第2話 3

「はじめま――じゃない、お初にお目にかかります。王太子殿下。お招きに預かりました、エリス・グレシアにございます」


 迎えの馬車の中で、わたしは何度目になるかわからない、挨拶の言葉を繰り返す。


「お兄ちゃ――お兄様、そんなに笑わなくてもよろしいではありませんか」


 向かい合って座るお兄ちゃんに、わたしは思わず頬を膨らませてぼやいてしまう。


 わたしと同じ赤毛のお兄ちゃんは、馬車に乗ってからずっと、わたしの挨拶の練習を微笑ましげに見ていた。


「いや、済まない。だが、様になっているから、そんなに緊張する必要もないぞ」


「でも、あの王太子殿下にお会いできるのですよ? 失礼があったらと思うと……」


 わたしは参加しなかったけれど、春待ちのパーティで行われた婚約破棄事件の顛末は、噂で聞いている。


 あれ以来、学園の貴族令息令嬢は、殿下を恐れをもって語るようになっていたわ。


 でも、わたしは違うと思うの。


 殿下は、不敬な人には容赦のないお方なのかもしれないけれど。


 でも、本当に怖いだけの人なら、スラムの人達に手を差し伸べたりしないと思う。


 貴族の方々が、スラムの住民をどう思っているのか、わたしはよく知っている。


 ――ゴミ。あるいは街の厄介者。


 スラムに居た頃、わたしの周りでも、大した理由もなく貴族に痛めつけられた人が何人もいたわ。


 貴族すべてがそうではない事を、わたし達はあるお方や、お父様を通して知っていたけれど、そうではない貴族の方が多いという事もまた、よく知っていた。


 だからこそ、わたしは殿下を素晴らしいお方だと信じているの。


 ただスラムを再整備したいだけなら、武力で住民を強引に立ち退かせる事だってできたはずだわ。


 けれど、殿下はそれをせず、住民達にご飯と、住む場所と、着るものだけでなく、仕事まで与えてくださった。


 病気で苦しんでいる人は、病院に保護までしてくれたわ。


 そして今、わたしなんかが烏滸おこがましいかもしれないけれど……スラムの件でお礼を言いたいという、わたしの願いまで聞き届けてくださり、王城にお招きしてくれた。


 そんなお優しい方の前で、無様を晒したくないと思っても、当然の事でしょう?


 そういう乙女心がわからないから、お兄ちゃんは結婚できないんだわ。


 わたしは席に座り直して、窓の外を眺める。


 いつの間にか馬車は、王城へと繋がる大橋までやってきていた。


 馬車は進み、やがて馬車留めまでやってきて、わたし達は馬車を降りた。


「今日は個人的な喚び出しだから、応接室にお伺いする事になる」


 お兄ちゃんに案内されて、わたし達は王城内の回廊を進んだ。


「――ここだ」


 辿り着いた、扉の前で、わたしは大きく深呼吸する。


 持っているもの中では、一番落ち着いた色合いの緑のドレスにシワはない。


「お初に……お初にお目にかかります――よしっ」


 わたしが目線で合図すると、お兄ちゃんはうなずいて扉をノックする。返事はすぐに返ってきて、開かれた扉をくぐって、わたしはカーテシーする。


 ふわりと室内に香るのは、花の香りだろうか。よく知らない香りだけれど、すごく安心する。


「お初にお目にかかります。王太子殿下。

 お招きに預かりました、エリス・グレシアにございます。

 本日はお招き頂き、まことにありがとう存じます」


 ――言えた。言えたわ。


 わたしは頭を下げたまま、内心で拳を握る。


 あっ。だめよエリス。淑女はそんな事しない。


 ――あのお方にも言われたじゃない。


「よく来てくれたな。楽にしてくれ。こちらに来て掛けるが良い」


 低い声で告げられて、わたしは姿勢を正した。


 ソファに腰掛けた黒髪の男性。


 やや釣り上がり気味の目元は、かつてはいつも微笑みをたたえていたそうだけれど、今はまるでわたしを見透かすように、鋭く細められている。


 そんな彼の隣には、同じく黒い髪を後ろに流した女性の姿。


 オレア殿下と、宰相代理のソフィア様だわ。


 ――学園の生徒の中には、ふたりが愛人関係にあるなんて言う方もいらっしゃるけど……


 わたしは余計な考えを振り払うように、小さく首を振って、ソファの前で一礼して、腰をおろした。


 お兄ちゃんは立場上、着座できないのか、わたしの後に立った。


「オレア・カイ・ホルテッサだ。

 こっちはソフィア・クレストス」


「はいっ! 存じ上げております」


 わたしは興奮のあまり、ちょっとうわずった声で返事をしてしまって恥ずかしかった。


 いろいろとお礼の言葉を考えてきたのに、頭がまっしろになってしまって、言葉が出てこない。


 背後でお兄ちゃんが笑う気配がして、そっと殿下の元に進み出る。


「妹がスラムの住民や孤児達から集めた手紙です」


「……スラムには、その……文字の書けない人もおりますので、わたしが代筆させて頂きました」


 両手で抱えるほどの量になってしまったのだけれど、昨日、集められるだけ集めた、殿下への感謝のメッセージ。


 ……読んでくれるかな。伝わってくれるといいな。


「助かる。こういう市井の声は、施策の指針になってくれる」


 殿下はそう言って、一番上の便箋を取り上げて目を通してくださった。


「見ろ、ソフィア! この子供――ミアというのか? 将来、大劇場で役者になりたいそうだぞ!

 子供が夢を抱ける。やっぱり正解だったんだ」


 わたしは思わず涙が滲みそうになるのを、目が伏せてこらえた。


 やっぱり殿下はわかってくださっていた。


 かつてのスラムでは……その日その日の糧を得るのに精一杯で、将来の事なんて考える余裕なんてなかったわ。


 それが今では、将来を語ることができるようになった。


「こっちは来年から学校に通って、うんと勉強して、殿下のお手伝いをしたいって書いてあるわね」


 ソフィア様も別の便箋に目を通し、表情を和らげる。


 それも殿下のおかげだわ。


 来年からはじまる学校制度は、身分の別なく、親はかならず子供を学校に通わせなければいけなくなる。それは幼い子供達の将来の可能性に幅をもたせられるという事で。


「本当に、殿下には感謝してもしきれません」


 わたしが涙声で切り出すと、殿下は驚いたように顔をお上げになった。


「ど、どうした? どこか具合でも悪いのか?」


 オロオロと手を上下させる殿下は、噂に聞くような恐ろしい方でも、かつて噂されたような超然とした貴公子でもなくて……


 ――こんな事を考えるのは不敬かもしれないけれど、ごく普通の男の子に見えた。


「いえ。その……殿下のお気持ちに、感謝の念が溢れてしまいまして」


 わたしはなんとか貴族的な言い回しをひねり出し、目元を拭って殿下に微笑みを向けた。


「そ、そうか。それなら良いんだ」


 そう言って席に座り直した殿下は、咳払いしてわたしを見る。


「そういえばエリス嬢は学園の一年だったか。どうだ、調子は?」


 まるで気遣うように話題を変えてくれて、わたしはまた感謝の気持ちで一杯になる。


 ……けれど。学園の話はあまりしたくない。


「その……順調です。多少、難しい科目もありますが、なんとかなっています」


 わたしは顔に出ないよう意識して、なんとかそう答えを捻り出した。


 ウソは言っていない。あの方を目標に、努力はしているつもりだわ。


「そうか? それでだな。今日、おまえを呼んだのは、おまえの願いを叶える為でもあったが……ひとつ、おまえに頼みがあってな」


「殿下のご要望とあれば、このエリス。可能な限り応えさせて頂きます」


 殿下がそんな事言うのは、ありえない事だと思うけど。


 ――この身を差し出せ。


 そう言われても、わたしは受け入れられると思うわ。


 わたしは自分の想像で、顔が熱くなるのを感じた。


「や、そこまでかしこまる話でもない。ちょっとおまえの歌を聴かせて欲しいんだ」


 ――え?


 わたしはなにを言われたのかわからず、思わず再び背後に戻ったお兄ちゃんを振り返る。


 お兄ちゃんは優しい笑みを浮かべてうなずくだけで、助けてくれそうにない。


「で、ですがわたしの歌なんて……その、お耳汚しになるだけでは?」


「おまえの歌の評判はロイドから聞いている。母上の事も聞いているぞ」


 言われて、わたしは思わず息を呑んだ。


 この方は、わたしの出自を知っていてなお、わたしを貴族令嬢として扱ってくれていたの?


 王族とは、そこまで寛容な方々ばかりなの?


 ――いいえ。エリス。これはオレア殿下だからこそよ。


 わたしは太ももの上で両手を組んで握りしめ、殿下を見た。


「それでは、一曲――お耳汚しではございますが、歌わせて頂きます」

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