40.ローリン地区 2



『アラクネ』の入口は、民家のような薄い扉でドアノッカーも無かった。


ノックをせずに扉を開ける。

玄関ホールは狭く、正面にまっすぐ伸びた一本の廊下があるだけ、奥には扉のようなものが見える。

右側の壁には薄手のカーテンが一枚、捲ってみると小さなガラス窓付きの扉があった。

そして左側の壁には、呼び鈴がポツンとついている。


チリ……

呼び鈴に触れると、聞こえるか聞こえないかくらいの微かな音で鈴が鳴った。

まったく響かない潰れたような音だ。

すると、右側のカーテンの向こうに人影が現れた。

窓が開く音がしたかと思うと、少しだけカーテンが捲れ、咳払いが聞こえた。


「お客様、こちらは姫専用のお店となっています、男性は立ち入り禁止です」


言い終わるのを待たず、こちら側から思い切りカーテンを引き上げる。

年のころなら60前後か、小太りで髭を蓄え、突然のことに目を見開いている男の顔がそこにあった。


「こら、何やってくれ……」


男は大声を出しそうになったが、慌てて声のトーンを落とす。

ここで大きな声を出すと、中の『お姫様』達を驚かせてしまうことになる、すぐそれに気づいたようだ。


金貨を一枚男に見せた。


「聞きたいことがある」

「話すことはございません」


もう一枚金貨を見せた。


「少しの時間でいいんだ」

「お引き取りくださいませ」


男は小窓から手を出し、必死でカーテンを閉めようとしている。

面倒くさいので、上の方で一つに結んでやった。

それを見て男はため息をつき、小窓から手を引っ込めた。


「お客様、酔っていらっしゃいますか?」

「今日の売り上げはいくらだ? それの10倍の金貨を払う、もちろんお前の小遣いにしてもかまわない」


金貨の入った袋を見せると、男が唾を飲み込むのが分かった。


「安心しろ、政府の者じゃない。もしそうなら他の店のほうが騒ぎになってるはずだろ?」


俺の言葉を聞いた男は、諦めたような顔をして首を横に振り「少々お待ちくださいませ」と小さな声で呟いた。


そして、ガチャッと鍵の開く音がしたかと思うと、腕だけを出して中に入るよう手招きをした。


「5分で帰ってくださいよ」

「もちろんだよ」


招かれるまま中に入ると、そのまま奥の部屋に通された。

狭い部屋には、テーブル、ソファ、そして大きな金庫が置いてある。


「で、なんです?」


男は腰掛けながら面倒くさそうに言った。

金が欲しくて呼んだくせに偉そうな態度だ。

この手の男には世間話をしても意味がない、普通に聞くのが正解だ。


「この店で後払いする『姫』はいるのか?」

「ハッ絶対にないですよ、ローリン地区でツケは絶対に許されません、それにそんなことをするお客様も存在しません、なぜかはわかるでしょう?」


額に皴を寄せながら、男は少し小ばかにしたような笑みを浮かべる。


「じゃあ宝飾品払いは?」

「……」

「高価な宝飾品を置いていく代わりに後でお前が集金に行く、なーんて風変りなことをするお姫様はいるんじゃないのか?」

「……」

「なあ、教えてくれよ」


男は無言のまま、苛立たしげにソファから立ち上がり、太った腹にズボンを引き上げた。


「帰ってください」


おいおい、めちゃくちゃ焦ってんじゃん。

おかしな顔色になっている男の顔を見ながら、同じ様に立ち上がり、そのまま両肩に手を置いた。

男の動きが一瞬止まり、腕ごしに緊張が伝わってくる。


「えーっと名前聞いてなかったな、名前は?」

「必要ないでしょう!」


男は俺の手を振りほどこうとしたが、再度力を入れて肩を掴んでやった。


「そうか、俺は名乗ってもいいよ、ローデリックだ」


自分の家名を名乗ることに何の抵抗もなかった、利用することになるのもわかっている。

そんなことより愛するリリアナを不幸にしないことが一番大事だ。


「ロ、ローデリック、公爵……」


男はただただ驚き、さっきまでの威圧的な態度が嘘のように意気消沈してしまった。

ローデリック家は、この国で代々続く『四大名家』と呼ばれる家のひとつである。

王家や政治に物申せる家だ。名前を騙ることも罪となる。

別に俺が偉いわけではないのはもちろんわかっている、これは先祖の功績だ。

しかし、そのご先祖様のおかげで今人生をやり直せている、ってことで名前を使っても許されるはず、うん。


「そう、ローデリック公爵だ、もう一回座ろうか? えーっと……」

「カルロスです……」

「ありがとうカルロス、座ろう」


カルロスは眉間にしわを寄せ、一回りしぼんだように見えるくらい縮こまりながらソファに座った。

俺も向かい側に座り、カルロスの心が落ち着くのを待つ。

少しの時間の後、恐る恐るといった感じでカルロスは口を開いた。


「ロ……公爵殿、一体何の御用でしょうか?」

「もう面倒だから単刀直入に聞く、答えにくければ頷くか首を横に振るだけでいい」


目の前のカルロスが大きく頷いた。


「これは俺の花嫁とこれからの人生がかかっている、もし嘘をついたら、この地区を噂だけではなく公にして処罰を受けてもらう。だって安い賃金で各国から奴隷を雇い、あげくに娼館で働かせているだもんな、これは大罪だ」


カルロスはごくりと喉を鳴らし、何か言いたげに口を開いた、しかし喋らせない。


「働く者の中には奴隷だけではなく、不法滞在者、罪人もいるかもしれない、それを全て知らなかったでは通らないだろ。ナール国はもうここ100年以上は斬首刑は行われていないが、お前が今世紀最初になるかもしれないな、家族も普通に暮らしていけるわけがないと思え」


正直確認を取っていないこともあるしかなり大袈裟に言っている。

それに、我が国では何があっても斬首刑は行われない、これは今の国王が内密に決めていることだ。

しかし頼みを聞いてもらうには、これくらいのハッタリは許されるだろう。


「お許しください……」


カルロスはソファと同化しそうなくらい肩を落としている。


「まず、質問に答えてくれればいい、そのあと簡単なことをいくつか頼みたいだけだ」


うなだれたままのカルロスは、大きく頷いた。


「屋敷まで集金に来させる女、そいつは現在来ているか?」

「……はい」

「その女は、背中くらいまで伸ばした髪で、髪の色は薄茶色、身長は俺のこのあたり」

「……はい」

「顔は見たことあるのか?」

「お顔は存じ上げません、いつも深く帽子をかぶっていらっしゃいます、えーっと、あの……」

「なんだ?」

「あの、行為をするときも仮面をずっとつけられているようで……」


チッ、姑息なことをしている。

姿だけ似せておいて噂になればいいとでも思っていたのだろう。


「で、その女はフォルティス侯爵夫人の紹介で、集金もフォルティス家だな?」


いままで俯いていたカルロスが、突然顔をあげた。

まんまるな目でこちらを見つめるが、何も言おうとしない。

おじさんに見つめられるのはなんだか嫌なもんだ……。


「ん? 答えたか?聞こえなかったんだけど」


カルロスは頑なに口をつぐんだままで、頷きもしない。


「なあ、今まで返事してたのに急に何も言わないのって『はい』と同じなのわかってるか?」


そっとカルロスの膝に手を置くと「あっ」と言う小さな声が漏れた。

あっじゃないよ、早く答えてくれ。


「な、こっちはわかってるんだよ、さっきも言ったように本気なんだ、集金先はフォルティス家だよな?」

「……はい」


カルロスは更に眉間にしわを寄せ、絞り出すような声で答えた。

やった認めたぞ! 飛び上がって喜びたいのをグッと堪え、勝手に頬があがるのも必死で耐える。


「集金の日は決まっているのか?」

「はい、いつもは週始まりの月曜の午後と決まっております」

「じゃあ、次は……」


……来週の月曜、そうなるともう結婚式は終わっている、え、どうする気だ。


「次は、月曜ではなく今週末金曜の午前中と指定されています、必ずその日に! と念を押されました」


力なく答えるカルロスの言葉に、ゾクッと身震いがした。

今週末の金曜、それはフォルティス家でお茶の約束をしている日だ。

そして、過去の俺がリリアナに婚約破棄を突き付けた日、そのあげくに馬に踏み殺された日でもある。


今ここにいる俺は、そんな馬鹿なことが起こらないようミレイアの誘惑には乗らず、リリアナへの嫌がらせも回避してきたつもりだ。

もう諦めるだろう、諦めたはずだと思っていたが……ミレイアにジュリア、やはりまだ仕掛けてくる気でいたんだな。


徹底的にやってやる、逆に金曜日が待ち遠しくなってきた。


「そうか、じゃあカルロス、次は俺の頼みを聞いてもらえるかな?」




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