Episode1 #2 One day in the morning2

 結局その後。

 バーソロミューは医師から薬の処方を提案されたが、断った。

 自分が他者とは決定的に違うのは理解できていたが、それは精神疾患と言われるものではなく、他の何かだと思ったからだ。

 ただ、それが何かはわからなかった。そして心に原因があろうと他に要因があろうと、他人の目には異質なものは異質に映るのだとこの直後、彼は理解することになったのだ。

 事件の翌日、いつものように仕事に出た時のことである。作業着に着替えるために自分用のロッカーを使った際に、事件は起きた。

 いつもの上着を脱いだ際に、カタンと何かが床に落ちる音がした。あれ、何が落ちたのだろうと思うより先に、同僚の一人が音の正体を拾い上げ、バーソロミューに渡した。

「バート、これ」

 バーソロミューは、周囲にはバートと呼ばれている。ゆえに容易くいつものように反射的に反応を示したが、今回ばかりは振り向かなきゃよかったと少し思った。

 同僚が持っていたのは、病院の診察券である。

「あ、ありがとう……」

 バーソロミュー改めバートは素直に診察券を受け取るが、妙な予感を胸に抱いた。その予感はすぐに的中した。

「診察券なんて……どこか、具合でも悪いのか?」

「あ、ああ……」

 病院なんぞ、若くて健康ならば基本滅多にお世話にならないものである。そのため同僚もその点が気になったのだろう。

 一方、バートは前日の件もあり、なんと説明していいかと言い淀んでいた。これは言い方を間違えれば距離を取られるものだと、何となく感覚的に思ったのだ。上司がバートのそばに寄ってきた。

「ん? どうした?」

 とっさに首を横に振るバート。これで誤魔化せると思ったが、診察券を拾った同僚が食いついてきた。

「どうしたもこうしたも、こいつ病院通ってるみたいで! 俺心配で!」

 浅はかだった。首を横に振っただけで誤魔化せるわけがなかった。心配という言葉は非常に残酷で、そして非常に強力である。『いらんことを』とも思ったが、同僚は心配した結果その言葉を言ったのだ。全く心配という言葉は恐ろしいものだ。

 上司はバートをまじまじと見た後、心配そうな声を上げて一言。

「……何があったんだ? 休むか?」

「いやいや! そこまでの話じゃないんです!」

 事実だ。事実しか言っていない。身体に問題はない。心もしかりだ。だが上司の顔は心配そうなまま。

「昨日ちょっと検査受ける機会があって、異常なしって言われたんで……」

「そう、か……」

 上司の声のトーンが露骨に落ちた。そしてバートは悟った。これはまさしく『腫れ物に触るよう』だと。あからさまに『おそるおそる』と接しているのを肌で感じたからだ。

「まあ、なんだ」

 上司はバートからわずかに目を逸らし、そしてぽつりと一言。

「体調管理には気をつけろよ」

「は、はぁ……」

「そこさえ気にかけてくれれば俺は文句は言わねぇよ」

 なんだろう。避けられたような、妙に突き放されたような気分になった。

「あ、あの……」

 焦りゆえにバートは上司に声を掛ける。上司はさっきの妙な怯えを持ったまま、バートを見た。

「何だ……?」

「大丈夫、なんで……」

 あんまり大丈夫じゃないような発言になってしまったのは否定しない。だが、そうでも言わない限り自分を保証できないと思っていた。

 しかし、それは上司には通じなかった。

「そうか」

 上司のその返事はやはりどこかそっけなく、そしてもう関わりたくないと言いたげな雰囲気が露骨に漂っていた。


 ただ、病気の疑いがあるという事実だけで、ここまで疎外感を覚えるとは思わなかった。気のせいではないと思う。仕事中も診察券を拾った同僚に、やたら心配された。

「ちゃんと休めよバート。検査受けるぐらいなんだからよ。また病院に行きたくないだろう?」

 そんな言葉を午前中に何回も繰り返されたのだ。心配されたというか、その関わり方は妙にネタにされているような言い方に聞こえた……気がした。これは、僻みなのだろうか。それとも、気にしすぎなのだろうか。

 

 それからひとまず午前中の仕事が終了し、昼の休憩を終えたあと。事態はさらにややこしい方向へと進むことになった。

 器具を取り出したバートが改めて仕事に取り掛かろうとしたときのことである。

 バートの耳に、人が啜り泣くような声が聞こえたのだ。

 一瞬、気のせいかと思った。だが、あまりにも長い間泣く声が聞こえるのだ。これは聞き間違えではない。流石に不審に思い、バートは声のする方へと向かっていった。

 真っ白でやたら殺風景な廊下が広がる中、小走りで向かうバートは、その廊下の奥に小さな女の子がうずくまっているのが見えた。どうやらあの子が声の主らしい。

「大丈夫?」

 少女はバートの声に顔をあげ、こっちを見つめた。ずっと泣いていたせいだろう。その目は真っ赤に充血し、涙のためにまぶたがはれている。なんて痛々しいんだと思いながら、バートは優しく声をかけた。

「名前は? ご家族は?」

 少女はヒックヒックと引きつりながらふるふると首を横に振るだけ。まいったな。これじゃあどうにもならない。そう思っていると、少女はすっくと立ち上がり、バートの手を掴んだ。

「おじちゃん」

「……へ?」

 少女の顔を改めて見る。その顔は先ほどとは打って変わって晴れやかで、とても幸せそうだった。

「ありがと」

「??? あ、ああ。うん。どういたしまして……?」

 少女はバートと握手をすると、たったかと勢いよく走っていき。

「ばいばーい」

 元気に手を振って、廊下から去っていってしまったのだ。まるで狐に化かされた気分である。いっときではあるが憮然とした表情でそこに立ち尽くしていると、同僚が慌ててこちらにやってきた。

「おい! バート! 一体どうしたんだよ!?」

「どうしたもこうしたも……さっき、すすり泣く声がずっと聞こえるからこっちに来たら……迷子の女の子を見つけて」

「女の子?」

 バートがいる廊下は、彼の目の前に突き当たりがある。つまり時間差はあれどどこかで同僚と少女が鉢合わせていないとおかしいのだ。

 だが、同僚はそんな子供がいたとさえ認識できていない風である。

「……会わなかった、のか?」

 おそるおそる、バートが問う。同僚は力強く頷きを返した。

「ああ、全くこれっぽっちも」

「…………」

 背筋をまるで氷柱でツゥっと撫でるような奇妙な感覚が、走った。

 自分が聞いたあの声は何だったのだ。握手だって交わしたのだ。この突き当たりで見たあの子は何だったのだ。

「まさかサボるための口実とかじゃあないよな?」

「そんなわけない!」

 同僚はからかい口調だったが、そんな疑いをかけられてはたまったものじゃない、そう思い、思わず反論した。

「僕は確かに見たんだ! 名前を聞こうとして、ご家族がいるかをーー」

 思わず熱くなった。直後、バートは誤魔化しておけばよかったと後悔することになった。みるみるうちに同僚の目が深く沈んでいく。一気に頭が冷えた。

「え、あー……」

 一気に語気が衰えていく。

「まあ、いいよ」

「……本当に、子供がいたんだ。ここに」

 弁解は、する。だが同僚は聞いちゃいない。そう感じた。

「うん。わかった。そういうことにしよう」


 ーーそういうことって、いったいどういうことなんだよ。

 そんな言葉を言う暇もなく、同僚はバートの肩を叩いて無言のまま去っていったのだ。


 おかげさまで、周囲の評価はだだ滑り。連日ストップ安を記録し、最終的には『何かが見えている変な奴』扱いされるようにまでなった。


 そして、現在に至るわけである。今となっては、このままじゃあ仕事をクビになるんじゃないかという不安に怯える身だ。せっかく何もない所から仕事になんとかありついたというのに。

「あーあ……」

 溜息一つ。何かいいことが無いだろうか。自分には手立ては思いつかない。だが、せめて今の状況を何とかしたい。そう思いながらぼうっと窓の外を見て、休日の街を眺めた。

 まだ外は静かだ。先ほどと同様に人もいない。目の前に広がるのは、地面に美しいパターンを描く灰色の石畳と、少し汚れた建物たちだけだ。

 できることなら休みがあと一週間ぐらい続いて、ぼうっとしていたい。数分ほど物思いに耽っていると、突如。

 ジリリリリ、と、玄関の呼び出し鈴が鳴り響いた。誰なのだろうか。


 特に警戒もせずドアを引き、開けた先にいたのは――暗い色のスーツに身を包んだ、一人の男だった。

 身長180cm強ぐらいの、中肉の男。

 いかにも西洋人らしい白い肌に映える、異様なまでに真っ黒なショートヘア。何だか髪の色が不自然に黒い気がするのだが、何なのだろう。この妙な違和感は。

 フェルト地の中折れ帽からちらりと覗くその瞳は、摘みたての若いオリーブのような鮮やかな明るい緑だった。

「どうも。ベネー商会です。日用品の訪問販売で……」

 男がニコニコと親しげな笑みを浮かべ、口を開いたと同時、バートは扉を閉めにかかる。セールスマンはお断りである。

 だが。

「ちょ! ちょちょちょちょちょ!!」

 男はドアの間に足を挟み、無理やりドアをこじ開けた。

「落ち着いて! 落ち着けって!!」

「落ち着けももちつけもへったくれもあるか!」

「僕は君の味方だって!」

 何を勝手に人のドアをこじ開けようとして、味方などと抜かすのだ。バートも負けじとばかりに閉じにかかる。

「国営放送の受信料徴収と訪問セールスはお断りだ!」

 それにしてもこのセールスマン、妙に強い。奇妙な力比べの状況になっているにもかかわらず、何だか涼しい顔をしている気がする。

 セールスマンの男はドアをこじ開け、小さく笑った。

「バーソロミュー・アイソラ。話があるんだ」

「……!?」

 なぜ、自分の名前を知っている。バートは自分の心臓がびくりと跳ね上がったような気分になった。思わずドアを押さえつける手が緩む。

「ちょうど10日前、君が見た“幽霊”の件で話がしたい」

 何故、こいつはそのことを知っている。ついさっきまでバートは彼を“単なるセールスマン”として警戒していたものの、それ以上の“得体のしれぬ人物”として彼を警戒せざるを得なかった。

「……あんた、何者だ」

 得体のしれぬ何かに引き込まれそうな恐怖と、深い何かをのぞき込むような好奇心と、何か希望に満ちたもの。それらがバートの中でせめぎ合い、ドアから手を放してしまった。それを見た男は更に笑みを深くし、上着の懐から名刺を取り出し、それを彼に渡して見せた。

 名刺には会社のドラゴンをあしらったロゴと、シンプルに2行だけ。


"Benet&Co. Sales Representative(ベネー商会 外交販売員)

James Faustus(ジェームズ・フォースタス)"


「ベネー商会のセールスマン?」

 バートは思わずそう聞き返した。そういえば、さっきもこの男――ジェームズは自分がベネー商会の人間であると言っていた。確か、ベネー商会と言えば。

「ああ。知ってるかい? 『貴方のいつもの日々に、プラスアルファの価値をお手頃価格で』」

「その台詞、ラジオで聞いたことあるよ」

 そう。ベネー商会はこの国じゃちょっと名の知れた企業で、主に日用品や生活用品の販売を手掛けている会社だ。テレビやラジオの通販CMでもその名を耳にすることがある。

 自分が勤めている会社の名前を知っていると聞いて嬉しくなったのか、彼は今度は鞄の中から一冊のカタログを取り出し、バートに渡した。

「これ、うちの会社の今月の商品カタログ。よかったらあげるよ」

 全ページカラー刷りのそれは、結構な分厚さと重さがある。ジェームズはそれをバートの前でペラペラとめくりながら、よどみなく喋り出した。

「オススメは117ページのこれ。ドイツ製の裁縫用バサミ。セラミックス製で布以外を切っても切れ味が落ちない。あと57ページの日本製高枝切りバサミもなかなかいい切れ味で操作性も素晴らしい。あと……そうだな。93ページに載ってるキッチンバサミはアルミ製で軽くて丈夫なのが売りだ」

 怒涛の紹介である。だが、バートは呆れていた。

「……なんでハサミばっかりなんだ」

 僅かにうんざりした口調で、バートは切り返す。

「何だ? アンタの会社はハサミが主力商品なのか?」

「いや、そういう訳じゃないけど。……ハサミはいらない?」

「ハサミなんてそう消耗するもんじゃないだろう」

「……まあ、確かに」

「そもそもここはアパートだ。高い木なんて植えられない。それに、僕は男で裁縫なんてできない」

「ああ、それはうっかりしていた。まあでも93ページのキッチンバサミはオススメ。本当にいい製品だから」

「……考えておく」

 客がどういう人間か見定め、その上でオススメの物を売るのがセールスマンという仕事であるのならば、こんな容易く客に論破された挙句その判断ミスを『うっかりしていた』で一蹴して済むものだろうか。

 バートは渡されたカタログを小脇に抱えて溜息を一つ吐いた。

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