CASE1 ジェットばばあ11
「あ」
虎之丞が何かに気づく。
その声で、音々は反射的に窓の外を見てしまった。
「ひぃぃぃぃ!」
四つん這いになった老婆が、真っ白な髪を振り乱し、ニヤニヤとこちらを見ていた。
枯れ木のような手足は目で追えないほど速く動いている。尋常ではないスピードだ。
老婆の顔には深いしわが刻まれ、笑う口元からは涎が垂れている。
思わず目を背けてしまいたくなるような醜悪さだった。
しかし、音々は目を背けることができない。あまりの恐怖に固まってしまったのだ。
「来たね」
「思ったより早く出てくれて良かったっす」
怜も虎之丞も落ち着いた様子で言う。
その声を聞いて、ようやく音々も体が動くようになった。
すぐさま音々は車のスピードメーターを見る。
100kmオーバー。
ジェットばあさんの名に恥じないスピードだ。
音々は恐る恐るもう一度ジェットばあさんを見る。
「ひぃぃぃっ!」
目が合ってしまった。
ジェットばあさんは、こちらに首を向けたまま、走り続けている
追い抜くことも遅れることもせず、車の横にぴったりと付き、ただただこちらを見続けている。
それ以外のことは何もしない。
まさしく高速並走型怪異。
「これがジェットばばあ、もといジェットばあさんだよ。大して動かなかった落ち武者と違って、激しく動いているからまた格別でしょ?」
格別の使い方はそれで正しいのか。
確かに落ち武者も恐ろしかったが、ただそこに立っていただけなので、それ以上の恐怖はなかった。
しかし、ジェットばあさんは違う。
白髪を振り乱し、細い手足を尋常ではないスピードで動かしている。
また四つん這いというのは気持ち悪さに拍車をかけていた。
人ではあるのだが、大きな虫のようにも思える。
「き、きもいっ!」
しかし、そんなもの見たくもないが、つい見てしまう。
怖いもの見たさという言葉が、これ以上しっくりくるシチュエーションはまずないだろう。
「こ、ここからどうするんですか?」
「ん?」
音々の慌てぶりとは正反対に、怜は前を見て、ただ運転をしている。鼻歌も継続中だ。
ジェットばあさんそのものへの興味がないようにしか思えない。見慣れているのか。
「車で壁に押し付けて潰したりするんですか?」
「こ、怖いこと言うね、音々ちゃん」
怜がドン引きしながらこちらを見る。
「だ、だって、排除するしかないですよね?」
「いや、昇華をするよ。襲い掛かってくるわけじゃないし、基本無害だから。それに昇華したほうが次の実体化までの時間が伸びるし」
「そ、それは聞きましたけど!」
こうして悠長に話している間も、ジェットばあさんは車の横を並走している。ニヤニヤ笑いながらこちらを見続けるのも変わらない。
こんなものに慣れるわけがない。音々は直視しないように、ちらちらと様子を窺う。
「で、でも、このスピードですよ!?どうやって」
そう、昇華をするには木箱を体に当てて、祝詞を唱えなければならない
100kmオーバーで走るジェットばあさんに対して、そんなことはできないだろう。
「俺がやるっすよ!」
「え?」
虎が後ろを振り返り、音々に笑顔を向けてくる。
「え?虎さんが?でも、どうやって」
「見ててくださいっす」
威勢よく返事をすると、虎之丞は車のドアを開ける。
「ちょ、ちょちょちょっと、何してるんですか!?あ、危ないですよ!そ、それに」
ドアを開けたら、ジェットばあさんが入ってきそうではないか。
車のボディという壁があったから、まだ辛うじて安心できていたが、ドアを開けてしまったら、我々とジェットばあさんを隔てるものは、何もなくなる。
「大丈夫大丈夫。入ってはこないよ。そういう怪異じゃないし。そもそも、高速並走型の怪異が車の中に入ってくるなんて都市伝説は、ほぼないはずだよ。車の後ろに張りついてくるなんて話はたまにあるけど」
「ひぇっ」
「でもこのジェットばあさんは並走するだけのシンプルな怪異だね。だから心配ないさ。ちなみに車の中に入り込んでくるパターンは、有名なのだと、タクシーの怪異かな。女の人がタクシーに乗り込んできて、目的地に着くと姿がない。いつの間にか消えていて、シートがびしょびしょになっていたとか。あとは、深夜のドライブで人をひいちゃったと思ったら死体がない。気のせいかと再び走り出したら、後部座席にひいた人が座ってたとかね。どっちも有名な話だけと聞いたことある?」
「その話、今じゃなきゃダメですかねっ!?」
何故、怖い思いをしている時に、別の怖い話を聞かなければならないのか。
この人はデリカシーと緊張感をどこかへ置き忘れてきたに違いない。
虎之丞は虎之丞で、音々のツッコミで笑っている。やはりこの人たちはおかしい。
そしてひとしきり笑った後、虎之丞は耳を疑うようなことを言った。
「じゃ、行ってくるっすよ」
「え!?行ってくるって、どういう、えぇーーっ!?」
音々の叫びを背に、虎之丞が車の外へ飛び出した。
頭がおかしくなって、自殺したのか。
「ひぇぇぇ!」
「大丈夫だよぉ」
「いやいやいや、大丈夫って!!」
怜が間の抜けた声でなだめてくるが、それが逆に神経を逆撫でしてくる。
元は虎之丞だった変わり果てた物体を見ることになるかもしれない恐怖はあったが、確認しないわけにはいかない。もしまだ息があるようなら助ける必要がある。
音々は後部座席から恐る恐る後ろをそっと眺めた。
「うわっ!え!?え!?」
さっきから叫んでばかりである。
これで声が枯れたら労災はおりるのだろうか。一瞬、そんな関係ないことが頭をよぎる。
なんと虎之丞は、変わり果てた姿になるどころか、元気に走っていた。
しかもスピードがおかしい。車と同じくらいの速度で走っているではないか。
「虎のね、運動神経はすごいんだよ」
怜が自分のことでもないのに誇らしげに言う。
「運動神経ってレベルですか、これ!?」
自分が知っている運動神経とは尺度が違う。
運動神経の良し悪しでどうにかなるスピードじゃないだろう。もはや人間の限界をとうに超えている。
わかった。きっと自分は異世界に迷い込んだのだ。
おそらく、処理班の事務所があるあのボロビルが異世界への入り口だったに違いない。
タイトルは『就活に失敗した美少女がボロビルに入ったら、都市伝説の怪物が実在する世界に転生してしまった』だろうか。
売れなそうだ。
ワンチャン、自分の絵を天才絵師が劇的美少女に書いてくれたら売れるかもしれない。
「しょ、処理班で働く人は、みんなこんなことができるんですか?」
「いやいや、このスピードで走れる人は、全国でもさすがにそんな多くないよ」
走れる人間が、いるはいるのか。
「でもまぁ運動神経に限らず、ほとんどの班員が何かしらの技能があるよ。人の常識を超えた能力を持つ怪異と相対するわけだから、普通の人間じゃ処理班の現場で働くのはなかなかに難しい」
これまでも驚くようなことばかりだったが、ここにきて最大の驚きがやってきた。
奇人変人ばかりじゃないか。
こんなところで一般人の自分が働けるわけがない。父には悪いが、やはり辞めるしかないだろう。
「大変申し訳ないのですが、やはり私のようなものが、この処理班で働くのは難しいと思います。つきましては、退職させていただければ……」
「ちょっとちょっと!こんな状況でいきなり何言うのさ。音々ちゃんが辞めちゃったら困るよぅ」
怜が慌てて後ろを見てくる。気持ちはわかるが、今は前を向いてちゃんと運転してほしい。
「でも、私には特別な力なんてないですし」
「何を言ってるのさ、あるじゃないか、神職としての力が。怪異に影響を与えられる祝詞を唱えられる人なんて本当に貴重なんだよ」
「そんなこと言われても……とても信じられないですよ」
「そうか、音々ちゃんはまだ自分の力を使ったことがないんだね。わかった、事務所に戻ったらその落ち武者とジェットばあさんを昇華させてみよう。そうすればきっと自分の力が信じられるよ。奏さんも音々ちゃんの素質は、自分より上だって言ってたんだよ?もちろん、僕もそうだと信じてる。今はお父さんや僕のことを信じてもらえないかな?ここまでだって僕は嘘をついてなかったと思うんだけど」
いや、細かい嘘はついていた。それは見逃せない。
しかし、大事なところは、全て本当だった。変人ではあるが、悪人ではない。それは今日一日一緒にいてわかった。
「わかりました、そこまで言ってくれるなら」
「良かった、ありがとう。とりあえず今はジェットばあさんの処理に集中しよう。虎も頑張っていることだし」
ここで音々は我に返った。
自分の事ばかり考えていたが、今も虎之丞はジェットばあさんを捕まえようと、外を走っているのだ。
車の窓から外を見る。
ジェットばあさんに少し遅れる形で、虎之丞は一生懸命走っていた。
辞めようと思ったが、今はまだ自分は処理班の班員。何もできなくても、せめて応援くらいはしなくては。
「頑張って!」
聞こえるかわからないが、声を出す。
窓を開ければいいのだろうが、ジェットばあさんが怖い。そこまではできない臆病な音々である。
しかし、どうやら音々の気持ちは伝わったようで、虎之丞は笑顔で親指を立てる。
老婆を追っている球児がさわやかにいいねサイン。
シュールな光景である。
「と、虎さんは、大丈夫でしょうか!?」
「う~ん、とりあえず、ここからしばらくは真っ直ぐな道だから走りやすいとは言えるね。ジェットばあさんも良いところに出てくれた。今までジェットばあさんに驚いての事故がなかったのは、ここだったからかな。急カーブとかだったら危ないもんね。あ……でもまずいな」
「え!?ど、どうしたんですか」
「ジェットばあさんのほうが少し速い」
怜が少し顔をしかめた。
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