第13話 2
「――ほい、気をつけろ」
と、なんでもない事のように、殿下はわたしの手を取って、馬車から降りる手助けをしてくださいます。
こういう紳士的なところは、昔から変わらなくて。
わたしは思いがけない懐かしさから、強張っていた頬が緩むのを自覚しました。
……結局、馬車の中では、なにもお話できませんでした。
なにを話して良いものか、どう話すべきかを迷っている間に、馬車は繁華街の入り口に到着してしまったのです。
わたしは昔からこうです。
思った事を思ったように言えないのです。
――あなたは王太子妃になられるのですから、あなたの発言が相手にどう影響を与えるかを意識し続けなければなりません。
お父様が雇った家庭教師が、何度も何度も繰り返し教えた言葉です。
わたしの軽はずみな発言で、相手を不快にさせるかもしれない。
あるいは、わたしの発言で殿下にご迷惑をおかけするかもしれない。
そう考えると、わたしは言葉を発する前に、言葉を選ぶようになってしまって。
そうしている間にも、周囲の会話はどんどん進んでしまい……
気づけば、わたしは会話を放棄するようになりました。
ええ、周りが勝手にわたしの気持ちを忖度して、会話を進めてくれるのが楽だったのです。
今思えば、お父様やお母様にさえも、そうしてやりすごすようになっていましたね。
学園入学まで殿下とは、婚約者として定期的に会っていましたが。
殿下が話しかけて、わたしが微笑みながらうなずくというのが、いつもの流れでしたね。
……ソフィア様はその様子がうらやましかったと仰ってましたが。
わたしは殿下に厭われないかとビクビク怯えながら、それさえも不快に思われるかもしれないと取り繕う、必死な時間だったのですよ。
そうですね。
あの頃は、好悪以前の問題……ただお父様の言いつけ通り、殿下に嫌われないようにするのに必死だったのだと思います。
「――さて、どうするか?
いきなり飯っていうのもな。
セリス、なにか欲しいものでもあるか?」
殿下に問いかけられて。
わたしは思わず首を振ります。
「……おまえ、本当に変わったよな。
以前はすぐにあれも欲しい、これも欲しいって言ってたじゃないか」
その言葉に、わたしは顔が赤くなるのを感じます。
「――それには理由が……
お恥ずかしい限りなのですが……言い訳になってしまうかもしれませんけど。
その……聞いて頂けますか?」
わたしが勇気を振り絞って告げると。
「なら、喫茶店にでも入るか」
殿下は、やはりなんでもない事のように、わたしの手を取ってエスコートしてくださいます。
以前のわたしは……殿下とこうして手を繋いでいる時に注がれる、周囲の視線が好きでした。
特別なにかに秀でた事のないわたしを。
周囲は特別な人のように見てくれましたからね。
けれど。
今はどうでしょうか。
かつてもそうでしたが、それよりさらにタコが潰れて硬くなった殿下の手を見つめます。
わたしの手もまた、修道院や大聖堂での野良仕事でクワを振るったりするようになったので、皮が厚くなっていて。
「――セリス? どうした?」
わたしの視線に気づいて、殿下は首を傾げます。
「……その、女らしくない手でしょう?
ご不快ではないですか?」
すると殿下は、不思議そうにわたしの手を見下ろし。
「んー、むしろ良いと思うぞ?
これは努力し続けた者の手だ」
そう言って、わたしにニヤリと笑ってみせるのです。
「例えばユリアンだ。
あいつも鍛錬の鬼だからな。
手なんか、俺と同じくらいゴツゴツだ。
俺はアイツの手が羨ましくて、鍛錬に打ち込んできたくらいだ」
それから殿下は再びわたしの手を引いて歩き出す。
「それからソフィアだな」
「――え?」
あの方は武術の鍛錬とは縁遠そうに見えるのですが。
「あいつの手はさ、いつも書類仕事してるから、ペンダコだらけだし、シワとか爪にインクがこびりついて落ちないんだ。
俺も書類仕事はしてるはずなんだが……ああはなれない。
正直、うらやましいよ」
そして殿下はわずかに歩速を緩めて、わたしの隣に並び。
「おまえのこの手は畑仕事や民を癒やし続けて、こうなったんだろう?
なら、誇るべきだと思うぞ。
……うん、俺は好きだ」
――ああ、殿下はおズルい。
わたしがかつて、どれほどその言葉を欲していたか。
きっと想像もつかない事でしょう。
今になってそんな言葉をくださるなんて……
思わず涙が滲んできて。
わたしは空を見上げてこぼれないようにやり過ごします。
「――お、あそこにするか」
殿下に導かれるままに喫茶店に入り、わたし達は席に付きます。
いろんな茶葉の香りの中に、一際目立つ香ばしい香り。
ふたりでメニューを開いて。
「お、さすが交易都市リロイ! もうコーヒーがある!」
それは殿下自ら国内に広めようとしてらっしゃる飲み物で。
魔王陛下もお気に入りになったものですね。
わたしはまだ飲んだことがないのですが。
そもそも喫茶店に入るのも初めてです。
「で、ではわたしもそれを……」
それから茶請けとなるケーキを頼み、ほどなくしてそれらがテーブルに並びました。
殿下はコーヒーをすすり、わたしも真似してすすりますが……
「にっがぁ……」
思わず顔が歪んでしまいます。
「――ははっ。慣れるまでは、砂糖を入れると良い。
あとはサヨ陛下みたいにミルクを多めにいれるのもありだな」
わたしにそう告げて、殿下はウェイターにミルクを注文してくださいました。
すぐに届けられたミルクをわたしのカップに注いでくださって。
「それで?」
殿下の問いかけに、一瞬首を傾げかけましたが、わたしはすぐに思い出します。
そうでした。
殿下に、以前のわたしが、なぜ色々とおねだりしていたのかを聞いて頂くのでした。
「――以前、わたしが殿下におねだりをしていたのはですね……」
ある日、お父様がわたしに、なにか欲しいものはないかと尋ねました。
いつもはわたしの返事を待たず、勝手にお話を進めてしまうお父様でしたが、その日は返事に迷うわたしに、辛抱強く応えるのを待ってくれていたのです。
わたしはこれだと思ってしまったのです。
わたしが欲しいものをねだる時だけは、相手の方はじっとわたしの言葉を待ってくださるのです。
それは殿下も例外ではありませんでした。
正直なところ、物はなんでもよかったのです。
わたしの話を殿下が聞いてくださる。
それがあの頃のわたしにとって、重要だったのです。
少なくともなにかをおねだりしている時だけは、殿下が困った顔をしながらも、わたしの言葉を聞いて下さったのですから。
少なくともその時だけは、殿下は間違いなく、わたしのものだと思えたのです。
――会話が苦手というところからはじめて。
それらをすべて話し終えて、わたしは思わずうつむいてしまいます。
こんなくだらない事で税を浪費させていたなんて……申し訳無さに顔をあげられません。
ただ殿下にわたしを見てほしかった。
そんな理由だけで、高価な品物をおねだりしていたなんて、以前のわたしはきっと頭がどうかしていたのです。
「……つまり、おまえはうまく喋られない中、俺の気を引きたくてアレコレとねだっていたというわけか」
「……はい。そうなりますね。
本当に申し訳――」
「――いや、気づかなかった俺の落ち度だろう?」
殿下はあっさりとそう告げられます。
「――仮にも婚約者が悩んでるのに。
あー、クソ。本当に俺はダメだな。
おまえがそんな悩みを抱えていたのを汲んでやれなかった……」
「いえ、わたしが楽な方……会話の放棄を選んでしまったのが悪いのです。
そのクセに自分を見て欲しいなんて、浅ましい事を考えてしまい……」
頭を下げようとするわたしを、殿下は手を振って止めた。
「そういうのはもうやめようぜ。
おまえと俺は友達になったんだ。
言葉遣いなんて気にするな。
――ほら、診察してた婆さんに話してたみたいにさ。
俺にもああいう言葉遣いして良いんだ」
なんでもない事のように告げる殿下に。
ああ、なぜでしょうか。
わたしは涙が溢れて来て。
「……ずっと、誰かにそう言って欲しかった……」
それ以上は言葉にならなくて。
わたしは両手で顔を覆って泣き崩れてしまったのです。
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