう。うまく溶け込めねば、早々に雇い辞められてしまうかもしれない。


 ジェシカ様とリック氏はあれやこれやと話しつつ、時折私にも話を振ってきた。気を遣ってくれているのだろうが、複数人と同時に話す経験がほとんどなかった私からすれば、ひょいひょい会話する相手が変わるので話を追うだけで一苦労である。

 促されるまま使用人用とおぼしきお屋敷の裏口から外に出ると、枯草色になった牧場が視界の遥か先まで広がっており、今日の少し強い風に乗って動物たちの濃い臭気がした。

 牧場は広大であった。農耕畜産大国とはいえ、まさかここまで土地があるとは。

 迷うことなくふたりは手前の小屋へと進んでいき、扉の横で足を止め、なにかを眺めるリック氏を尻目にジェシカ様は先に中へと入っていってしまった。

 どうするか悩んだが、小屋の外から私は中を覗いた。馬房に馬がズラリと並んでいた。壮観である。中にはやや老いた馬が20頭は並んでいた。

 男は様子を伺っている私に気が付き中へと促すと、軽く見渡してため息をついた。

「誰もいねぇし……」

ジェシカ様は彼の独り言に小首を傾げた。

「? 忙しいなら先に戻ってていいわよ、この子のことは私からルカに言っとくから」

「そういうわけにはまいりません。私が旦那様に叱られてしまいます」

「平気よ、私が我儘言うせいだってとっくにバレてるんだから」


 ふたりが話すのをよそに、私はずっとソワソワしていた。

 こんなに近くに、こんなに生き物がいるなんて人生で初めての経験である。馬の顔や体は、遠目で見ていたよりずっと大きく迫力があった。そのわりにそれぞれが優しい瞳をしており、誰かが口を開くたびに小さな耳をピョコピョコと動かしていた。大きいのに、随分と愛嬌のある生き物だ。

 ジェシカ様は振り返り、私の様子をみとめると何故かクスリと笑った。

「いいのよ触っても。皆わりと人好きだし人慣れしてるから、驚かせたりしなければ暴れないし」

よかった、そんなに馬が好きだったのねー、と最初と変わらぬ穏やかな笑顔を向けてきた。

「……こんなにたくさん馬がいるところに来るのは、初めてでして」

いつまでも落ち着きなく見渡す私に、牧場の中には他にもいくつか馬小屋があるのよ、とジェシカ様は仰った。

 ならば全部で何頭いるのだと言葉を失っていると、ジェシカ様は馬房へ寄っていき黒毛の馬の首を優しく叩きやった。

「この子たちはね、お国の軍隊が解体されたときにそのまま置いていかれちゃった馬なの。外の若い馬はだいたいその子供たち。

 軍の跡地に置いておくと帝国軍に取られちゃうでしょ、だからみんな野に放ったんですって」

もとは軍馬だから、足も強くていい馬ばっかりなのよ? と誇らしげに笑った。


 大陸平定のあと、大陸にあるすべての軍隊は帝国皇帝からの命令で解体された。皇帝曰く『我々はこの大陸に生きる同志であり、もう二度と争うことはないだろう』とのことである。

 そしてそれはいつものごとく、建前であった。

 大陸内ではいまでも各地で内乱が起こっているし、各々の他国民に対する警戒心や猜疑心、また誤解や偏見もいまだなくなっておらず、差別は増長していくばかりである。

 軍の解体は言い出しっぺである帝国も例外ではなかったが、 帝国軍は大陸自警団と名を変え、治安維持の名目で大陸各地に屯所を作り他国へと潜り込んでいった。

 当然、その屯所および自警団は元帝国軍人のおさめるところである。軍の解体された他国の監視を、各地で堂々と行うことが可能になったわけだ。

 それは事実上の大陸統治であった。

 帝国の旦那様はその元帝国軍人の一員であり、そして現役の大陸自警団員である。他国に追いやられず帝国内に留まった、時代の風に乗るのがうまい方だ。


 リック氏はさりげなく横から餌を差し出し、黒毛の馬からジェシカ様への興味を引きはがしつつ、口を開いた。

「余裕のあるやつだとか、商売したいやつだとかが戦後に必要なだけ連れて行ったらしいんだが、皆そんなにたくさんは飼えないからな。残った馬はそのままお屋敷で預かったそうだ」

リック氏の言葉に、ジェシカ様は頷いた。

「でもこれだけいると、さすがにうちでも持て余しちゃってね。もったいないから、ロバとかと同じように地元の人に貸し出したりしてるの。

 また改めて説明されると思うけど、もし借りに来る人に行き会ったら対応してあげてね」

1日だいたいこれくらいな、とリック氏から提示された額は、まだ相場をよく知らぬ私からしてもわかるほど明らかに安価だった。

「ロバはうちのだけど、馬はもともとお国のものだったわけだしね。拾っただけだから、なにせ元手がかかってないでしょう? 餌代で赤字なんだけど、お父様はお商売にする気が最初からなかったみたい」


 ――なるほど。ノブレスオブリージュの一貫か、と思った。

 お屋敷を訪れる前、この近辺で情報収集しながらずっと感じていた疑問点が、ようやく繋がって解消した心地がした。

 地元の人間から、お屋敷に対する悪口をほとんど聞かなかったのだ。


 基本的に、どの国であれ貴族は庶民の嫌われ者である。毛嫌いされていると言っても過言ではない。

 理由は多々あると思うが、根底にあるのはきっと『普段なにをしているのかわからない金持ちが偉そうにしているから』だろう。

 そもそも貴族はいちいち人前で『時間がない、忙しい、大変だ』などとは言わない。それは処理能力の低い証であり、恥ずべき言い訳だからだ。

 同じ貴族にさえ言わぬようなことを、領民に零すような出来損ないはまずいない。それゆえ、なにをしているのか窺い知れぬのも当然と言えば当然である。

 だからこそ忙しい合間を縫い、金を捻出し寄付をしたり壊れた橋を直したり遠方まで視察に行って話を聴いたりし、傍目から見てわかりやすい仕事もなんとかこなしていくのである。


 そして、家畜の維持には様々な負担が掛かる。農耕畜産大国であるこのお国の民ならば、それがどれほどの負担か容易に想像できるはずである。

 牧場や小屋の整備や餌代はもちろん、それを世話する者たちの人件費だってばかにならない。それらを踏まえた上で破格で貸し出しているのだから、ジェシカ様の仰る通り旦那様は採算を取る気がないのだろう。地域住民に還元する目的であることなど、もはや疑いようもないのだ。


 加えて、貴族教育をきちんと施されていると思しきジェシカ様が使用人に対して気さくであったこと。そしてこちらのご当主があのような格好でお庭に出られ、声を掛けられたからとはいえ私のような見ず知らずの人間にも返事をなさったこと(使用人候補の偵察も兼ねていたのだろうが)。

 あれらもおそらく、余計な反感を買わないための工夫の一つと見て間違いないだろう。こちらのお屋敷では、あえて庶民的な振る舞いをなさることで地域住民と良好な関係を築いてきたのだ。

 春のお国や帝国のお屋敷では、とても見られぬことであった。お国やお屋敷が違うだけで、こうも対応が変わるとは。面白いものだな、と思うと同時に感服した。


 リック氏の影ながらの努力も空しく、黒毛の馬が小さく耳を動かしながらジェシカ様の後ろ髪をつつきはじめた。きっと構ってほしいのだろう。ジェシカ様は気まぐれにそれに応じ、優しく撫ぜた。

「使用人の中には休憩時間に乗って牧場の中をお散歩したり、競争したりしてる人もいるから、あなたも気が向いたら乗っていいわよ」

お世話しながら気の合う馬を見繕っておくといいわ、と目を細めた。


 ふと小屋の外から、のどかな鼻唄が聴こえてきた。

 なんのためらいもなく戸が開き、入ってきた癖のある栗毛の若い男が我々を見て情けない悲鳴を上げた。

「……っ、なにしてんですか皆して……」

声に反応して馬たちの耳が軒並み立ったので、思わずちょっと笑いそうになり慌てて口角に力を入れた。このお国に来てからどうも気が緩んでいる。

 私に目を止めたその栗毛の男は、菫色の瞳をまん丸にした。私が頭を下げ口を開く前に、男が発する方が早かった。

「、――妖精?」

ジェシカ様が呆れたような声を出した。

「男の子よ、服見ればわかるじゃない。今日から入った新人さん、ルカも面倒見てあげてね」

これがさっき聞いたルカとやらか、と思う。ジェシカ様と同年代に見えた。

 説明されてもなお、男は訝しげな顔をした。

「……はぁ、面倒を。わかりました……。男……?」

「これが見た目に反して力もあるみたいでな、ジャン抱えてケロッとしてた。それも姫抱きで」

その横抱きのジェスチャーに、栗毛の男は肩を震わせた。

「なにその面白い絵面。写真ないの?」

「ない。今日一番面白かった」

同じくらいの期間を働いていると述べていた通り、年齢差があるのにふたりの話し方は私の見る限りほぼ対等であった。仲も悪くなさそうである。

 ジェシカ様が首を傾げた。

「ギルはいないの? いっぺんに紹介できればと思ったんだけど」

「表の札だとここになってたのに、あいつどこほっつき歩いてんだ?」

「……そういや、朝イチに馬返してもらいに行ったきり戻ってきてないな。どこで油売ってんだか」

簡単な事付けくらいなら与るけど? いや、いい。大した用じゃない、と軽いやり取りをすると、リック氏はちらりとジェシカ様を見た。

「では、戻りましょうか。旦那様がお寂しがるといけません」

「……いま来たばかりじゃない」

お顔が明らかに曇ったが、リック氏は断固として首を振った。

「伯父とギルがいないぶん忙しいでしょうし、話相手をさせている場合ではございません」

慣れているのか、問答しながらあれよあれよという間にジェシカ様を馬小屋の出口まで促していった。

「……。ギルがサボるせいだわー……」

「仰る通りです、後でルカが注意しておきます」

「俺かよ」

開けられた戸を出つつ、笑顔で振り返りひらりと手を上げた。

「じゃあ、頑張ってねふたりとも」

「はい。お忙しい中ありがとうございました」

「敷地内だからって、あんまりプラプラしてたら駄目ですよ」

「……。ルカまでリックみたいなこと言う」

またね! と愛想よく手を振ると、リック氏を伴いお屋敷へと帰って行った。つくづくよく喋る国民である。


 栗毛の男は頭を掻きつつ寄ってくると、まじまじと私の顔を見直し、なお訝しげな顔をした。

「……。……男なんだっけ」

「男性です。後ろも刈り上げていますので、ただの刈り上げ男かと」

はー? と眉根を寄せた。

「なんでそんな顔して刈り上げてんの」

「顔のつくりと頭髪はなんら関係ないかと存じます。こちらでは皆そうされると伺ったので、それに倣った次第です」

 影武者の任を降りるにあたり髪をばっさりと切り、さらにこのお国に来てから散髪屋(なんと二軒しかなかった)に入り、『こちらの男性風に整えてください』とオーダーしたら後方下部を刈り上げられてしまったのである(バリカンのあの音と感触の不快さは筆舌に尽くしがたく、この髪型にすることはもう二度とないだろう)。

 似合う似合わぬはさておき、人生初の短髪は洗髪も乾燥も手入れもすぐに終わり大変快適であった。

 髪が短ければ頭というのはこんなに軽いのか、背中にあたる太陽はこうも暖かく心地よいのか。日々見つかる世界の新しさに、最近はずっと感動している。


 それと同時に、これからも続くイリーディア様の御身の大変さにも思い至り、胸が痛んだ。

 春のお国では、髪の長いことが良家の出である証だ。お嬢様の御髪は、向こうの基準で一番美しいとされる腰まである。お嬢様ご本人の意志で短くされることは、きっと生涯ないだろう。

 ……帝国へ下られてもなお、この爽快さを体感していただけないとはな。


 男は不思議そうに私を見ていた。

「確かに野郎の声だ」

「先日、声変わりも終わりました」

 こちらに赴いてから面接まで2か月あり、その間にすっかり終わったのだ。いまは喉の痛みもだいぶマシになり、話しづらい感じもなくなり快適極まりない。

 その数か月間、私は帝国の旦那様の助言に従い、広大な秋のお国を見て回ってきた。

 秋のお国は景観がとても豊か、そしてのどかなところで、それも春のお国と違い気候だけではなく人柄も大らかで食も美味。利便性が良いとは言い難く、少しのどかすぎるくらいだが、風土の好ましい牧歌的なお国であった。

 大陸内のすべての土地を知っているわけではないが、水面下で常に静かな勢力争いが続く春のお国と、まだまだキナ臭い香りが漂う帝国で暮らした私からすると、“策略”や“陰謀”という言葉がここまで似つかわしくない土地もないと思う。

 考えたこともなかったが、極楽や天国がもしあったなら、ここと似たところなのかもしれない。


「声変わりなぁ……。お前出身どこ? この辺の人間じゃないよな」

やや悩んだが、ここの新しい主人にバレているのだから答えても問題なかろう。齟齬を生じさせる方が後々面倒そうだと思った。

「生まれは春のお国です。先日までは、冬のお国で働いておりました」

あー……、と声を漏らした。

「春か。あっちは美男美女多いもんな。てか帝国から来たのか。じゃ、なんでこんな田舎に?」

観光地化であっちのが仕事あるんじゃないのか、と続く。

「こちらは食事が美味しいと伺いまして、いま思えばそれが後押しとなったのかもしれません」

楽しみにしてまいりました、とそれらしいことを述べると、ようやく納得したのかその顔から笑顔が溢れた。

「あー、飯か! 飯ならここが一番旨いよな」

その笑顔を見て、なぜだろうと今さら思う。

 この秋のお国という場所は、髪も瞳も黒色の人間が多い。ジェシカ様のように髪だけ栗毛だったり、目だけが菫色ならだいたいが春との混血だ。

 そのどちらも黒くない色は珍しかった。もしかするとこの男は、春のお国の生まれかもしれない。それか、春の民の血が濃く混ざっているか。春の民は栗毛が多いのだ。


 帝国におられるイリーディアお嬢様は(ついでに言えば私を含めたその影武者たちもだが)、大陸では珍しい部類の姿だ。

 かつて“春らしい”と形容された、“淡い陽光の髪に菫色の瞳の人間”は、もともと春のお国くらいでしか見かけない色だったらしいのだが、他国民との結婚を繰り返し混血が圧倒的に増えたいまや、国内でもほとんど見かけなくなった。いまや春の国の王族ですら、混血に混血を重ね栗毛が大半を占める。

 大旦那様とイリーディアお嬢様は数少ない“春らしい姿”であり、その希少さもあってお嬢様は王太子殿下の婚約者にと望まれていたのだ(無論、乞われた理由はご容姿だけではないが)。


 腰に手をあて、男は軽くため息をついた。

「んーと、とりあえず仕事だな。俺ルカな。ここで働いてる歴だけはまぁまぁ長いから、仕事の他にも困ったことあったら適当に聞いて」

リック氏が同じくらいと述べていたから、勤続年数は15年ほどか、と心の中で補完する。されど男はどう見てもジェシカ様と同じ年頃である。若く見えるのか、はたまた齢一桁から働いているのか。

「あと俺のことは気軽に先輩と呼んでくれていい」

「はい、ルカ先輩」

「すごい素直だねお前。名前は?」

改めて頭を下げた。

「申し遅れました、レオナルドと申します」

「長いな、貴族様みたい。レオでいいか」

顔に笑みを保ちつつ、なにがいいのかてんでわからなかった。

 手前勝手に略さないでもらいたい。

 この名は、他でもないイリーディアお嬢様がつけてくださったものであり、新しい主人であるジェシカ様にもお褒めに与ったものである。


「俺とお前と、あと何人かがこの小屋担当になるかな。こないだひとりちょっと腰をやっちまってな、たぶんその穴埋めだろ?」

「ダグラスさんとおっしゃる方が、ギックリ腰になられたそうですね」

よく知ってんなと感心され、旦那様がたからそのように伺いましたと返事をした。

「馬に飽きたりなんだりしたら、上と掛け合えば担当変えてもらえるけど、結局はなにかしらの家畜の世話だ。どのみち外仕事に変わりないから変な期待は抱くなよ」

「? 期待とは?」

つい、話を遮り疑問を口にしてしまったが、先輩は意に介することなく答えた。

「屋敷の中で働かせろって言いだすやつがいるんだよ、たまに。

 生憎そういうのは先祖代々の人間だけだから、俺やお前みたいな余所から来たのは外で固定。まだ信用ないやつほどお屋敷から遠くの担当になる」

期待外れだったか? と述べられ、私は首を振った。

 こちらには一般生活の体得のために来たのだ。職場が中だろうが外だろうが、どうでもよいことであった。

「精一杯努めますので、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」

「おぉ、ちゃんとしてんな。よろしくな、頑張ろうな」

頑張ります、と頷いて見せると、ほんと素直だなお前……と言葉を失われた。


 ルカ先輩は教え方がかなり丁寧であった。

『これはあっちの建物のなんとかの前に4つずつ横に並べる、あんまり積むと崩れてくるから積むなら3つまで』だの、『このエサはなんとかの栄養が高いから与えすぎるとよくない、量でいえば1頭につきこのカップでこの辺まで』だの、一つ一つがいやに具体的である。

 働いている期間が長いと本人も言った通り、新入りの指導にも慣れているのか説明に手際のよさが伺えた。

 大らかなこちらのお国の人間にしては、なかなかキッチリしている印象である。だからこそ、ジェシカ様も指導を任せたのだろう。


 ひと通り流れを説明してもらったところで、小屋の中にあったパイプから『いたら誰かお使いしてきてー!』と突然声が響いた。

『買う物は――、』

こちらの返答の前に、品名と個数がそれぞれ続いていく。いくつか言い終えると『以上厨房より、よろしくー!』と続き「わかったー!」と先輩が声を張った。

 黙って見守っていた私を見やると、先輩は鈍く光るパイプを軽くつついた。

「お屋敷と繋がってるんだ。基本的にこっちからは連絡しない。たまに今みたいな感じで買い出し頼まれるから、行けそうなら適当に返事する」

で、返事したしキリもいいから俺らは今から買い出しに行くぞ、と言われ頷く。


 ふとこちらを見た。

「ちなみに、言われたもの覚えてるか」

「? はい」

促されるままに列挙していく。

「記憶力いいな。できるやつ少ないから助かる」

 しかし、覚えたはいいものの私にはとてもできそうにない。

 お使いは6つほどあり、そしてそれぞれ条件がいくつかあり『あるだけ買ってきて』だったり『高ければいらない』だったり、即記憶即対応を求めるにしてはやや難易度の高い内容であった。

 おまけに高い安いの判断がつかないいまの私では、お使い一つ満足にできないという事実にやや愕然とした。

「言われたやつを市場とかで買ってきて、以上なんとか~って言ったとこに持って行くだけ。今回なら厨房。

 後で店からお屋敷に請求がいくから、基本的に行くときは金も持たずに手ぶらでいい。ここまでで、なんかわかんないこととかあるか」

「買う品の名は覚えていますが、どれも見たことがないので実物がわかりません」

「おぉ、想定外のやつだ」

そっか他国から来たんだったな、と先輩は頷いた。

「そのわりに言葉は流暢だな。なんか丁寧を通り越してるけど」

「日常会話程度ではございますが、春の国出身ですので」

あーそっかそっか、と軽く納得された。


 春のお国は社交が要。平民であれ隣接国の言語の習得は必須教養であり、自国と帝国と秋のお国、つまり夏のお国を除いた3か国語は喋れて当然とされる。

 さらに貴族ともなれば、他国の階級差による習慣や言い回しの違いなどの把握も必須である。

 とはいえ、これもあくまで建前上の話だ。

 語学が苦手な者や社交の苦手な者も、春のお国であれもちろん存在する。そういった者は幼少のうちに言語を絞って習得し、自国内で無教養の烙印を押され嘲笑の的とされる前に、早々に他国民と婚姻を結びお国を出ていくのだ。


 イリーディアお嬢様は他国好きかつ異文化好きで、語学に関しても習慣に関してもそれは熱心に勉強をされていたものだ。

 ……だが、人見知りであり口のきけぬ期間が長かったこともあり、心ない噂の類や厭味や陰口には散々晒されてきた。

『本当は他国の者と満足に話せぬほど無教養なのではないか』

(大陸内でお嬢様に読み書きできぬ言葉などなく、事実無根である)

『美しいと言われるが、実物は違うから恥ずかしくて出てこられぬのではないか』

(少なくとも、こんな心ない言葉を醜悪な表情で吐く人間とは比較にならぬほど姿も心も美しい方である)

『貴族の子女であるのに社交場にも出てこられぬとは、ご当主の心労はいかほどか。少しは恥ずかしく思わないものか』

(それはいたく気に病んでおられたが、他家の者に言及される云われはない。余計な世話である)

 反論の一つもできぬ自分の立場に、それは悔しい思いをしたものだ。

 貴族の1等家令嬢すら、そのような目に遭うのである。向いていないと悟った庶民が、早々に逃げ出す算段を立てるのも理解できる。


 夏のお国の地方民族の言葉から帝国商人の隠語まで、イリーディア様はよく覚えておいでだった。お部屋に籠られてなお、いや、籠られたからこそお嬢様は勉強に没頭されたのだろう。

 帝国へ嫁がれた後も、言葉はもちろん生活習慣でもお困りになることはなく(唯一おわかりにならなかったのは、帝国の旦那様が犬猿の仲であるご同僚に放った口汚い罵倒の言葉のみである)、戸惑われることすらなかった。


 されど私は所詮、元のつく影武者である。残念ながら知識教養ともにその足元にも遠く及はず、任を解かれたいまも困惑してばかりだ。

 イリーディア様ならおわかりになったのかもしれないが、国によってこうも違うのかというほど、さきほどのお使い内容は知らぬ名ばかりだった。

 聴いたまま覚えたので発音はわかるが、実物がわからないので脳に映像が浮かんでこないのだ。その名が示すのは肉なのか、はたまた野菜か香辛料か。まったくピンとこない。

「教えながら回るから、しばらくは一緒に出て覚えていくようにしたらいい」

その辺はちょっとずつでいいからなと言われ、その親切な申し出にありがたく頷いた。


 馬小屋を出ると、先輩は振り返り戸の横に掛っていた木彫りの板を掛け変え指で示した。

 『お使い』と彫られた木札の下に、先輩の名の彫られた木札が掛かっていた。その二つ横の木札には『休暇』とかかっており、その下にはいくつかの知らぬ名が刻まれた札が下がっていた。

「これはこんな感じで使う。『休憩』だとか『牛小屋』だとか、なにかしらの札はだいたいあって自分の札をその下に下げる。ここから離れる時は、どこに行くってのを他の奴らにもわかるようにしとくのが決まりだ」

毎回忘れるようなやつもいるけどな、と言いながら、『ギル』と書かれた札を『貸出回収』の下へと下げ直した。

 どうやら、ギルとやらは若干うっかりしている者らしい。


 促され小屋を出ると、人が踏みしめてできたと思しき轍に沿って歩き出した。轍を無視して突っ切ると、服が引っ付き虫(虫といいつつ植物の種子のことだそうだ)だらけになると言う。

「荷物が少ないときはだいたい徒歩。多いときはロバ連れてったり、急ぎなら馬に乗って行ったりする。でもまぁ乗りたいから乗ってくみたいなやつもいるから、その辺は人によるかな。お前も好きにしたらいい」

「自由なのですね」

「余所とだいぶ違うだろ。ここのお屋敷はちょっと変わってるんだ」

同意するほかない。

 外の世界に詳しくない私から見ても、ここのお屋敷は異質だ。(少々人を信用しすぎでは?)と私なぞはどうしても不安に思ってしまう。

 その他、あれこれと説明をもらっているうちに、牧場東の柵の出口へと辿り着いた。厳つい顔をしたガタイの男に先輩が挨拶をしつつ「厨房のお使い」と伝えると、「いってら」と想定外の軽いノリで男は戸を開いてくれた。

 面接前に私が歩いて来た道に出て、道なりに行くと市場へと辿り着いた。夕飯の買い出しのためか、人影は多かった。


 ルカ先輩は躊躇いなく野菜の並んだ屋台に向かうと、急に愛想がよくなった女店主に、頼まれていたいくつかの名前を上げた。わからなかったあれこれは、どうやら野菜の名だったらしい。

 手際よく麻袋に詰められたそれを、受け取るなり私に渡してきた。

「この野菜がさっき3番目に言われたやつな」

荷物持ちかと思ったが、中身を確認させるためだったようだ。

「あとそれを一籠」

「はいはい」

今度は、先ほどの袋と交換する形で籠を渡された。真っ赤な拳ほどの大きさの実がゴロゴロ乗っていた。

「これは香辛料になるやつな。香辛料専門の店もあるけど、だいたいの店に置いてあるから俺はついでに買ったりしてる」

「香辛料……。これは木の実ですか?」

「そう。乾燥して擂り潰して香辛料にするから、そのまま食うことはまずない。擂ってあるのも売ってるけど、香りが落ちるからお屋敷では干すところからやって、使うときに擂ってる」

なんだか大らかなお屋敷だと思っていたが、その辺に手間を掛ける辺り急に貴族屋敷らしいなと思った。

 ルカ先輩は実を軽くつついた。

「見た目ほど固くないから気を付けろよ。潰すと赤い汁が出てな、ついたら面倒だ。天日干しにして軽く払ってから水で流したら落ちるけど、服だろうが肌だろうが擦ったらもう何やっても落ちない」

「承知いたしました、気を付けます」

だから籠で運ぶのだろう。袋の中で潰れたら目もあてられない惨事である。


「で、次はあっち」

促され角を曲がった。

 キャアァァ、と甲高い悲鳴が上がった。

「、なんだなんだ、うわ、」

 見やった先には倒れる女性。薄茶色の羽織の人間が馬上から手を伸ばし、荷物をひったくったところであった。

「っおいあんた何してんだ!!」

ルカ先輩が声を張ると、馬上の男は荷物を抱え直し馬の尻を叩いた。

 市場から一本ズレただけでこのひと気のなさ、そして男の動きには慣れが見てとれた。常習犯だと直感的に察した。

 咄嗟に自分の抱えていた籠から、一つを手に取り鷲掴んだ。力加減を誤ってしまったようで、ピシリと手の中で亀裂の走る音がした。構わずその背に振り抜く。男の羽織の裾と馬の尾に当たって弾け、ぶつけられた馬が驚いたのか嘶いた。なんの罪もない馬に心の中で詫びる。

 馬の声に反応し、市場の大通りから買い物客が顔を覗かせ、顔を出したほぼ全員が目を丸くした。引ったくりの薄茶色の羽織りはこの辺りでは珍しく、余計に目を引いていた。その人影スレスレのところを、男の乗った馬が縫うように器用に駆け抜けて行く。赤く染まった馬の尻尾から、赤い汁が滴り地面に跡を付けていった。

 走り去る男と馬の背を呆然と見送っていた婦人のもとへと、ルカ先輩が慌てて駆け寄った。

「奥さん大丈夫か、怪我してないか?」

「……荷物が、」

ぽそりと呟いたと思ったら、ボロボロと泣き出したので先輩が慌てた。

「っあー、っええと! そうだな、とりあえず自警団に届け出して」

集まってきた野次馬が『自警団呼んでくる』だの『足は? 医者呼んでくる』だの、それぞれ手分けして走っていった。


 先輩に倣い、その横へとしゃがみ込んだ。女性は俯いてさめざめと泣いており、胸がざわついた。

「大切なものでしたか」

「……娘の、婚礼用の品で」

思わぬ品に先輩は絶句した。目が合ったが、困ったような顔をして軽く肩をすくめただけであった。

 それはそうだ、相手は馬に乗っていたのだ。

 一応目印はつけておいたが、正直なところ捕まえられるとは思えなかった。女性も我々も身一つで来ており、馬相手に走って探すなんて時間と労力の無駄だ。

 通常なら、自警団に被害の申告だけして泣き寝入りだろう。実際問題、この女性もそれがわかっているからこそ泣いているのだろう。取り戻せないことくらいわかっているのだ。


 野次馬はたくさんいたが、誰も追っていそうにない。

 いや、そもそもこの判断も正しいとは言えない。徒労に終わる可能性も高いが、行くなら早めでなければ意味がない。ぐずぐずすればするほど、向こうには好都合なのだから。


「――取り戻してまいりいます。ここでお待ちください」


「え。おい、レオ?」

戸惑った先輩の声を無視して息を吸う。声を張った。

「どなたか馬をお貸し願えませんか! 先程の引ったくりを追います、足をお貸し願いたい!」

おぉ、と若干歓声が沸いた。追うと表明したくらいで喜ぶなんて、どれだけこの土地で見逃された軽犯罪があったのかは考えるまでもなかった。

 のどかな土地はのどかな土地なりの、よくない側面もあるようだ。


 野次馬のひとり、20代半ばほどの若い黒髪の男が手を振り、連れていた馬の手綱をなんの躊躇いもなく渡してきた。

「使え! ここいらじゃたぶんこいつが一番速い!」

「ありがとうございます、用が済み次第お返しします」

春のお国ならば、担保もなしに人から物なんてとても借りられない。人のよさもお国柄なのだろうか、と状況にそぐわぬことを思う。


 頑強な足のまだ若いその馬は好奇心に溢れ、瞳をキョロキョロとさせていた。

 確かにいい馬だった。その辺の馬になら簡単に追いつけよう。先ほど見た馬は幾ばくか老いているようにも見えたし、うまく走れば捕まえられるかもしれない。

 今までノロノロと歩いていたのが詰まらなかったのか、脇腹に合図を送るだけでご機嫌になり、まさに飛ぶように走り出した。もしかしたら、帝国の旦那様の愛馬に負けないくらい早いかもしれない。


 通りすがりに目を丸くされながら、追いつくべくスピードを上げ東へ走らせていると、すぐに人けがなくなった。栄えているのは国境であれ列車の通る場所だけだ。

 滴った赤い跡を追ってきたが、実一つでは無理があったようで早々に途切れてしまった。ここから先は勘が頼りである。

 あの羽織はおそらく砂塵除け。ならば夏のお国の砂漠か、その付近から来たのかもしれない。国境を越え、そのまま逃げおおせるつもりだろうか。春のお国の検閲はかなり厳しい、あのような男を迂闊に入れてしまうことはあるまい。

 ならば、向かうは観光国なりたてで検閲の甘い帝国か、どこも経由せずに砂漠へと向かう二択。持ち帰るのではなく、売って帰るつもりなら帝国に向かうはず。北東へと馬首をめぐらせた。


 黄金色の稲穂がそよぐ脇、人と家畜の踏みしめた轍をなお駆け抜ける。

 ……物語の中の世界のようだな、ともう何度思ったか知れぬことを思いながら、改めて感心する。春のお国にも帝国にも、こんな景色はなかった。


 ――。いた。


 幸い勘が当たったようで視界の先に薄茶の羽織と、赤く染まった馬の尻尾がひらりと舞うのが見えた。

 薄茶色の羽織の、おかしな荷物の抱え方をした男が馬を走らせていた。馬の腹を蹴りさらに速度を上げ追い付くと、その左にぴたりと並走した。

 男は横目でちらりとこちらを見たが、黙って馬の脇腹を蹴り加速しなおした。同じように借りた馬の脇腹を蹴る。

 こちらの馬のほうが若いし、まだまだ余裕があった。逃がす理由はない。


「突然のことで申し訳ございません。重ねて失礼を承知で伺います。お手持ちの物は盗品ではないでしょうか?」

「……。ンなわけねぇだろ」

発音にやや訛りがあった。この辺りの人間ではない。

 こののどかなお国で、スリは見かけても力任せの引ったくりなんてそうそう見かけない。自警団も平和ボケしており、すべてが終わったころにやってくる。今まで、さぞ仕事はたやすかったことだろう。

「では、なぜそれほど急いでおられるのでしょうか。

 少しお時間をいただけませんか。盗まれたのは娘さんの婚礼の品だそうで、きっと大切なものでしょうから、もし盗品であればどうか持ち主にお返し願いたいのです」

「……ふざけんなよ優男が」

 虚を突かれた心地がした。

 そう言えば、私が気を悪くするとでも思ったのだろうか。主人の容姿に似ているというのは、我々にとって一番の誉であり喜ぶべきことであった。実際問題、いまこう言われても微塵も腹が立たなかった。


「ふざけているのはどちらでしょう。先ほどのご婦人は、荷物を奪われた拍子に転んでしまわれました」

「はァ? 知るかよ、盗られるようなマヌケが悪いんだろ?」

「その理屈でいくと、これから私にその手荷物と命を奪われる貴方もマヌケということになります」

ようやく男はこちらを見た。

「……。なにって?」

――侮ることの愚かさを、その身をもって知るがいい。


「死因は落馬事故などいかがでしょうか、と申しました。

 なに、ご心配には及びません。この手のことは得意なのです。貴方がどのような不審死を遂げられたとしても、不幸な不慮の事故に仕立て上げる自信がございます」


 真横からその片足を蹴り上げ、やや浮いた胴体を突き飛ばした。男はバランスを崩し、走り行く馬から振り落ちた。馬は男を置いて走り去って行った。あの哀れな馬は盗品とは聞いていないので、放っておいていいだろう。

 己の馬の手綱を強く引き無理やり制止させ、男の膝から跳ね上がり勢いをつけて落ちてきた荷物をなんとか抱え取る。柔らかな感触と重みから、中身が割れ物じゃなかったことに安堵する。布物だろうか。

 急に制止され、ややストレスを感じ不機嫌になった馬の背を軽く叩いて宥めつつ、痛みで転がり呻く男を見下ろした。受け身は取れたらしい。


 人を見た目で侮ると痛い目以上の目に遭う。

 これは春のお国の常識である。どうやら他国にはないものらしい。


 転がったまま、尻をさすり続ける男と目が合った。

「どうやら強い悪運をお持ちのようですね、お元気そうで安心しました」

返事をできぬ男に、言葉を続けた。

「これから貴方が取れる選択肢は二つほどあります。

 無駄な抵抗を重ね私に捕まり馬で市中を引きずり回られ無惨な死体となりその罪を償うか、自らの足で現場に戻り貴方に荷物を取られ足を捻った女性に頭を垂れて謝罪するか。どちらがよろしいですか」

意味を掴めなかったのか、男は口をパクつかせた。

 口数多くまくしたてられて戸惑っている。この国の者ではない、やはり砂漠の者だろう。


「引きずって戻る方が早いと思うのですが、お借りした馬をこれ以上疲弊させるのも忍びありません。私はどちらでも構いませんので、そちらのご都合に合わせます。お好きな方をお選びください」

歩きますか死にますか、と述べると男は慌てて立ち上がった。

「どこも骨は折っていませんか? 歩けそうでしょうか?」

「……。あぁ、うん大丈夫ぜんぜん、ぜんぜん」

目を白黒させたまま、なんとか頷いた。

「それはよかったです。では参りましょう。

 逃げる素振りを見せ次第、偶発的な事故に見せかけてそのお命をもらい受けます」

何度も捕まえ直すよりその方が早く済みますので、と続けると男は何度も頷いたので満足した。


 ――犯人確保。盗品も確保。

 これで私も、いただいた名に恥じぬ善良な一般市民である。


 痛むのかひょこひょこと不器用に歩く男を連行して戻ると、先ほどの馬を貸してくれた男と、私が置き去りにした籠や買った品を抱えたルカ先輩がなにやら話し込んでいた。ふたりはこちらに気がつき、一瞬目を丸くすると手を振った。

「おー、マジで捕まえたの!? 馬貸したかいあったわ!」

「お前の馬じゃないだろ」

と、先輩がバシリと肩を叩き突っ込んだ姿を見て血の気が引いた。反射的に若馬から降り、深々と頭を下げた。

「、このたびは、誠に申し訳ございませんでした。

 お使いの品を一つ駄目にしてしまった挙げ句、預かっていた品を先輩に押し付け独断で単独行動を、」

目を丸くされた。

「そんなのいいだろ別に。お手柄だったな」

ジェシカ様ならむしろ褒めてくれんじゃないか、と手をヒラヒラとされ、その横で聞いていた黒髪の男が真顔になった。

「なら俺がドつかれたのおかしくね? 馬がいてこそじゃん、人助けになってんじゃん」

「馬返してもらうのに何時間掛かってんだ」

お叱りを受けるかと慌てたが、(私には)穏やかなもので安堵した。

「お屋敷の馬だったのですね、どうりで見事な駿馬で。お陰様ですぐに追いつけました」

 帰りは羽織の男に合わせて歩いただけであったが、走った余韻が残っているのか借りた馬はご機嫌に戻っていた。馬の背を撫ぜつつ礼を言い黒髪の男に返すと、そのままの流れで項垂れていた男を女性の側に付いていた自警団に引き渡した。


 数人いた自警団員は皆、帝国出身と思しき髪と瞳の色であった。されど帝国男とは思えぬ緩み切った表情で、どう見ても平和ボケしていた。

 こうも穏やかなお国に住むと、あの不愛想な帝国男すらこうなってしまうのか、と私は薄ら寒い思いを抱いた。

「はいはいどうも。表彰状とかいる?」

「結構です」

紙切れなぞもらっても嬉しくもなんともない。そんなものを書く暇があるなら、すべき仕事をちゃんとしてほしい。治安が悪いのは、しまりのないここの自警団の責任である。

「でもよく捕まえられたなー、コイツ馬乗ってたんだろ」

でまかせでいいか、と思った。

「お借りした馬がよかったのです。それに、『盗品ではないですか?』と後ろからお声掛けしたら、吃驚したのか落馬なさいまして」

男が形容に困る顔をして猛然とこちらを見た。目があったので微笑んでやると、慌てて目を反らし深く首を上下させた。

「その後は、観念したのか素直にここまで歩いて戻ってくださいました」

と述べると、へぇと頭を使ってなさそうな声が返った。

 言葉通りに報告書を書くのだろうな、とそのペンの動きを追った。杜撰なものである。

「縛ってもないのによく言うこと聞いたな?」

薄茶羽織の男は挙動不審になった。

「しばらく地面で痛そうにしてらっしゃいましたし、馬相手では逃げようもないかと」

「それもそうか」

と述べると、私の姿を見返して和やかに小首を傾げた。

「君、自警団に興味ないか? 人手が足りなくてなー、こういうやつ追い掛ける若いのほしいんだよな。頑張れば帝国勤務にもなれるし、どうだ?」

まるで皆が皆、向こうに行きたいと思っているかのような口振りである。しかも、あいにく私はその帝国から来たのである。

 イリーディア様がおられなければ、戻りたいとは思わなかった。あちらはあまりにも寒すぎる。

「せっかくのお申し出ですが、ちょうど仕事が決まったところなのです」

あの土地へ戻るのは、私の体がもっと強く大きく育ってから、だ。

 残念だなー、もしクビにされたら来いよ、と笑う自警団員ののどかさに呆れた。自警団であれば、どこの国でもきちんと馬がいるはずである。追いかけることもできたはずだった。

 追うのに必要な馬すら連れて来ていない。年齢は単なる言い訳で、要はやる気がないのだ。


 ――やることは当然やりますよ、仕事ですし。

 成果も同世代には負けたくないですし、成り上がるためならなんでもします。

 上昇志向バリバリでチャキチャキ仕事をしていた帝国の旦那様が見たら、額に青筋を立てそうな体たらくであった。

 あれでなかなか真面目なお人であったな、と今さら思う。


「はい、もういいよ。協力感謝する」

「お役に立ててよかったです」

愛想よく解放され、ため息を飲み込む。……あんなデタラメでどうやって報告書を作るのだろう。まさか裏も取らないつもりなのだろうか。

 先輩のところへ戻ろうとしたところ、ふと目があった。女性がぺこりと頭を下げた。

「あの、どうもありがとう……! 助かりました……」

もうひと揃えなんてとても買えなかったから、本当にどうしようかと思ったの、と涙ぐんだ。


 これは海辺の訛りかなと思う。私の見てきた限り、この秋のお国の中で海辺は貧しいほうだ。わざわざ遠方から買い出しにきてこんな目に遭うとは、災難なことである。

「足は平気ですか、捻られていたようですが」

「ええ、なんとも! このくらい平気なんですよ」

と続き、その笑顔に安心する。

 取り返した品は、それは大切そうに抱えられていた。

「……確か、娘さんの婚礼の品と仰いましたか」

「え? えぇ、そうなの」

苦労ばっかりさせちゃったから、せめて服くらいと思ってちょっとだけ張り込んだのよね、とポソリと言った。


 大旦那様もきっと、イリーディアお嬢様の婚礼の品をこのように大切に選ばれたのだろうと思う。なにせお嬢様は一人娘であらせられるし、奥方様も早くに亡くなられおふたりきりの家族であった。大旦那様にとって、お嬢様は他の何にも代えられない唯一無二の宝である。

 それまでもたおやかで美しい方ではあったが、婚礼の日のお嬢様は帝国の寒空の下で頬をやや赤く蒸気させ、今まで見たことがないくらい嬉しそうに微笑んでおられた。

 そのご様子を目にした私は、なんだかそれまでの日々がいっぺんに報われたような気がして、なにもかもが満たされた気持ちになったものだ。


「――この度は、誠におめでとうございます。当日は良いお天気を迎えられるといいですね」

私の言葉に一瞬目を丸め、されど優しく細め女性は頷いた。


「――ありがとう。あなたにも、いいことがたくさんありますように」


続.

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