第7話
三月。
江戸城内で松平信綱が再び幕閣に話をしている。
「先立っての、浪人を明に送る件であるが、今月中には江戸を出発することとなった。総勢八千」
八千という数字にどよめきが起こった。
「大丈夫でありましょうか?」
「大丈夫とは?」
「それだけの者が、素直に明に渡るのでしょうか?」
「以前にも申し上げた通り、これだけの兵が一時に謀反を起こすのであれば、それは重畳というもの。密かに暴動を起こしたり、一揆を扇動したりすることの方が恐ろしい。案ずるに及ぶことはない」
信綱がそう言って幕閣を見渡すと、反論する者は一人もいない。
「また、これはあくまで江戸だけの人数である。京、大坂、それに他の街においても、少なくない数の浪人がいるということを認識しなければならない」
「さ、左様でございます、な」
「今回、まずは江戸の正雪、庄左衛門を行かせることとするが、場合によっては援軍を派遣することも考えている。よろしいかな? 以前、賛成したお歴々」
再度幕閣を見渡すと、何人かは視線を逸らそうとばかりに顔を落とした。
信綱は溜息をつく。
「以上が、明の件での報告となるが、何か質問などある方はおりますかな?」
三度幕閣を見渡すが、手をあげたり、疑問を口にしたりするものはいなかった。
浪人の派兵が正式に決定したので、信綱は午後からはその報告の書状を書くことになる。差出人は、水戸、尾張、紀伊の御三家である。
この御三家、尾張の
信綱はこれに対して、人知れず疑義を抱いている。というのも、紀伊の徳川頼宣は大坂の陣の後、名の知れた浪人を複数召し抱えていた。これにより、全国の浪人との間の連絡網も独自に持っていると噂されており、万一浪人が蜂起する場合に頼宣を担ぎ出すという恐れがあった。
それでいて、今回の派兵については反対しているのである。
(紀伊は、自分の抱えている浪人戦力を削がれたくないという思いがあるのか?)
信綱を始め、幕閣の中でそう疑っているものは多かった。
そのため、尾張家と水戸家に対しては簡易な報告文で済むのであるが、紀伊家に対する報告はより念を入ったものとなっていた。具体的には『紀伊家が召し抱えている浪人を、できれば派遣してほしい』というものである。これが叶えば、紀伊の頼宣の戦力が大いに削がれることになり、幕府としては安泰ということになる。
「従ってくれるといいのだがのう」
信綱は作成させた書状に目を通して、溜息をこぼした。その後、書状を紀伊に届けさせることにした。
「まあ、仮に従わなくても、正雪が江戸におらぬなら、紀伊もさほどのことはできないと思うが、のう」
小さく本音が漏れだした。
報告の作成が終わると、その夕方、信綱は正雪を呼び出した。
「先立っての名簿の提出、まことに大儀であった」
「ははっ、ご老中の評価、身に余る光栄でございます」
「時に、そなたは状況をどう見ておる? 長崎で詳らかに聞いてきたものと思うが」
「はい。大坂城の
正雪の言葉に信綱が苦笑いを浮かべた。
「そうか…、真田の」
「はい。状況は厳しいですが、上がそれがしの作戦を聞き入れてくれれば、まだ勝つ見込みはございます」
「ほう…?」
意外な言葉に信綱の目が見開かれた。
「わしは正直、これではどうしようもないと思ったのであるが…」
「はい。とは申せど、明の者達がいきなり日ノ本から来たそれがしの意見を聞いてくれるか、という問題はございますが」
「聞き届けられれば、勝機はあると?」
「それがしは武田信玄公の生まれ変わりで、楠木正成公の戦法も学んでおりますからな」
正雪はそう言って笑った、信綱もつられて笑う。
「そうそう。生まれ変わりというと、戸次庄左衛門という男」
「それがしと同様にかなり門下を抱えておるようですな?」
正雪の様子を見る限り、直接の面識はないらしい。
「全く見どころがないとまでは言わないが、兵学者としてはそなたの方が上のようである。前侍従(加藤明成のこと)にも申し含めてあるが、作戦についてはそなたに一任したい」
「…承知いたしました」
「武器については、ある程度までは密貿易船で運ばせる予定だ」
「これは…」
正雪が思わず苦笑いを浮かべ、信綱が「どうした?」と尋ねる。
「いえ、まさか、ご老中から密貿易船という言葉が出てくるとは思いませんでしたので」
幕府は本来、密貿易を一切認めるわけにはいかないという立場である。その幕府の頂点にいる松平信綱が密貿易船を利用しようというのであるから、おかしな話といえばおかしい。
信綱もこれについては矛盾していることを理解している。とはいっても、実際にそれが一番簡易な方法である。
「ま、確かにその通りであるが、こういう時には便利でもある」
「左様でございますな」
「他に何かあるか?」
「はい。妻と子供のことでありますが…」
「連れていきたいのか? 残しておくなら、我々で面倒をみる心づもりはあるが…」
「まずは浪人を運ぶのが第一でございますが、その後、連れていきたいと思っております」
「承知した。準備しておこう」
正雪が帰った後、しばらく雑務を執り行うと既に夕暮れであった。
城を退出しようとしたところで、小姓が駆け込んでくる。
「…ご老中、柳生様が上屋敷の方に」
「何? 柳生が?」
信綱は目を細めた。
柳生というのは、
「分かった。すぐに戻る」
信綱は急いで残りの作業を切り上げ、上屋敷へと急いだ。
応接間に入ると、十兵衛三厳は瞑想するかのように目を閉じていた。
「待たせてしまったな」
信綱の言葉に、十兵衛はすぐに居住まいを直す。
「夜分に突然の押しかけ、真に申し訳ございません」
「構わぬ。どうかしたのか?」
「ご老中の進められている、明国の件で一つお願いがありまして参りました」
「むっ…」
嫌な予感がした。兵法・剣術を極めたという十兵衛が、明の話を持ち出すという以上、言い出すことは大体予想ができる。
「この十兵衛、自らの才を試してみたく存じます」
案の定の答えが返ってきた。信綱は眉をひそめる。
「気持ちは分からんでもない。そなたの兵法・剣術への傾倒ぶりはこの信綱の知るところであるし、このような機会が滅多にないというのも確かである。しかし、そなたは将軍付の旗本であり、幕府の正式な構成員である。そのそなたが明にいるなどと分かってみよ。幕府が主体的に関与しているということになってしまうではないか」
「承知しております」
「承知したうえで、わしに無体を押し通しに参ったのか?」
「いえ、ご老中に無体を押し通すつもりはありませぬ。この十兵衛、死ぬことといたします」
「何だと?」
信綱は驚いたが、十兵衛の意図は読めた。
「…公式には死んだこととし、一浪人として参加したいというのか?」
十兵衛は頷いた。
「そこまでして、そなたは何を望むのだ?」
「兵法の神髄」
十兵衛の即答に、信綱もさすがに返す言葉がなくなった。
「分かった。
信綱の回答に、十兵衛は深々と頭を下げた。
三月二十一日(旧暦)、柳生十兵衛三厳は鷹狩の最中に急死した。
その遺領は、弟の宗冬に継承されることとなる。兄弟の父
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