第4話 悪夢

「いい加減に起きろっての!」


 突然腹を蹴りつけられて、クリスタは目を覚ました。

 息が詰まって激しく咳込む。身体は吐こうとしているが、出てきたのは胃液だけだ。同時に、全身を苛む激痛に悲鳴を噛む。


「――くっ、ぁ――がぁ……カール? こ、ここは――」


 夕暮れ時で、森の中のようだった。クリスタは適当な木を背もたれにして地べたに座っていた。目の前には、カールが立っていた。少し後ろには、酷く意地悪な顔をしたリリィが面白がるようにしてこちらを眺めている。

 そこで再びカールのつま先が腹に食い込んだ。


「――がぁ!?」


 痛みは麻痺して、内蔵の引き攣る苦しさだけが暴れていた。漏らしたのだろう、股間がじんわりと温かくなる。


「成り損ないの人間未満が人間様の名前を呼んでるんじゃねぇよ!」


 不機嫌そうに鼻を鳴らすと、カールはクリスタの股座に広がる水溜まりに気付いた。


「きったねぇな! こいつ、漏らしてやがるぜ!」


 顔をしかめて距離を取るカールと入れ違いになるように、リリィが嬉々として前に出た。


「本当だ。だっさぁ~い」


 クリスタの知っているリリィとは似ても似つかない嗜虐的な声で言った。恥ずかしさが込み上げて、慌てて手で股間を隠す。リリィはその手をぐりぐりと捻るように踏みつけた。


「あああああああ!」 

「隠さないで、よく見せなさいよ、お漏らしクリスタ」


 髪の毛を鷲掴みにすると、うっとりとした表情でリリィは言った。

 クリスタは悪夢を見ているのかと思った。だって、あの優しかったリリィがこんな事をするはずがないじゃないか!


 リリィが足をどけると、言われるがままに手を引っ込める。涼し気な森の風に、もんわりと生暖かな臭気が香った。

 リリィはそれを、味わいでもするようにわざとらしく鼻をヒクつかせて嗅いだ。


「くっさぁ~い。いい歳してお漏らしとか、恥ずかしくないわけぇ?」


 わざとらしく顔の前で手を扇ぐと、ニヤついた顔で言うのだった。

 恥ずかしくないわけがない。ガールフレンドにお漏らしを見られたのだ。クリスタは舌を噛んで死にたかった。悔しさで、ぼろぼろと涙を零す。


「……どうして? なんでこんな、酷い事をするの? 僕がスキルに目覚めなかったからって、あんまりじゃないか……」


 彼女だけは味方だと思っていたのに。人はこんな風に簡単に変わってしまうのだろうか? そう思って絶望していると、リリィが笑い出した。


「あはははは! なにそれ、ばっかみたい! あんた、まだ気付いてないわけ?」


 クリスタがポカンとしていると、リリィは下品に腰を揺らしてカールの元に歩み寄り、見せつけるように唇を奪った。視線をクリスタに流しながら、長い舌を触手のように絡め合う。

 クリスタは開いた口が塞がらなかった。やっぱり、悪夢を見ているんだと思った。スキルの解放に失敗したのも夢ならいいのだが。


「ぷあぁ。分かった? あんたはただのキープ。本命はこっちよ。スキルに目覚めなかった無能の不能ちゃんに用はないの」

「……僕の事、騙してたって事?」


 信じられず、クリスタは聞いた。


「ばっかじゃないの? あんたが勝手に信じてただけでしょ? あたし、サディストだから、ボロボロになってるあんたを見るのは楽しかったけどね」


 カールの身体に持たれかかり、左手で彼の股間を撫でまわしながらリリィは言った。


「お前、本当に性格悪いよな。その為に、俺にこいつをボコらせてたんだから」

「カールだって楽しんでたじゃない。こいつが治療に来る度にママからお小遣い貰えたし」

「まぁ、いい小遣い稼ぎにはなったよな――うっ」


 股間を弄られて、カールが甘い声をあげる。


「ねぇカール。こいつの前でヤッちゃわない?」

「いや、流石にそれはねぇだろ……」

「え~、いいじゃない。こんな機会、二度とないわよ? どうせこいつは死ぬんだし、あと腐れなくていいじゃない」

「……まぁ、それもそうか」


 ニヤリとして、カールがベルトに手をかける。

 あまりの事に、クリスタは考える事を拒否していた。

 と、不意に森の奥からウォォォォォンという、野太い唸り声が聞こえてきた。

 その声に、カールがハッとする。


「やっぱだめだ。この辺はムータンティガーの縄張りだからな」

「え~。バトルマスターなんでしょ? 魔物なんか倒しちゃえばいいじゃない」

「無茶言うなよ! ムータンティガーは大人の戦士だって尻尾巻いて逃げるバケモノだぜ!」

「ちぇ。バトルマスターって言っても大した事ないのね」

「目覚めたばっかりなんだよ! ちょっと鍛えれば、ムータンティガーだって殺して見せるさ!」

「あたしは今ここでしたいんだけど……ま、いっか。それじゃあ帰って、こいつの家でやりましょうよ。今日から、カールの物なんでしょ?」

「あぁ。こんな成り損ないには勿体ない家だぜ」

「――待ってよ!? カールの物って、どういう事!?」


 ハッとして、クリスタは尋ねた。聞いてから、しまったと思う。余計な口を利いたらまた殴られる。


「馬鹿がよぉ。考えりゃわかるじゃねぇか。身寄りのねぇお前を始末したら、財産がそっくり残るだろ。もったいねぇから山分けだ」


 幸い、カールはもうクリスタに興味はないようだった。リリィに股間を揉まれながら、彼女の肩に腕を回して胸を揉み返している。


「そういう事~。成り損ないを出すのは村の恥だから、村長が狩人の森に捨てて来いってさ」


 クリスタは絶句した。二人の会話で薄々気づいてはいたのだが。狩人の森とは、ムータンティガーと呼ばれる恐ろしい魔物の縄張りだった。人間ばかりを執拗に狙うので、子供は勿論、大人の戦士だって立ち入らない。子供達はみんな、悪い子にしていると狩人の森に捨てられと脅されて育つのだ。


「で、でも……成り損ないは、追放されるだけだって……」

「あたしもそう思ってたんだけど、違ったみたい。本当はこっそり捨ててたみたいよ?」

「成り損ないの始末は一緒に成人の日を迎えた子供の仕事なんだとよ。まったく、最後まで手間かけさせるぜ」


 そう言って、カールが唾を吐きかけた。


「お駄賃であの家が手に入るなら、安いもんでしょ」

「まぁな。俺がバトルマスターに目覚めたから、村長もご機嫌取りに必死なんだろ。お前みたいに――いでででで!?」


 股間を握られて、カールが悲鳴をあげる。


「お望みなら、強さだけが全てじゃないって教えてあげるけど?」

「ベッドの上でか?」

「そう、ベッドの上で」


 ねっとりと告げて、リリィが舌を絡めた。

 長いキスを終えると、リリィはクリスタに流し目を送った。


「そういう事だから、ばはは~い」

「無理だろうけど、帰って来ようなんて思うなよ? そんな手間をかけさせやがったら、今度は手足を折ってから置き去りにするからな!」


 脅しつけると、カールはリリィを抱きかかえて、風のように走り去った。


 クリスタは長い事茫然として、不意に吐き気が込み上げて胃液を撒き散らした。


 気がつけば辺りは闇に飲まれていた。


 闇の向こうから、ムータンティガーの唸り声が近づいている。

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