第37話 涙の晩餐

「くそ! まだ耳鳴りがするぜ!」


 掌で頭を叩きながら、オルグは毒づいた。

 クリスタにやられて、オルグはしばらく気を失っていた。

 飯の時間だとウルフに起こされて、今は一緒に食堂のテーブルに並んでいる。


「大袈裟な奴だな。そんなにでかい声じゃなかったろ」

「馬鹿言え! 口の中で手投げ弾が爆発するよりも酷かったぜ!」

「なら、奇跡の力を使ったんだろう。なにせあいつは、俺達を救ってくれる救世主だからな」


 ニヤリとして、ウルフは言った。


 オルグとの戦闘を見て、かなりのノーマンがそれを信じる気になっていた。普段は陰鬱な食堂も、今日はちらほらと笑顔が見えて、賑やかだ。


 オルグは不満げに豚っ鼻を鳴らした。


「馬鹿馬鹿しい。何が救世主だ。たしかにあのガキは俺を倒して見せた。そいつはすげぇ。評価してやる。けど、それだけだ。たった一人強い奴が増えた所で、何が変わるってんだ。飯の量が増えるのか? いいや! 女を抱けるようになるのか? いいや! 豚みたいに汚ねぇ生活が変わるのか? いいや! 俺達の惨めな暮らしはなにも変わりやしねぇんだよ。腹ペコでひもじい思いしながら、薄汚れた成り損ないの女共の尻を思い出して便所でマス掻いて、汗くせぇカビたベッドで寝起きするんだ」


 吐き捨てるオルグを見て、今度は狼の鼻が笑った。


「そう腐るなよ。少なくとも、救世主様のお陰で今日は豪華な飯が食える」


 救世主がやってきためでたい日という事で、ご馳走が出ると知らされていた。ノーマン達が浮かれているのは、そんな理由もあるのだろう。

 そんな事を言われても、オルグの機嫌が直る事はなかった。


「なにがご馳走だ。腐りかけの残飯がちょっと増えた所で、生ごみには変わりねぇだろ。それに、今日食った分明日貧しくなるだけだ」


 ノーマンズランドの食料事情は貧しかった。こんな場所に引き籠っていては、家畜や作物を育てる事も出来ない。作れても、精々かび臭いキノコくらいだ。そんなもの、美味くもないし腹の足しにもならない。だから魔族が遠出して、農村から盗んだり、商隊から奪ったりしている。


 オルグだってそんな事はしたくないが、そうでもしなければ生きられない。そして、折角手に入れた食料も、ただ飯食らいの成り損ないの胃袋に消えてしまう。彼らだって神に見捨てられた哀れな同胞だ。そんな風に思いたいが、ろくに働きもしない連中に自分の食い扶持を奪われれば、恨みたくもなる。


 特にオルグは、豚の魔族のせいか普通の人間の五倍、六倍も食うのだ。その分働いているし、魔王も飯を増やしてくれているが、全然足りなかった。オルグだって辛いのを我慢しているのに、一部の成り損ないからは影で大食いの豚野郎などと呼ばれている。そんな話を聞いてしまっては、オルグだってやり切れない。それでつい、魔王に歯向かうような事をしてしまった。オルグだって本当は、魔王の描く夢と理想を信じたかった。だが、現実の空腹の前には、そんなものは何の足しにもならないのである。


 そんなオルグを見て、ウルフはくっくっくと喉の奥で笑っていた。


「……何がおかしいんだよ」

「いやな、この後にお前がどんな風に掌を返すのかって考えたら、おかしくてよ」

「あぁ?」


 意味が分からず、オルグは顔をしかめた。


「俺はもう気付いたぜ。狼の魔族だからな。鼻がいいんだ。お前だって、鼻は効く方だろう?」

「なんの話だ――」


 言いかけて、オルグもそれに気付いた。


「……おいおい、嘘だろ!?」


 ハッとして振り向くと同時に、メイド姿の自称天使が台車を押して入ってきた。

 台車の上には、巨大なボウルに入った山盛りのハンバーグがほくほくと湯気を上げている。

 その美味しそうな匂いを、オルグの鼻は感じたのだった。


「えー、こちらのハンバーグは天使の私がミラクルパワーで作りました。私は天使なので、生き物なら魔物だってなんだって食べられる美味しいお肉に出来ちゃうんです。病気、毒、寄生虫、悪魔の呪い、一切心配ありません。この辺は魔物が多いそうなので、狩りをして材料さえ用意してくれれば、幾らでも作ってあげます。面倒なので、出来るだけ早い内に皆さんの手で同じ事を出来るようにしたい所ですけど」


 いかにも面倒臭そうに、天使は言った。

 話の途中で、ノーマン達が皿を持って一斉に群がる。


「おい待てよ! 俺にも食わせろ!」


 ハッとして、オルグも立ち上がった。ノーマンズランドには二百人以上もいるのだ。巨大なボウルにいっぱいのハンバーグだって、あっと言う間になくなってしまうだろう。


「慌てないで大丈夫ですよ! まだまだ沢山ありますからね!」


 遅れて入ってきた救世主が言った。地味な服の上に、なぜかフリフリのエプロンを着ている。彼も台車を押していて、同じように山盛りのハンバーグを積んでいた。


「……おいウルフ。おれぁ、夢でも見てるのか?」


 気付いたら、オルグは目から涙が溢れていた。

 その肩を、ウルフが励ますように叩いた。


「行けよオルグ。我慢するのはもう終わりだ。腹いっぱい食って来い」


 声も出せずに泣きながら、オルグは頷いた。


 そして彼らが、自分達を救ってくれる救世主と天使なのだと、心の底から信じたのだった。


 †


「う、うぅ、うぅ……」


 泣いてしまうと分かっていたので、イブリスは自室でハンバーグを食べていた。

 お腹を壊す心配のない真っ当なお肉をお腹いっぱい食べるなんて、いつぶりだろうか?


 そもそも、満腹という感覚すら、イブリスは長らく忘れていた。

 魔族に無理をさせている以上、王である自分が節制をしなければ、成り損ないに対する不満を抑える事は出来ないのだ。


 テーブルマナーもかなぐり捨てて、貪るようにハンバーグを食らう。

 その美味しさに、また涙が出た。


 美味しいという事は、なんて幸せなんだろう。

 お腹が膨れるって、なんて安心するんだろう。

 そんな当たり前の事すら、ノーマン達は奪われてしまった。

 けれど、ようやく取り戻したのだ。


 自分の手柄ではないけれど、それでも、今日まで耐えてきた甲斐はあった。

 そうでなければここにいるノーマンは全員、とっくの昔に死んでいたのである。


「でも、これが蝙蝠とネズミのお肉で出来てるなんて、みんなにはまだ言えないわね」


 イブリスは事情を知っていたから、調理はノーマン達を締め出して行われた。


 クリスタが洞窟探索の間に殺してどこでも倉庫に蓄えた全部の食材を使った形である。それでも二百人分には足りないので、シュガーは万能肉の質を落とす事で対処していた。低品質の合成肉でも、飢えたノーマン達の舌にはご馳走だったし、そもそも以前クリスタが食べていた合成肉が、度を越して豪華だったのだ。


 ちなみに、イブリスは知らされていないが、この合成肉には、ネズミと蝙蝠の他にもう一種類、洞窟にいたとある魔物の死体が使われていた。


「大丈夫ですよぉ~。マスターの分は別で用意してあるので。ゴキブリは入ってませんからぁ」


 ここではないどこかで、笑顔の天使が言ったのだった。

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