第13話

 皇帝フリンは鄭芝龍からの前向きな回答を受け取り、ひとまずそれを収穫として、改めて洪承疇を呼んだ。


「鄭芝龍が最低限の仕事はしてくれるという。それを頼りにして、おまえは今まで通りの方面に集中してくれ」


 そう勇気づけようとしたのであるが、洪承疇は思いのほか元気である。先ほどまでの意気消沈した様子はどこにもない。


「……先ほどの態度は何だったのだ?」


 聞かぬ方がいいのだろうかと迷っていたが、結局聞いてしまった。


「ああ、あれはちょっとした演技でございます」


「演技?」


「鄭芝龍も元々は水賊でございます。我々が弱気な姿を見せればこれ幸いと反清活動をするのではないかと思っておりましたので、ちょっと演技をしておりました」


「何という……」


 油断のない奴だ、皇帝フリンは思わずそう思った。


「ということは、水軍のことについては特に問題はないということなのか?」


「問題がないわけではありませんが、現状如何ともしようがないのも事実でございます。ただ、鄭芝龍も息子に対しての対抗心はあるでしょうから、本当に何もしないということはないでしょう」


「なるほど…」


「その気になれば、こちらの兵力を福建の方に回すことも可能ではございますし」


「その場合、李定国はどうするのだ?」


 洪承疇の作戦は八割方以上、李定国をどうするかということに力が割かれていた。これを鄭成功の方に回した場合、李定国を倒すことができるのかどうか。


「…まあ、何とかなるでしょう」


「呉三桂達がどうにかしてくれるのか?」


「ええ、味方は他にもいますので」


「他にも?」


 フリンの疑問に対して、洪承疇は「いずれ分かりますよ」と言わんばかりに穏やかな笑みを浮かべていた。




 雲南・昆明。


 山地を一日、二日歩けばミャンマー、ヴェトナム、タイといった国に行けるまさに中国最深部に永暦帝の宮廷はあった。


 この宮廷で、それぞれの廷臣が反撃の機会をうかがう……ということはなく、依然として権力闘争が繰り広げられていた。


 その中心にいるのは、永暦帝を直接保護している形となっている孫可望である。秦王を名乗っており、昆明では間違いなく最高実力者であった。


 そんな昆明にあって、呉貞毓ご ていいく(育)は数少ない反孫可望派の人間であった。と言っても、呉自身は元々そういう立場ではなかったのであるが、2年前に同僚であった楊鼎和よう ていわ厳起恒げん きかんが孫可望と対立し、誅殺されてしまって以降険悪になったのである。偶々場に居合わせていなかったために難を逃れたが、そうでなければ自分も孫可望に打ち滅ぼされていたに違いないのである。


 そんな呉貞毓のもとに上訴があった。


「秦王が皇帝を簒奪しようとしている?」


 もたらされたのは呉貞毓にとっても驚きの話であった。


「はい。秦王はかねてより簒奪の意思を有しておりましたが、この数か月、鄭成功が別の皇帝を擁しようとしていることに意を強くし、廃位を企てているということです」


「ちょっと待て。何故、厦門の鄭成功の話が孫可望に繋がるのだ?」


「国姓爺は別の皇帝を仰ごうとしております。あるいは国姓爺自身が皇帝になろうとしているのかもしれません」


「国姓爺自身が?」


 仮に鄭成功がこの場で聞いていれば仰天して、口にしたものをその場で斬るくらいに激怒したであろう。しかし、呉貞毓は鄭成功の人となりまでは詳しく知らない。しかし、皇帝の姓である「朱」をいただいているので、そう主張できるだろうとは考えていた。


「秦王は、今の皇帝では鄭成功には勝てない。自分でなければ無理だと考えるに至ったようです」


「そんな馬鹿なことがあるだろうか。奴が皇帝になっても何も変わらぬ」


 と答えて、呉貞毓は孫可望の動機を理解した。何も変わらないということは、すなわち孫可望がわざわざ下にいる必要もないということである。


 もちろん、呉貞毓にとっては何も変わらないことはない。孫可望が皇帝になるなどもっての他である。しかし、呉貞毓には大きな力がなく、自力で孫可望を打倒するのは難しい。


 そうなった場合、当然、誰かの助けを借りてということになる。誰になるか。


 李定国以外ありえない。


「……分かった。情報の件、感謝する」


 呉貞毓は情報料を渡して、密使を下がらせた。


 その日、呉貞毓は一日かけて李定国への書状をしたため、衡陽へと密使を走らせた。

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