CASE1 ジェットばばあ12
音々は怜の肩越しに、スピードメーターを見た。
すでに車は120kmを超えている。どうやら音々の辞める発言が怜を慌てさせ、スピードを上げさせてしまったようだ。
怖い思いはあるが、頑張る虎之丞のために、音々も外をちゃんと観察をし始める。
ジェットばあさんは、変わらずぴったりと車の横についているが、対する虎之丞はじわじわと差を広げられている。
虎之丞も相当速いが、さすがにこの速さにはついてこられないようだ。彼にどのくらい体力があるかわからないが、このままでは虎之丞の体力は尽きてしまうだろう。
「音々ちゃん!冊子の中に何か使えそうな祝詞はないかい?」
「え?」
「早く早く!虎がバテちゃうよ」
急に言われてもと思ったが、虎之丞のためにも言われた通り冊子を開く。
冊子には、いくつか祝詞が書いてあったが、使えそうな祝詞とはどんなものか。
「ど、どんな祝詞がいいんですか!?」
「どんな?う~ん、え~例えば、ジェットばばあの動きに制約を与えられそうなものとか」
「う、動きに制約!?」
「頼むよ、急いで!」
追い込まれると途端に頭が働かなくなる、土壇場に弱い音々である。そのせいで数多くの面接に落ちてきたのは伊達ではない。
しかし、就活の失敗は自分だけのものだが、ここでの失敗は多くの人に被害がある。
泣き言は言っていられない。やるしかないだろう。
働かない頭で必死に書いてある文字を追うが、テンパり、ほとんど文字が入って来ない。
しかし、それでも懸命に目を動かすと、その中で、『動きを遅くする』という言葉が目に入ってきた。
「う、動きを遅くする祝詞があります」
「それそれ!それを唱えてっ」
「で、でも本当に私に力なんて……」
ここまできて、やはり怖気づいてしまう。
残念なことに、音々の人生において成功体験はそれほど多くない。
ここでも失敗する未来ばかり見えてしまう。
祝詞を唱えても何も起こらなかったら。
期待してくれた人たちを裏切ることになってしまう。
喉に何か張りついているかのように、言葉が出てこない。
「大丈夫、やってみればわかるさ」
さっきまで慌てていた怜が、こちらを見てゆったりと微笑む。
落ち着いた声。
次の瞬間、音々にかかっていた緊張が解けた。
もうやるしかない。
ダメだったらその時はその時だ。
覚悟を決め、音々は冊子に書かれている祝詞を唱えた。
「ろんぐ~ど、のず~んど、ろんぐ~ど、のず~んど…………」
一つ一つの文言に力を込めるように、ゆっくりと確実に読んでいく。
読み続けていると、体が少し温かくなってきた。気持ちがいい。
そして、冊子を持つ音々の手がぼんやりと輝き、その光は体中に広がっていく。
「ひぇっ」
「いいぞいいぞ、素晴らしい。続けて」
自分の体が光ったことに驚いたが、言われた通り祝詞を唱え続ける。
「お、効いてきた!」
怜の言葉を聞き、音々は祝詞を唱えながら横目で外を見る。
すると驚くべきことに、さっきまでぴったりと横に並走していたジェットばあさんが少しずつ遅れだした。
これまで助手席の窓のところを走っていたジェットばあさんは、後部座席、そして車の斜め後方にと、ずるずる下がっていく。
それはすなわち、どんどん後ろを走る虎之丞の下へと近づいているということだ。
それを見て、音々は無我夢中で祝詞を唱え続ける。
自分の祝詞が怪異に効いた。しかし、今は喜びよりも、役に立ちたいという思いが強い。
自分にもできることがある。それが音々を必死にさせていた。
「ろんぐ~ど、のず~んど、ろんぐ~ど、のず~んど…………」
「音々ちゃん、すごいよ。もう少しだ、頑張れ」
バックミラー越しに、怜が励ましてくる。
虎之丞の手が届くか届かないか。二人の距離はそこまで近づいた。
「行くっすよ!」
車中まで聞こえる虎之丞の気合いの入った声。
虎之丞はラグビーのタックルのように、ジェットばあさんの腰に抱きついた。
「よしよし!」
怜が片手で小さくガッツポーズをする。
虎之丞たちはそのままもんどりうって倒れ込んだ。
すごいスピードだったが、体は大丈夫なのだろうか。衝突事故と変わりないように思えるが。
「音々ちゃん、行こう。リュックの中から新しい木箱を出してくれるかい」
「は、はい」
車を路肩に止め、音々たちは外へ出た。
「音々ちゃんが封印をしておくれ」
「え?」
リュックの中から取り出した木箱を渡そうとしたとき、怜が言った。
「音々ちゃんの祝詞のおかげで捕まえることができたからね、音々ちゃんのお手柄だよ」
「それなら虎さんのほうが……」
「虎には難しいと思うよ、だってほら」
「ひぇっ!」
虎之丞に取り押さえられたジェットばあさんは、体を横にしたまま手足をシャカシャカと動かし続けている。
捕らえられたというのに、まだ走ろうとしているのか。
一瞬、昔近所の悪ガキが捕まえて見せてきたフナムシを思い出してしまった。
「うぇ……」
「ね、虎にはできないだろ。だから音々ちゃん、頼むよ」
「わ、わかりました。ひぇぇ~~」
音々は恐る恐る手が届くところまで近づく。
「封印の祝詞は覚えてる?おうま、ふれん、いっさ、これを繰り返して」
「わかりました。木箱をつけるところはどこでもいいんですか?」
「うん、箱の一面を体の一部に当てれば大丈夫」
「うわぁ、どこにしよう……」
ジェットばあさんは手足をシャカシャカと動かしているので、結局動きが少ない頭頂部に木箱を当てた。
「おうま、ふれん、いっさ、おうま、ふれん、いっさ…………」
音々が祝詞を唱えると、先ほどの落ち武者と同じように煙となり、中へ吸い込まれた。
「虎、ご苦労様」
「お疲れっす!」
「と、虎さん、体は大丈夫ですか?」
音々は虎之丞の体を眺める。
「大丈夫っすよ。最後タックルしたときに少し擦りむいただけっす」
肘と膝に少し血が滲んでいる。だが、これならばかすり傷の範疇だろう。
あのスピードで倒れたとは思えない傷である。
「俺、体だけは丈夫なんっすよ」
「いやいや、丈夫ってレベルじゃ……」
「それより、ジェットばあさんのスピードが遅くなったのって、音々さんのおかげっすよね!?」
「え?それは、まぁ、何というか」
「そうそう、音々ちゃんのおかげだよ。素晴らしい効き目だったね。あれがなかったら危うく失敗してたとこだったよ。本当にありがとう」
「音々さん、すごいっすよ!」
「そ、そんな。でも、役に立てて良かったです。へへへ」
音々の感覚からすると、最後にちょこっと祝詞を唱えただけなのだが、二人の反応を見るとそれなりに役に立てたようだ。
それにしても、この人たちは何のてらいもなく、真っ直ぐに人を褒めてくれる。
褒められ慣れていない音々は、思わず変な笑い声と表情で答えてしまった。
「奏さんの言う通りだったね。音々ちゃんには素質がある」
「父には、今までそんなこと一度も言われたことなかったのですが」
「この道を進ませるか悩んでいたからね。怪異の処理は危ない仕事だし。だから今まで何も言わなかったんだと思うよ」
これまで、自分の仕事を含め、怪異にまつわることを何も教えてこなかったのは、父なりに娘を思ってのことだったのか。
それなのに結局、就活失敗という理由でこの道に入ることになってしまった。我ながら情けない。
娘の将来への思いやりをこんな形で裏切られた父の心境は、いかなるものだったのだろう。お父さん、ごめん。
「大丈夫大丈夫。奏さんは気にしてないよ。むしろ何だかんだで、嬉しいはずさ。それはわかる」
「そうでしょうか」
「うん、それに娘さんがこんな大きな力を持ってるってなれば、彼も鼻高々に違いない」
「私の力、そんなに大きいものなんですか?」
さっきからもてはやされてはいるが、いまいち実感はない。何せ、ただ祝詞を唱えていただけなのだから。
「大きいよ大きい。そもそもさっき動きを遅くしたみたいに、実体化した怪異に干渉することはとても難しい。今日二つの例を見たけど、怪異は噂の通り、忠実に動く。落ち武者はただそこにいて恨み言を言うだけだったし、ジェットばあさんは高速道路でどんなスピードでもそれに合わせて、並走してくるだけ。それはわかったよね?」
「はい、実感しました」
「うん、で、そんな怪異の動きに干渉するなら、普通は噂そのものを変化させなければならない。そんなことはしないけど、例えば、落ち武者が人を襲うという噂を流す。それが噂として上書きされるぐらい流行れば、落ち武者は人を襲うようになる。だけど、それには時間も労力もかかるよね?それだけ干渉するっていうのは大変なことなんだ。だけど、君たち神職の力を持つ人たちは違う」
怜がビシッと人差し指を向けてくる。何やらご機嫌だ。
「祝詞の力で、怪異に干渉できる。さっき動きを遅くしたみたいにね。あれは選ばれた人にしかできないことなんだよ。その中でも音々ちゃんはすごい。祝詞の効力も人によって違うんだけど、あれだけ明確に効くなんて、なかなかないことだからね。本当に素晴らしい」
「そ、そうなんですか。へ、へへへ」
ここに来て、まさかの才能の開花。まるで漫画の主人公のようではないか。
大きな才能があるということは悪い気はしない。
しかし、本音を言えば、もっと一般的な分野の才能がが欲しかったところである。
「で、え~と、そんなわけで、音々ちゃんには素晴らしい才能があるから、そのぉ処理班を辞めるというのは、ちょっと取り消してほしいなぁ~、なんて思ってるんだけど、どうかな」
「え!音々さん、処理班辞めちゃうっすか!?」
そういえば、さっきそんな話をした。
正直恐ろしい目に遭う職場というのは、よくわかった。父がこの道を進ませるのを躊躇した理由もわかる。
しかし同時に、ここでしか発揮できない自分の力があるということも知った。
今回の落ち武者やジェットばあさんは、大きな危険のない怪異だったが、話によれば人に直接危害を加えるような怪異もあるという。
怖さはもちろんある。進んで危険に身をさらしたいとも当然思わない。
しかし、平凡な場所で漫然と生きるより、少しでも自分の力が役に立つ場所があるのならば、そちらで働いた方がいいのではないか。
表立って賞賛は受けられないのだろうが、人の助けになる仕事というのはわかった。
危険が少ないと言われたジェットばあさんですらあの恐ろしさである。ほうっておけば、間違いなく驚いたドライバーがいずれ大事故を起こしただろう。
それを未然に防げた。しかも、その処理にわずかだが、自分も役に立ったのだ。その事実に不思議と充実感のようなものが生まれた。
これまで、やりがいという言葉はあまり好きではなかったが、これがやりがいというのかもしれない。
こうなってしまっては、この世界で生きていくしかないではないか。
そして何より、自分の力が役に立つものならば、そう簡単にクビにはならないだろう。そんな打算も強くある。
地位を脅かされない安定した職場こそ、音々が求めていたものなのだ。
「え~と……前言撤回ってありでしょうか?」
「おぉ、もちろん!」
「良かった!音々さん、処理班続けてくれるんすね」
音々の汚い打算を知らない二人は、無邪気に喜んでくれる。
その顔を見ていると、汚い自分の心にチクリと棘が刺さったが、よく考えたら見学だけで良いと言っていたのに、祝詞まで唱えさせた事実を思い出し、気にしないことにした。
「でもメインは事務の仕事ですからね」
「もちろん。それは当然だよ!」
全く信用できない。
きっとまた祝詞の力を貸してくれというに違いないはずだ。
しかし、今回で一応、音々なりに覚悟のようなものはできた。
こんな自分でも人を救えるなら、やったほうがいいだろう。
これでも神社の神主という立場で人を助けてきた父の背中を見て育ったのだ。人の助けになりたいという気持ちはある。
また、ちゃんと理由があって、父はこの処理班を薦めたのがわかり、少し安心した。
就活に失敗した娘を、だたどこでもいいから押し込んでしまおうというわけではなかったようだ。
しかし、それならばもう少し、その辺りをきちんと説明してほしいものだ。無口な父ではあるが、いくらなんでも言葉が少なすぎる。
帰ったら色々と問い詰めてみることにしよう。
「よし、ジェットばばあ、あ~、ジェットばあさんの捕獲完了。これで今日の任務は終了です」
「お疲れ様でしたっす!」
「これで終わりなんですね、良かった」
本当に長く濃い一日だった。
だが、おかげで少しばかり成長できたように思える。
「じゃあこのまま直帰しよう。まずは音々ちゃんの家まで送ろう」
「本当ですか?ありがとうございます」
時刻はすでに深夜二時。何とも嬉しい申し出だった。
威張れるほど大したことはしていないのだが、勤務初日、しかも深夜までの勤務ということもあり、音々の心身は疲労困憊である。
興奮で眠れないかもと思ったが、結局、車が走り出してすぐ、音々は眠りに落ちてしまった。
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