Episode1 #4 John Doe

 結局、バートはジェームズの提案を受け、今日一日彼に同行することになった。特に何か出来る訳でもない自分が付いて行って何が出来るのか。それが彼には分からなかったが、少なくとも自分の身の安全は守られるだろう。そうバートは判断した。

 しかし。

「……って、そうだよ」

 家を出て階段を下りていき、アパートのロビーから見えたものに、バートが思いっきり顔をしかめて足を止めていた。彼の視線の先には、先ほどジェームズが撃ち落した化け物らしき緑色の物体が。先程もアパートの自室の窓から見てはいたが近くで見るのと遠目に見るのとでは違う。

 その一方で。

「肝が据わっているな」

 ジェームズは平然とした顔で歩きながら、バートの方を見てそうこぼした。

「へっ?」

 予想もしない言葉にバートは少し驚いた。何を根拠にまたそんなことを。ジェームズは驚いたバートを見て、首を横に振った。

「ああごめんごめん。思わず感心してた」

「……感心?」

「君さ、意外とこういうのに慣れてるって思ってさ」

「こういうの……?」

 バートの問いに、ジェームズは地面の緑の化け物の破片を指さした。

 確かにグロテスクだとは思うが、ひどい嫌悪感はない。

「普通の人間だったら今頃足が竦んで動かない。ある程度覚悟が決まってるはずの退魔師見習いの子でも最初はこんな光景に出くわしたら卒倒かリバースだ」

「……それは、だいぶハードワークだな」

 会ったこともない、知りもしない抽象的な見習いの人が何だか可哀想になってきて、バートは思わず呟いていた。

「仮になんとか堪えたとしてもスクランブルエッグや白身魚が当面トラウマになるみたいだよ。ベジタリアンに転向するやつもいるね」

「ベジタリアンは何となく分かるけど……スクランブルエッグや白身魚?」

「人間の死体の脂肪分が浮いているのが卵を混ぜたアレに近いんだよ。白身魚は人の筋肉がそう見えることがある」

「うわぁ」

「その『うわぁ』だよ。共感は示していても嫌悪はあまりないソレだ。珍しい」

 この男は、このジェームズ・フォースタスという人物は、一体何者なのだろう。退魔師なのは分かっていたが、何だか他人の心の薄皮を剥いた何かを凝視しているような眼をしている。

「……そんなに珍しいか?」

 何だか不愉快に感じ、少し突き放すようにかえす。だが、ジェームズは気にしている様子はなかった。

「そこそこ珍しいね。君、職業は何? 葬儀屋? 看護助手?」

「ビルのメンテナンスだよ。大体は清掃とか塗装」

「へーえ」

 すでに塊と化した緑色の化け物を踏まないようにぴょんぴょんと飛びながらアパートのロビーの階段を下りていき、二人はそんな会話を交わす。

 だが、職業を聞いたジェームズはどこか納得のいかぬ顔をしている。肝が据わっている清掃員がいることの何が悪い。

「……あいにく、僕も自分についてはこれ以上知らないんだよ」

 黙るかと思って言い放った言葉。それは意外にもジェームズの好奇心をさらに刺激するだけに終わった。

「何それ!?」

 先ほどよりも何だかジェームズの目が輝いている気がする。これはまずかった。バートはそう思ったが、とはいえ質問に答えないのも悪い気がした。

「言葉通りの意味だよ。記憶喪失なんだ。ついこないだのことからしか記憶がない」

「マジで!?」

 瞳がまるでスフェーンのようにキラキラと輝いている。

「長いこと色んなもの見てきたけど、記憶喪失の人間を見るのは初めてだ……!」

 先ほどからジェームズが自分に関心を向けてくれているのはバートもよく分かっていた。だが、そのベクトルの向きが何だか微妙に変わり、スカラーも大きくなっている気がする。一体、何なのだろう。

 あと、何だか発言が妙にジジくさい気がする。

「……アンタいくつなんだよ」

 思わずそう聞いてしまった。だが目の前のジェームズはニヤリと笑って

「いくつに見える?」

 とだけ。バートは少しこの男に意地悪をしてやってもいいとさえ思えてきて。

「40過ぎ」

 そう即答した。一瞬にして点になるジェームズの目を見て、何だかバートは彼の表情の変化が愉快に感じてしまった。

「なんでそんな断言するんだよ!? 老けて見過ぎだろ!?」

「言い回しの一つでも変えてみたらいいと思うよ」

「…………」

 ぐうの音も出ない。硬直するジェームズの横をバートは通り、ジェームズの出した車に乗ろうと、ドアに手を掛けた。

「それよりも、これからどこに――」

 直後、何かがバートの真横を思いっきり通り、そして後ろで弾けた。

 一体何が起きたのかと振り向けば、先程の怪物の千切れた手に大きな風穴が空いている。

 視線を元に戻せば、先程の銃を持ったジェームズの姿が。

「ごめん、さっき何て言った?」

 えっと、これは、つまり。

 さっきの千切れた手が自分に襲い掛かろうとしたところを、ジェームズが撃ったということか。

 ジェームズはあっけらかんとしていて、年齢を絶妙に老けて見られたことよりも驚いていない。

「……そういうところだぞ」

 だから、40過ぎに見られるんだ。ジェームズに聞こえるか聞こえないかギリギリの声で、バートはそう呟いた。


 それにしてもこの狙われようは異常である。急いで車に乗る二人。ジェームズがエンジンをかけようとした直後、バートにはあまり聞きなれない奇妙な音が聞こえた。

「失礼。電話だ」

「……電話?」

 手のひらサイズの薄い板を操作し、電話とやらにでたジェームズを見て、バートは首をかしげた。

 なんせ自分が知っている電話と明らかに形状が違ったからだ。道ゆく人がそれを凝視しているところを見たことはあるものの、あれが電話だとは。

 バートはそれがスマートフォンという名前の代物だとは知らない。

「もしもし。ああ、アイリスか。……………。……そうか」

 そんなバートなどお構いなしに、話は順調な進んでいるようだ。だが、

「ジョンかジェーンかもわからないのか?」

 そうジェームズが返したあたりから妙に雲行きが怪しくなってきた。

「……マジか。……その手は尚更ごめんだ。あのおっさんに――」

 直後、ジェームズは危うく手から電話を滑り落としそうになった。

「……バッチリ聞こえてたのかよ」

 どうやら”あのおっさん”に電話が繋がってしまったらしい。目の前のジェームズがとてつもなくげっそりとしている。

「あのな、ウィリアム。人に面倒な仕事押し付けておいてそのセリフはナシだろ?

 ……あれ以上協力できないって言うんなら今回の件の報酬上げろ」

 やたら殺伐とした口調で、ジェームズがそう切り出す。

「何なんだあの額。時給換算したら最低賃金ギリッギリだろ。こっちがどれだけ命張ってると思うんだ」

 時給換算したら最低賃金ギリッギリ。……何だか同情したくなるようなセリフがジェームズの口から聞こえてきた。退魔師とはそこまで待遇の悪い仕事なのだろうか。そりゃ報酬上げろとは言いたくなるのもわかる気がする。

 だが、ジェームズの必死の交渉はあっさりと終わりを告げた。

「な に が『悪しからず』だ……!!」

 どうやら決裂したらしい。ジェームズがヒビが入りそうな勢いでスマートフォンを握りしめている。同じ雇われの身として見ていて辛くなった。

 だが、数秒もせずにジェームズの顔色が大人しくなった。

「……そうだったな。契約は契約だ。……分かったよ」

 まるで百面相を見ている気分になる数分だった。だが、その電話で一つ気になることがバートの頭をよぎった。

「……あのさ」

 ジェームズが電話を切り、エンジンを掛け、車を走らせたあたりで、バートは恐る恐る彼に声をかけてみた。彼はどこかあっけらかんとした表情で、先程の電話の内容を気にも止めていない風だった。

「ん? なんだ?」

「……僕の件、迷惑だったか?」

 バートのそのセリフにジェームズはどこかバツの悪そうな顔をしていた。

「あ。あー……。君が気にすることじゃあない。悪いのはしょうもない金額ふっかけてきたうちの社長だ」

「……さっきの電話、まさかその社長?」

「ああそうだよ。ウィリアム・ベネーその人。毎日2時になるとうちの部署にわざわざ来てコーヒーサーバーからコーヒー淹れて飲んでく変わったオッサンだよ」

「変わったおっさん、ね……」

 変わったおっさん。そういじる割には……いや、いじるからこそウィリアムとジェームズになんとも言えない親しさをバートは感じた。

「なんだかんだ言って仲良いんだな」

「……。まあ、付き合いは長いさ」

「長い、付き合いね……」

 長い付き合い。バートはその言葉がとても羨ましく感じてしまった。彼には積み重ねた過去があるのだ。今の自分がいくら望んでも到底手に入らないものだ。

「……そういえば、記憶喪失、だっけ?」

 ジェームズが何かを察したかのように切り出す。

「いつ記憶喪失って診断されたんだ?」

「……3ヶ月前。気が付いたら、病院のベッドの上に居て。それ以前の記憶がなかったんだ」

「記憶喪失って……全部の?」

「ああ。……自分については一切思い出せない」

「じゃあ、今の名前は……」

「あれは僕が身に着けていた認識票ドッグタグから借りたものだ。本名かどうかは分からない」


「……『借りた』?」

 借りた。ジェームズはその言葉に違和感を覚えたようだ。やたら怪訝な顔をしている。

 当然だ。ドッグタグは兵士が死んだとき、その遺体が原型を留めていなくても身元が判明するようにという理由で身に着けるものだ。ならば、記憶を失っても、その持ち主の身元を示す役割を果たすはずだからだ。

 ジェームズの疑問に満ちた声に、バートは珍しく低い声で返した。

「僕が付けていたドッグタグが、本当に自分の物かどうか怪しいからさ」

 ジェームズは思わず車のブレーキを踏み、道路の路肩に車を止めると、目を見開いて聞き返した。

「……どういう意味? それ」

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