一、

 ぱちり、ぱちり、焚き火が囁くようにぜる。ちらちら、熱いゆらめきが夜露に濡れたはだく。

 夜を満たす闇は濃い、だから火をおこす。赫灼かくしゃくと渦巻き、燃え立つ炎はきっと闇を散らしてくれる。そらが地面まで墜ちて来たような、暗く重く沈んだ夜の中に、ぽっかり明るい穴が空き、ちいさなちいさな居場所ができる。

 それでも闇はうづくまる背中に迫るのだろうか、夜に抱かれて擬死に微睡まどろみ、それでもかすかに息いている、悪意の存在をあたしは空耳のように覚える。焚火を見詰めてすわり込む、あたしの後ろに真ッ直ぐ延びる影は、まるで闇を迎えるための道のようにも思える。今にも何かがそこをって来、あたしの肩をつつきそう、

 あたしはフードを目深にかむる、緩く波打つ髪を掻き寄せ、ガーゼ・マスクのように唇を覆う。しっとりと冷たく湿った髪は、けれど直ぐにあたしの吐息で病んだように熱を帯びる。

 ひとりぼっちの夜は、暗い、というだけで凍えてしまいそうになる。瞼を閉ざし、レインコートの前を掻き寄せ、膝をかたく抱き締めて、

 それでも寒くて堪らない――ああ、お母様、お母様――耐え切れずあたしは声を漏らす。夜の中で口にするこの名は、果たして闇を呼ぶのだろうか、祓うのだろうか。あたしのたった一人のお母様、それは夜の闇にも負けない力を持つ蛇であり、この死に絶えた世界の最後の神であり、そして、あたしのたったひとつの居場所でもあった。けれど、それはもう過ぎ去った時間の出来事、今はもう記憶でしかない。

 あたしはお母様から逃げて来たのだ。あたしはお母様を捨てて来たのだ。それはあたしが選んだ事。けれど、それなのに、あたしはひとり闇の中に怯えてお母様の名を呟くの? なら一体あたしは何から逃げて来たと云うの? お母様の中には夜しか無かった、だからあたしは逃げ出した、なのにあたしはけぬ夜におびやかされて、お母様の名を呟く。そんなの、口惜しい――

 知らず、知らず、涙が滲み、睫毛が重く湿る。違う、違う、お母様なんか不要いらない。あたしはひとり、朝までひとり。真ッ赤なレインコートにくるまり、凍えたからだをちいさく丸め、喉を固くして息を詰める。こうしてあたしはじっと炎を見詰めたまま、遠い遠い朝を待つんだ。

 眠らない、眠るのは駄目。夜にひとりで眠ったら死んでしまう。夜に喰われて了うの。あたし知ってる、夜に満ちる闇、悪意を抱いて淀む闇、それはきっとあそこから来る。世界の中心に空いている穴、大きな大きな、黒い穴、そこから夜の闇は湧き出るんだ。ずるりずるり、ぞろりぞろり、穴から這い出てくる、どろどろにこなれたからだをもつ、真ッ黒い生き物、この世界でいちばんおぞましい生き物、それは遠いまほろばの昔に神々に打ち砕かれた魂達。今はその神も不在いなくなり、呪われた魂だけが夜の中、き場を無くして彷徨い続ける。時折、散らばるがらくたを依代に凝り、かたちをして人を襲う。あたし知ってる――お母様が云ってたもの。

 お母様は寝物語によく話して聞かせてくれた、神はとっくの昔に地上に墜ちて、そこで死んだ、けれどあいつらはまだ生きている、判るだろう、あいつらがなんだ、神とて所詮あいつらを生み出す為の、創られた存在に過ぎなかったんだ、判るだろう、夜の闇は人を喰う、だからお前を護る為、こうして閉じ込めているんだよ――お母様の嘘吐き、あなたはあたしが欲しかっただけじゃない。何ンでもない事、起きていればいいの、目覚めていれば、あたしはレインコートの裾だって、あいつらには掴ませない。みんなはおかしい、皆なは石の家に自分を閉じ込めて震えながら眠っているの、そのくせが昇るとにこにこしてるの。夜はまた必ずやって来ると云うのに。きっと頭がわるいんだ、明るくなってしまえば暗い夜の事など忘れて了うんだ。――あたしは、ちがう。

 ちらちら、ゆらゆら、赤いレインコートに渦巻く赤光しゃっこうが刺繍のように映える。だぶだぶの、くるぶしまで隠してくれる、お気に入りのレインコート、皆なの丸い丸い眼から、あたしのかたちを隠してくれる。お母様がいない今、ほんとうにあたしを護ってくれるのは、この真ッ赤なレインコートだけ、

 これを纏ってさえすれば、誰もあたしの躰を見る事は出来ない、誰もあたしの正体に気く事はない、だから誰もあたしを欲しがる事はない、


 ――あたしが人間である事なんて、決して誰にも知られるものか。


 あたしはふと、顔を上げる。焚き火から眼を外し、周囲を見廻す。

 確かに今、聞こえた。誰かの跫音あしおと。砂ばかりの、乾いた地面を踏み締める音。じゃり、じゃりり、ゆっくり近附いて来るその音の方向を、あたしは風の流れをたどって探る。判ってる、こんな夜更けに動きまわる奴なんて、知れている。あたしでなければ、他の誰である筈もない。きたない生き物、今度は何に依って凝った、

「ふん、今夜は星も見えないね―――」

 そんなもの、始めから見えるものか。声のした方、がらくたの山は開けているけれど、濃密に立ち籠めるもやが夜の闇を吸い、黒く染まってあたしの視界を遮る。

「おや、そこに誰かいるね」

 あたしはいらいらする。獲物を見附けぬ内からおまえ達が歩き廻ったりするものか。あたしは焼け棒杭ぼっくいを掌に採って、がさがさと焚き火を掻き廻す。元々火を絶やす心算つもりはない、どうせあいつらの眼はそんなものを見ない。却って逆なんだ、暗い夜、陽光があたしの輪郭を削り出さず、あたしが世界に滲み出す、それをあいつらは見附けるんだ。あいつらの目敏さから逃れるには、焚き火くらいじゃ弱過ぎる。

「おや、おや、今晩は、お嬢ちゃん、当たらして貰うよ」

 当たらして貰うよ。嘘、明るいのは嫌いな癖に。光はけだものの肉を削る、この焚き火が太陽みたいに眩しかったら、おまえは尻穂しっぽを捲いて逃げ出すんだろう。あたしは鬱向うつむいた振りをしつつ、前髪を透かして、そっとこの来訪者の姿を盗み見る。

「挨拶したら返事が欲しいな、悲しくなる、そうだんまりをされると、まるで、俺が醜いみたいじゃないか」

 黙れ、正体がれていないとでも思っているのか。声といっしょに腐肉臭い息が漏れているぞ、化け物め。判ってる、おまえが欲しいのは、あたしだ。 寄るな、

 あんたがあたしを喰ってどうする。喰ってもどうせダダ漏れのくせに、おまえの腹は膨れない。それとも、かりそめの魂しかもたぬおまえには決して満たされぬ躰こそがお似合いか。

「寝ているか、そうじゃないな、怖いかね、そうさな、こんな物をもってちゃ」

 燃え立つ焚き火の輝きを受けて、黒塗りの風景の中、化け物の輪郭が緩く浮かび上がる。ずたぼろの衣服を引ッ掛けた影、それは人間のかたちをしていた、酷くいびつにねじくれているけれど。どんなに上手くよそおっても、魂のかたちは滲み出るんだ、あたしがそうひとり合点していると、立ったままの影が片手をすうと突き出し、あたしに示して見せる。その腕の先端にあるもの、掌に握られているものが、焚き火のゆらめきを照り返している、ごつごつした、金属の、何か、

「銃だ、銃だな、怖いよな、小さいがね、イヤ小さかない、大丈夫、弾丸たまはない」

 きき、きき、と影は耳がひりつくような笑い声をあげている。

 あたしはもちろん化け物の言葉などは信じられず、警戒心たっぷりにその銃を見詰める。――何だろう、銃は確かにそれほど大きくない、しかし、それは包帯でぎっちりとかれて掌に固定されている。緊縛、と云っていい程きつく巻かれた包帯が、肉を潰していて、手首より先が今にもはち切れそうにあおく腫れ上がっている、

 訝しむあたしの視線を感じているかのように、左手が撫でるように銃をいじくり、不揃いの指が廻転弾倉をからからと廻す。気の抜けるような乾いた音、

「何だってこんな物、なあ、でもこいつは俺の躰の一部なんだ」

 いきなり声が近くなり、あたしは驚いてつい顔を上げそうになる。

 すう、とあたしの顔に影が差す、影は炎のゆらめきにかたちを変えながら、きき、きき、笑いも止まぬ儘にあたしの近くへ寄って来ようとする、おそるおそる、あたしの隣りにすわろうとしつつ、あたしの眼の前に掻き傷だらけの銃を差し出そうとする、ざりざりと砂を鳴らしてあたしにり寄ろうとする、酸っぱいような厭な臭いが鼻を衝く、

鬼魅きみが悪いよな、怖いよな、でも仕様が無いんだ、取れないんだ」

 あたしは顔は動かさず視線だけを隣りの影の上へ滑らせる、影法師のかたちはその輪郭だけなら、そこらにあるがらくたの山と大して変わらぬ程がたがたに壊れている、あたしはさらに上へ視線を昇らせる、

 そこでふと、あたしは眼を留めて一点を見詰める、影法師の背のあたり、申し訳程度に引ッ掛けられた上着が異様な角度にねじれ盛り上がっている、そのうちにある何かこぶのようなものに押し上げられている、ただでさえ曲がった体躯が、その瘤のせいで、まるで怪力に引かれた弓のように鋭角に折れて見える、何ンだ、こいつ――

 だ。

「本当だよ、ホラご覧、くっついているな、離れない、俺は一生この儘、こいつをぶら下げて生きる――」

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