新年最後の日
南口昌平
新年最後の日
鍋の蓋がことこと揺れている。
美紗は気づいていない。リビングのソファの前に立ち、テレビをぼんやり眺めている。若手の落語家が大喜利をしている。
「あけましておめでとう!」
玄関のドアが開き、裕一が入って来る。美紗が玄関へ向かう。
「あけましておめでとう、美紗」
「あけましておめでとう、裕ちゃん。まだ大晦日だけど」
裕一は玄関で靴紐を解いている。美紗の指摘に顔を上げて、しまったというような顔をする。
「ありゃ、まだ日本は大晦日か」
「遅かったね」
「いや、藤井さんと、電話をしていたんだよ」
「藤井さんって、裕ちゃんの職場の?」
「そうだよ。他に藤井さんがいるか」
「私の大学時代の友達に藤井ピコってのがいて、中学の頃に藤井先生がいたよ」
「何言ってやがんだ。だいたいなんだよ藤井ピコって名前は」
「ピコはあだ名だよ」
「いいよ、そんなことはどうでも。どちらにしたって俺が藤井ピコに電話をするわけないだろ。俺が言ってんのは藤井さんだよ、先輩の、
「タカちゃん」
「なれなれしい呼び方すんなよ、俺の先輩だぞ」
「タカちゃんって、あの、なすびみたいに顔が膨らんでる人だよね? 前に一回、裕ちゃんと一緒に酔っ払ってうちに来た」
「本当におまえは失礼な奴だな。なすびみたいな顔ってのはねぇだろ。確かにあの人はなすびみてぇな顔してるけど、なすびじゃねぇよ」
裕一が靴紐を解き終わり部屋へ上がる。キッチンへ行き冷蔵庫を開けて、中を覗く。
「藤井さん、今、年末年始の休暇使って、カリフォルニアへ行っているんだよ」
美紗は裕一の後ろ頭を間の抜けた顔で眺めている。
「いいなぁ、アメリカ。ねぇ、アメリカ旅行に行こうよ」
「ああ、いずれな」
「来年ね」
「ああ、もううるせぇな。分かった分かった」
「約束だよ? 忘れちゃ駄目だよ? 来年、アメリカ。忘れちゃだめだよ」
「分かったって、しつこいな……まぁ、だからな、アメリカにいる藤井さんと話している内に、こっちもアメリカ時間になっちまってたんだよ」
「あ、だからさっき、あけましておめでとうって言ったんだね」
「そうさ。日本はまだ大晦日だってことを忘れてた」
裕一はチューハイを二缶取り出し、その内のひと缶を美紗に差し出す。
「でも気がついてよかったよ。すんでのところで大晦日を棒に振るところだ」
裕一はリビングルームの炬燵へ入り、缶の蓋を開ける。美紗も同じようにする。
「今日は、新年最初の大晦日だからな」
「新年最初の大晦日っておかしいよ。今年はもう終わるんだよ」
「今年だって去年から言えば新年だ」
「変なの。裕ちゃんは変だよ」
美紗はケタケタ笑っている。
「変って、何がだ」
「だって普通、大晦日を新年って言わないよ」
「普通ってなんだい。イヤだね、おまえは普通ってのを知っててそう言うのか」
「私は普通だもん」
「図々しい奴だね、まったく。おまえは、異常だよ」
「どうして? 私は普通だよ」
「あのな、普通の人ってのは、自分がどこかしら異常なんじゃないかって、常に疑いながら生きているんだよ。それを臆面なく堂々と、自分は普通でござい、なんて、異常だよ」
美紗はチューハイをひと口飲んで、唇を尖らせている。が、やがて小さく頷く。
「じゃあ、私は異常なのかな?」
「そう思えてこそ、普通の人だ」
「でもやっぱり違うよ。私は普通の人だよ」
「ほらみろ、やっぱりおまえは異常だ」
テレビで若手の落語家が何やら言っている。
『いい酒飲んで今夜は酔いたい、おまえと二人で水いらず』
美紗はテレビを眺めながらふんふん頷いている。
「なんだい、おまえ、意味が分かるのか」
「うん。一緒にお酒飲んで酔いたいってことでしょ? 私、こういう短歌好きだな」
裕一が呆れたように首を横に振る。
「それじゃそのまんまじゃねぇか。それにな、これは短歌じゃねぇ。
「どどいつ?」
「そうだよ、分かるか?」
「ド級のドイツ」
「なんだよド級のドイツってのは。じゃあド級のフランスなんてのもあんのか」
「ほら、ツール・ド・フランス」
「ありゃ自転車レースだ。ド級のフランスって意味じゃねぇよ。いいか、都々逸ってのはな、江戸時代に流行った、まぁ、詩みてぇなもんだがね、七、七、七、五の二十六文字で作るんだ。今、この若ハゲの落語家が言った都々逸の意味はな、つまり、えっと、二人で、水入らずに、酒を飲んで、酔いたいって、な、分かるだろ?」
美紗は黙って首を横に振る。
「つまりな、水割りにせずに、ストレートで、酒を飲みたいんだ」
美紗が炬燵から這い出して、キッチンの戸棚をがさがさとまさぐりはじめる。
「おおい、何やってんだ」
「ごめん、裕ちゃん、今、これしかないや」
美紗が手にしているのは、安い料理酒。
「これ、ストレートで飲む?」
「飲まないよそんなもの。そんなものは醤油と混ぜてダシにしねぇと飲めねぇや」
「ああん」
美紗が情けない声を出す。
「どうしたんだ」
「お蕎麦茹でてたの忘れてた」
「お蕎麦って、年越しそばのことか」
「うん。ぐじゅぐじゅになっちゃった」
「なんでこんな時間から茹でてんだよ。まだ六時前だってのに」
「だって、忘れちゃうといけないから」
「それで茹でたこと忘れるんじゃしょうがねぇや」
美紗がそばをざるにあげて炬燵へ戻ってくる。入れ替わるようにして裕一がキッチンへ行き、蕎麦の様子を確認する。
「ああ、ああ、もうこんなにしちゃって。菜箸でつまんだらぶちぶち切れちゃうよ。安物のひじきみたいになっちゃってる」
「ひじき蕎麦ってことで、売れないかな?」
「売れないよ、おまえこのそばを金払って食いたいかよ」
「裕ちゃんの奢りなら」
「人の金を何だと思ってやがる。まぁ、蕎麦ってのがぶちぶち切れやすいから、それ食って災いや病も断ち切ろうっていうのが、年越し蕎麦の由来だって説もあるくらいで、まぁ、いいだろう」
裕一がリビングに戻ってくる。美紗はもう蕎麦のことなど忘れてしまって可笑しそうにテレビを眺めている。裕一が鼻息を荒くする。
「でもな、おまえは少し無計画過ぎるぞ。何から何まで行き当たりばったり。新年を迎えるんだから、もう少しきちっと、計画的になったほうがいい。その一年で何をやるか、何を達成するか、計画的にな、決意ってのを……よし、新年の決意を、来年はおまえもしようじゃないか」
「新年の決意? そんなの、したことないなぁ」
「そんなことを言ってちゃ駄目だ。俺なんて毎年やってる」
「今年の決意はなんだったの?」
「それはもう忘れたけど、まぁ、いいんだ」
と、そこで裕一は何かに気がつく。
「おい、なんだっておまえはいつまでもクリスマスツリーのおもちゃを飾っているんだ」
「あ、片すの忘れてた」
「まったくだらしないね。師走だってのに、おまえはいつものんびりしてる」
「年末ってこと?」
「なにが? あ、師走? イヤだね。師走ってのは十二月って意味だよ。いいか、師走ってのは師が走ると書くんだ。師匠の師な。その師ってのは寺の坊さんって意味で、坊さんが年末になると忙しく走り回るから、師走。つまり、年末ってのは慌ただしくなるってことなんだよ」
「でも、私、お坊さんじゃないよ」
「そういうことを言っているんじゃないんだよ。よし、わかった。このままじゃ駄目だ。おまえはのんびりし過ぎてて、きっと来年もぼんやりと一年を過ごしちまうだろう。こういうのはけじめだからな。よし、これから、初詣へ行こう」
「初詣? これから? まだ年明けてないよ?」
「明けてなくたって行くんだよ。そもそも初詣ってのは大晦日から元旦にかけて神社に籠もる、年籠りっていう習慣から来てるんだ。それに、今くらいから行くのがおまえみたいなのんびり屋にはちょうどいいんだ。下手すりゃ盆休みに初詣なんて言い出すだろ」
美紗は炬燵に潜り込んで渋っている。
「寒いよ、外。それにどこの神社に行くの? 明治神宮?」
「明治神宮なんて行くわけないだろ。遠いし、混んでてイヤになる」
「じゃ、どこへ行くの?」
「この間飲み会の帰りに、この近所にいい具合の小さな神社を見つけたんだ。そこへ行く。歩いて二十分だが、運動がてら、行こうじゃねぇか。ほら、さっさと準備しろ」
もうすっかりその気になっている裕一に、美紗は諦めて炬燵から這い出す。白いニット帽と、ファー付きのフードがついたコートをはおり、玄関でブーツを履く。
そこでふと思い出す。
「ねぇ、やっぱりおかしいよ」
「何が? 初詣か?」
裕一はすでに外へ出て、開いたドアを支えている。美紗は首を横に振る。
「違うよ。アメリカ時間ってやつ。アメリカは日本より遅いんだよ。日本より先に年が明けてるわけないよ」
「なんだよ、おまえ、今さら気づいたのかよ。頭の回転が遅い奴だ」
「だって私数学苦手だもん」
「数学とかって問題じゃねぇだろ。俺なんてもう、自分で言っている内から、あれ、これはなんだかおかしいぞって、違和感に気づいたぞ」
「自分で言ってるからじゃん。やっぱり裕ちゃんは変なんだよ。年も明けてないのにあけましておめでとうって。アメリカはまだ昨日だよ」
「いいよ、もうそんなことは、さっさと行こう」
外はすっかり日が落ちて、暗く閑散としている。時折冷たい北風が吹き抜ける。美紗と裕一は白い息を吐きながら寄り添って歩く。
「寒すぎるよ」
「寒いたってしょうがねぇだろ。大晦日だ。このくらい寒いもんさ」
「寒いよ。手をつないで歩こうよ」
「ばか。手をつないだら、ポケットから手を出さなくちゃいけないだろ。余計に寒い」
裕一は顔を赤くして早歩きになる。美紗は唇を尖らせて二、三歩後ろをとぼとぼ歩く。裕一が振り返る。
「おい、もっとそばに寄って歩けよ。せめて体を引っ付けとけば、温かいだろ」
美紗が駆け足で裕一の隣に並んで歩き出す。
「信州信濃の新蕎麦よりも、あたしゃあなたのそばがよい。そういう都々逸がある」
「私はひじき蕎麦がよい」
「ばか」
「やっぱり寒いよ。もう帰ろうよ」
「しつこい奴だな。いいか、こんな寒さってのはな、心の持ちようでどうにでもなるんだ。心頭滅却すれば火もまた涼し、と言うだろう、心を無にするんだよ」
「なにそれ?」
「え? 心頭滅却すれば火もまた涼し? イヤだな、そんな意味も知らないのか」
「しんとうめっきゃくすれば、ってどういう意味?」
「あのな、昔、
「かいせんじょうき?」
「そう。そんで、その快川紹喜がな、戦のときに偉い将軍を寺に匿ってやったんだ。そしたら、その将軍の敵がな、その寺を焼き討ちにしたんだ。それで燃えさかる炎の中、快川紹喜は『安禅必ずしも山水を用いず……』」
「あんぜん?」
「いいから黙って聞けよ。いいか、『安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火もまた涼し』と辞世の句を残して、焼死したんだ」
「結局死んじゃったんだね」
「ああ、まぁ、それでな、意味はな、禅をするためには、何も山の中や川のある穏やかな場所である必要はない。炎の燃えさかるような場所でも、禅はできる。禅をして心を無にすれば、燃えさかる炎も涼しく感じられる。つまりな、心を無にすれば、こんな寒さも苦じゃなくなるぞ、と、俺はそう言いたいんだ」
「でも、私、お坊さんじゃないよ」
「だからそういうことを言っているんじゃなくてだな」
「それに偉いお坊さんも結局死んじゃったでしょ? そもそもそんな偉いお坊さんの言葉を、普通の人間の私に言われても、真似できないよ」
「おまえは普通じゃないって言ってるだろ」
「はぁい」
そうこう言っているうちに、二人はすっかり遠くまで歩いてきている。
「歩いていると、温かくなるね」
「そうだろう。だから大丈夫だと言ったんだ。もうすぐそこだ」
「なんだか、私、年末のこういう雰囲気好きだな。今まで四方八方へ散らばってたいろいろなことが、全部一箇所に集められるような気がして、すごく安心する。まるでほかほかの炬燵に裕ちゃんと二人で向かい合って、蜜柑を食べてるみたいな気分。そういえば裕ちゃん、この間炬燵の中でおならしたよね、ブリって」
「くだらないことを思い出さなくていい。だいたいブリって音はなんだ。実が出てんじゃねぇか。ほら、もう神社が見えてきたぞ」
そこは住宅街の路地を入った、薄暗い場所である。
「こんなところに神社があるの?」
「あるんだよ、ほら、正面に、見えてきた」
見ると小さな門柱を左右に置いた、猫の額ほどの庭を持った古い平屋がある。
「ここだ、ここだ」
「ここが神社なの?」
「そうだよ。ほら、いい具合に誰もいない。静かだろ。穴場だ」
「でも、鳥居がないよ?」
「鳥居がなくたって、表札がある。ほら見ろ。【菅原】って書いてある。きっとここは天神様を祀っているんだ」
「てんじんさま?」
「そうさ、菅原道真だよ」
「ばかもんの神様?」
「学問だよ、ばか」
「ばかがお参りに行くんじゃないの?」
「おまえ、いつか誰かに蹴り飛ばされるぞ。まぁ、とにかく初詣をしよう」
二人は門柱の間を、できるだけ端のほうを歩いて中へ入る。庭には雑草が生え放題に生い茂っている。
「
「ちょうずや?」
「ほら、神様に会う前に手を清める、水だよ」
「ああ、なんか見たことある。あ、あそこにホースがついてる水道があるよ」
「あれじゃ駄目だ。まぁ、仕方がない。とりあえず参拝しよう」
「賽銭箱がないね」
「賽銭箱は催促するようで気が進まないんだろう。遠慮がちな神様だよ」
「そういうもんなの?」
「知らないけど、まぁ、いいさ、ここに賽銭を置こう」
二人は玄関の前に十円玉を一枚ずつ置く。
「お参りの仕方を知っているか?」
「知らない。手を叩くんだよね」
「そうだ、基本的には、二礼、二拍手、一礼だな。二回お辞儀して、二回手を叩く。そして一礼」
「お辞儀するのはわかるけど、どうして二回、手を叩くの? あ、そうか、神様を驚かすためだね」
「神様を驚かしてどうすんだ。これはな、素手で手を叩いて、自分が丸腰だってのを伝えるためだ」
「ふぅん。ねぇ、そういえば、この神社お坊さんがひとりもいないよ?」
「神社にいるのはお坊さんじゃないよ。寺と間違えんな」
「お寺と神社って違うの?」
「あのな、神社は神道、寺は仏教、これくらい知っとけよ、恥ずかしい」
「あはは、ごめんね、しんとうはさっき滅却したから」
「ばか、字が違うよ。罰当たりなこと言うな」
二人は作法通りの参拝を済ませて、平屋を後にする。背後で物音がする。
「恐らく、神主さんか誰かが中にいるんだろう」
「じゃあ、やっぱり神社だったんだ」
二人は門の外へ出る。そこへ巡回中の巡査が自転車に乗ってやってくる。
「ちょっと、お兄さん、お姉さん、そんなところで何してんの?」
「あ、おまわりさん、どうも。ちょっと初詣に参っていまして」
「初詣?」
「はい。こいつはのろまなところがありましてね、今から新年迎えた気でいないと、いつまでも年が明けないんですよ」
「何を言ってるのかよく分からんが、どうしてそこから出てきたんだ」
「ここですか? この神社で初詣をしていたんです」
「何を言ってるんだ。ここは神社じゃない。昔は人が住んでいたが、今は誰も住んでいない、廃屋だ。勝手に入っちゃいかんなぁ」
「え?」
声を上げるのは美紗。
「おまわりさん、ここ、神社じゃないの?」
「じゃないよ、お姉さん」
「それはそれは、どうも失礼しました。ほら、言っただろ。ここは神社じゃねえんだ。さっさと帰ろう」
裕一が美紗の手を引っ張る。
「それじゃ、おまわりさん、よいお年を」
二人は歩き出す。
振り返り、巡査がどこかへ行ってしまうのを確認する。裕一が胸をなで下ろす。
「びっくりしたなぁ、おまわりさんが来るんだもの」
「あれ、神社じゃないって」
「ああ、そうらしいな」
「じゃあ、あの物音は何だったのかな? 神主さんじゃないよね」
「ああ、きっと空き巣か何かだろう」
「空き巣かな?」
「そうだよ。空き巣は留守を狙って入るんだ。廃屋なんて年中留守なんだから、空き巣にはもってこいだ」
「へぇ」
元来た道を戻って美紗のアパートへ帰る。
二人はなだれ込むようにして炬燵へ当たる。
「炬燵つけっぱなしだったのか」
「忘れてた」
「全く、おまえは本当にしょうがない奴だ」
「ごめんなさい」
「謝って直るんだったら年がら年中頭を下げ続ければいい。年が明けたら、新年の決意をして、心機一転改めろ」
「裕ちゃんは厳しいなぁ」
「愛のムチだよ」
「やん、変なこと言わないで」
「変なことなんて言ってない。おまえこそ変な声を出すな」
「だって、愛のムチって」
「愛のムチがどうしたんだ。あ、おまえ変な想像してねぇか? 愛のムチってのは相手のためを思って、あえて厳しくすることだ。倒錯した愛をはぐくむためのムチじゃない」
「知ってるよ」
美紗は恥ずかしそうに炬燵布団を顔のほうまで引き上げる。
「知らなかっただろ」
「知ってるもん。わざと言ったんだもん」
「知ってる知ってるってほざくな。知らないことを謙虚に認めろ。無知の知、って言ってな、知らないことを自覚することこそが、賢者になるための第一歩だ」
「やん」
「またおまえはよからぬことを想像したな」
「してないもん」
「無知の知は、ムチで叩いて血が出たってことじゃないぞ。昔ギリシャにソクラテスっていう哲学者がいてな、神託を聞いたんだ。神様の言うことには……」
「あれは、神社じゃなかったね」
裕一はつまらなさそうに話すのをやめて、さっき飲みかけていた缶チューハイを口へ運ぶ。美紗はしてやったりの顔で笑っている。
二人は缶チューハイを飲み、美紗が作ったひじき蕎麦をつまみながら、テレビを眺めている。時間がぼんやりと流れていく。
「ああ、少し酔っ払った」
「私も」
「ちょっとトイレに行ってくっから」
裕一が炬燵から這い出す。
美紗はテレビから聞こえる除夜の鐘の音に合わせて「ぼぉん」と言っている。
しばらくして裕一が戻ってくる。
「よし。もう少しで年が明けるぞ。新しい年を迎えるんだ。さぁさぁ、炬燵から出ろ。新年を迎える瞬間は、一年のスタートを切る、大事な瞬間だ。炬燵でぬくぬくしていては、またぼんやりとした一年を過ごしてしまうぞ。さぁ、立て」
しかし美紗は立ち上がらない。裕一がせかす。
「早くしろ、また無駄に一年を過ごしてもいいのか」
「もう年越したよ」
「何だって?」
「もう、年明けたよ。裕ちゃん、あけましておめでとう」
美紗が笑いながら手を叩く。
「何言ってるんだ。え? 今、何時だ。十二時五分? なんだ! 本当に年越してるじゃないか!」
「そうだって言ってるじゃん」
「なんてこった! 俺は便所で糞をひりながら年を越したのか!」
「ブリって鳴った?」
「うるさい。くそ……まぁ、いい。運がつく年になると考えよう。物は考えようだから」
「そうだね、ブリブリいろんなうんちくもたれてくれたしね、うんちくたれ」
「うんちくはたれるもんじゃない。傾けるもんだ」
裕一は舌打ちをしてシングルベッドに潜り込む。
「へん。もういいや、さっさと寝よう。電気消せ」
電気を消して、美紗も狭いベッドに潜り込む。
翌朝、裕一はまだ眠っている。
美紗は洗面所で顔を洗っている。テレビからお笑い芸人のはしゃぎ回る声が聞こえてくる。音は小さい。裕一を起こさないようにしている。
裕一はいつまでも起きない。相当深い眠りについている。寝返りはうたない。その代わり、ときどき鼻づまりのウシガエルのようないびきをかく。
美紗は昼飯をひとりで食べて、新年の決意をどうしようかと考えている。
やがて日が暮れる。
ようやく裕一が寝返りを打ち、大きなあくびをしながら体を起こす。
「おはよう」
美紗がくすくす笑いながら挨拶をする。裕一は返事をしない。腕を組んで何やら考えている。
「おい、初夢ってのは、大晦日から元旦にかけて見る夢のことか? それとも、一日の夜から、二日の朝にかけて見る夢のことか?」
「どうしたの?」
「変な夢を見たんだ」
「どんなの?」
「藤井さんが出てきた。毒キノコを食べて、顔を紫にさせながら苦しんでた」
「裕ちゃんはどうしてたの?」
「俺はそれをただ眺めているんだ。かなり長い時間。ろくでもない夢だ」
「いい初夢だね」
「ばか言っちゃいけない」
裕一が大きなため息をつく。美紗が頬を膨らませる。
「ため息ついちゃだめだよ」
「どうして?」
「ため息をつくと、幸せが逃げるんだよ」
「幸せが逃げる? じゃあ、いいことじゃねぇか。幸せがため息に混じって逃げるってことはだ、俺は今、幸せを吐き出しているんだろ。つまり、今この部屋は幸せで溢れているんだ」
「でも、私には全然伝わってこないよ」
「おまえがぼんやりしているからだ。いいか、俺がため息をついたらおまえはその息を吸い込むんだ」
「裕ちゃんのため息を吸い込むの?」
「そうだ。おまえも、ため息をつけ、そうすればおまえの幸せがこっちに来るから」
「でも私、今幸せだからため息なんて出ない」
「おいおい、幸せは分かち合おうぜ」
美紗が頷き、二人でため息をついては吸い込み、吸い込んではため息をつくを繰り返す。
「どうだ? 幸せか?」
「頭がくらくらしてきた」
「俺もだ。やめよう」
裕一はそれから腕を組んで考え事を始める。
やがて満足そうに口元に笑みを浮かべる。
「初夢の定義がよくわからないから、なんとも言えないが、これも物は考えようだぞ」
「まだその話だったの?」
「いいから聞け」
裕一が美紗へ体を向ける。美紗は三角座りをして裕一を見ている。
「一富士二鷹三なすび、と言ってな、昔から初夢に見ると縁起がいいと言われている三つの物があるんだ。どうだ、藤井さんを富士山ってことにできないか?」
「えぇ?」
美紗は不満げな声を出すが、顔は笑っている。
「そんで、藤井さんの下の名前が……」
「タカちゃん」
「そう、だから鷹もこれでクリアだ。そんで、毒キノコを食べた藤井さんの顔が紫になって、ちょうど藤井さんの顔はなすびみたいな形をしているから、これでもう、なすびもクリア。どうだ、三つ全部出てきた」
裕一は満足そうである。美紗も楽しそうにきゃっきゃと笑っている。
「うん、そうだと分かると、実に清々しい元旦だな。なんかこう、今まで暗く縮こまっていたものが、急に大きく開けて澄み渡るような気分だ。一箇所に集まっていた白鳥の群れが、大きくいっぺんに空へ羽ばたくような、そして、自分もその仲間になって日に染まった明るい大空へ飛び立ったような……どうしたんだ、外が暗いな」
裕一は窓を指さして美紗を振り返る。美紗は口元を手で押さえて笑っている。
「なんだ、何時だ? 七時? どうしたんだ、太陽はどこへ行ったんだ」
「もう、夜の七時だよ」
「なんだって? そんなばかな。俺は何時間眠っていたんだ」
「さぁ、二十時間くらい?」
裕一は慌ててベッドから飛び降りる。深刻そうに俯いて、ただ黙る。
「そうだ、裕ちゃん。私、新年の決意、考えたよ」
「おい、それどころじゃないぞ」
「あのね、私の新年の決意はね、裕ちゃんと一生一緒に過ごすぞ!」
「ばか、それは今年一年だけの目標じゃねぇじゃねぇか」
「いいんだもん。私はこれで」
美紗はにやにやしている。
「それで、裕ちゃんの新年の決意はなんですか?」
「だからそれどころじゃないって言ってるだろ」
「どうして?」
「あのなぁ、一年の計は元旦にあり、って言ってな、新年の決意をするのは元旦と決まってるんだ」
「まだ元旦だよ」
「ばぁ。おまえは何も知らないな。ばかなこと言うとひっぱたくぞ」
「愛のムチの血、きゃあ!」
美紗は立ち上がって逃げるような格好をしてふざけている。
「ひっぱたくわけないだろ、ばからしい。あのな、元旦ってのは本来な、一月一日の朝を意味するんだ。元旦の旦の字はな、地平線から日が昇る光景を表しているんだ。だから、一年の計は元旦にありと言ったら、元日の朝、つまり、今日の午前中の間に計を立てろと、そういう意味なんだよ」
「もう今年最後の元旦は終わっちゃったね」
裕一は恨めしそうに美紗を見る。美紗は腰を左右に振りながら踊っている。
「どうしておまえ、起こしてくれなかったんだ」
「だって裕ちゃんすごく気持ちよさそうに眠ってたんだもん」
「おかげで俺の一年がめちゃくちゃになっちまったぞ」
「大丈夫だよ、一年の計を元旦に立てなくたって」
「毎年俺はそうしてたんだ」
「元旦にこだわる必要ないんじゃない?」
「だめなんだ、元旦じゃないと」
「そんなこと言ったって……あ」
「なんだ」
「私、いいことを思いついたよ」
裕一が首を傾げる。
「なんだ、いいことって」
「都々逸で発表します」
「都々逸?」
美紗は頷き咳払い二回、胸を張って誇らしげ。
「いきます。【今から一緒にアメリカ行こう、アメリカ時間はまだ昨日】。おそまつさまでした」
裕一は苦笑いで美紗を見る。美紗は満面の笑みで裕一に歩み寄る。
「とにかく、あけましておめでとう裕ちゃん、今年もよろしく」
裕一も頷く。
「おめでとう」
その後二人は、ひじき蕎麦の残りを仲むつまじく食べるのである。
新年最後の日 南口昌平 @nanko-shohei
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