39.ローリン地区 1
■翌日深夜、ローリン地区
月が見えない真っ暗な夜。
今乗っている馬車も、闇夜のように真っ黒な色をしていた。
これは今夜のために賃貸馬車屋で借りてきたものだ。
貴族の間ではよく知られているそうで、お忍びでどこかに行きたいときに利用されているらしい。
知らなかった……皆、そんな後ろ暗いことをしているのか。
着衣はクロードが用意してくれた、あまり着たことがない柄物のシャツだ。
女性物のように袖が膨らんでいて、てろんっとした肌ざわりをしている。
顔を隠すために前髪を下ろし、追加でクロードがいつもかけている伊達眼鏡をかけた。
初めて入るローリン地区は、町はずれにある完全に隔離された地域で、公には酒場街ということになっている。
たしかに、この敷地に初めて入った者は、たくさんの酒場がある光景にしか見えないだろう。
なんなら看板以外は似たような建物ばかりで、普通の酒場より地味なくらいだ。
しかし実際は、表の看板の色でその役割が分けられている。
黄色い看板は賭博場、緑は密造酒(ムーン国はアルコール度数が高い酒は禁止されている)、そして赤は男性用の娼館、黒が女性用となっている。
とは言っても、ほとんどが赤い看板らしい。
これは全て、我が家の完璧な執事クロードからの情報だ。
勿論クロードもローリン地区には入ったことがない、知識として知っているとのことだった。
なんでも調べてんだな、うちの執事万能すぎる。
賭博や密造酒はもちろん違法だが、それ以上に悪い噂がここにはある、それは赤の娼館で働く者のことだ。
なんでも他国から奴隷を買い、しかも騙して働かせているらしい。
これが本当なら国を揺るがす大問題だ、はぁ、これも近いうちに何とかしたいところだが……。
ガタンッ
ん、馬車の揺れが止まったな、どうやら到着したようだ。
馬車から降りると、休日前でもないのに馬車庫はほぼ埋まっていた、しかも全て真っ黒な馬車だ。
「はぁ」
自然とため息が漏れる。
この地区のことを憂いても仕方ないが、皆噂を知っているだろうに……。
そんなことを考えながら、馬車庫から入口に向かって歩く。
正面には、ローリン地区をぐるっと囲む高い外壁が見えていた。
その壁に、人が一人しか通れない穴のようなものが開いている、それが入口だ、扉もないし門番もいない。
「……」
なぜかやましい気持ちになりながら穴をくぐる。
敷地内に入ってすぐ、目の前に黄色く輝く看板があった。
『ヴュルフェル』
この店は最初の目的地だ。
探すまでもなかったなと、ホッとするとともに緊張感が襲ってきた。
ヴュルフェルは真っ黒な外装で窓が無く、全く中が見えない。
というか、この地区全ての店に窓がない。
町全体が盛り場というには薄暗く感じるのは、そのせいもあるかもしれない。
鼻から息を吸い込み入口の前に立つ、飾り気のない木材の扉、ドアノッカーは豚だ、珍しい。
しかしノックはしない、ゆっくりと扉を開ける。
入口横に立っていた男がこちらを見て不審そうな顔をしたので、すかさずチップを渡した。
「ようこそ」
男はそう言って、一歩後ろに下がった。
店内を見回した感じは、どこにでもある普通の酒場だ。
長いカウンターがあり、その奥に扉があるのが見える。カウンターに客はおらず店内は静まり返っていた。
奥の扉に向かって歩いていくと、一人のバーテンダーが近寄ってきた、「ケヴィンと待ち合わせをしている」と告げ、チップを渡す。
これは、合言葉だ。
バーテンダーは黙ったままで頷き、奥の扉を開けて頭を下げた。
促されるように一歩進むと、背中の向こうで重い音を立てながら扉が閉まった。
「……」
ああああ、俺の心臓の音すげーー!
緊張で手のひらがびしょびしょになっているーーーーー!
ノック無しの入店、男へのチップ、毎週更新される合言葉、全て聞いていた通りにやったけど怖かった、入れてよかったー。
ほっと胸を撫でおろしながら喜びをかみしめる。
しかし、ここはまだまだ序盤だ、落ち着け俺、行くぞ。
ヴュルフェルの店内は、人々がざわめき、煙が充満し、熱気でやけに湿度が高かった。
いくつかのカジノテーブルが並び、男も女も皆コインを握り締め賭博に興じている。
あやしまれないように専用コインを交換して、テーブルをひとつひとつ回っていく。
ほとんどカードなんだな、しかしこんなに人がいるとは思わなかった。
人々の熱気と中に入れた安心感のせいか、やけに喉が渇く。
隅にバーカウンターが設置されているのが見えた。
目立たないように人の間をすり抜け、バーカウンターの端の席に座ってソーダを頼む。
その時、背後から女の甲高い笑い声が聞こえた。
皆が一瞬その方向を見るが、すぐに何事もなかったようにカードに視線を戻す。
しかし、俺は目を離すことができなかった。
ひときわ目立つ金色の髪、大きく胸元が開いたドレスを着た女、その横には褐色の肌をした男が二人。
たった今、大きな声をあげた女は、ミレイアの母ジュリアだった。
顔には小さな仮面をつけているが、鼻と口だけで十分にわかってしまう。
全く好みではないが、やはり顔立ちが美しいというのは目立つ。
「またF夫人か」吐き捨てるように言う声が、カウンター横から聞こえた。
「どうせ全部負けて娼館に行くんだろう」
「だろうな、しかしいい女だよな」
「若い男しか相手にしないみたいだから諦めろ」
男たちが葉巻に火をつけながら、ジュリアの噂話をしている。
賭博場で『フォルティス侯爵夫人の噂』の手がかりでもと思っていたが、本人がすぐそこにいるうえに、完全に有名人じゃないか。
皆がはっきりと口にしないだけで、素性もばれているのだろう……。
くっそ、あの女いったい何考えてんだ、あーむかむかしてきた。
いやちょっと待てよ、ジュリアがいるということは……リリアナの偽者も一緒に来ているのか?
人の隙間からもう一度ジュリアを確認するが、男といちゃついている姿が見えただけだった。
……まさか、娼館か!?
そう思った瞬間、今まで男に抱き着いていたジュリアがパッとこちらに顔を向けた、思わず顔を伏せる。
「お? F夫人がこっちを見てるぞ」横で葉巻をくわえた男が言った。
「お前じゃねーよ、そこにいる背が高いお兄さんだろ」
「んだよ、つまんねーなー」
さっきから噂話をしていた男が、俺とジュリアを交互に見ているのがわかる。
葉巻を持った髭の男と目が合うと、男はにやりと笑い小さく手招きをした。
「そこの男前のおにーさん」
「お、俺ですか?」
「うん、そう。顔は見えないけどおにーさんみたいな体が好きなんだよあの女」
と、顎でジュリアの方向を差した。
その言葉に一瞬にして背中が冷たくなる、ジュリア、一体ここで何やってんだ……。
狼狽えてはいけない、冷静を装わなければ。
「ははは、そりゃ残念だ、実は約束があってすぐにここを出なくてはいけないんですよ」
「なんだ本当に残念だな。今日の掛け金だっていくらでも払ってくれるってのに」
男はジュリアの方向を見てニヤニヤ笑っている。
いくらでもか、最悪だな……。
あ! 今の男の言葉で思い出した、俺、専用コインを持ったままだ。
入口で交換したコインは一度使わないと両替用コインに戻らない、しかもこのコイン自体の持ち出しも禁止だ。あーー面倒くさい。
仕方ない、このおしゃべりな男に頼んでみるか……。
「髭のお兄さん、すまないが出口を教えてもらえないか? 待ち合わせをしてたんだが店を間違えたんだ、その代わりと言っては何だが、これを」
ポケットからカジノコインを出して、カウンターの下で男の手に握らせる。
男はそれを確認したあと、ラバトリーの方向を顎で指し「右側」と小さな声でつぶやいた。
目の前に置かれていたソーダを飲み干し、ジュリアの方を見ないようにして席を立つ。
人混みを抜け、壁際のラバトリーを目指した。
『入口と出口は完全に分かれているので探さなくてはいけませんよ』これも当家の有能な執事から聞いていたものだ。
結局人から聞くかたちにはなったが、まあいいだろう。
壁際に着くと、ラバトリーの右横にまるで使用人口のような細い扉があった。
一見すると壁と同化して見える。鍵穴らしきものはあるがレバーハンドルがない。
ここなのか?
不安に思いながら扉を押すと、少しだけ向こう側に動いた。
なんだこれ、すっごく重い!
その時、背後でまたジュリアが歓喜の声をあげた。
全身が総毛だつ様な笑い声に、押されるかのように腕に力が入る。
すると、扉はフワッと開き、あっという間に細い廊下だけの場所に出た、目の前にはまた同じ様な扉が一枚ある。
「え、怖っ」
振り返ると、いま出てきたばかりの扉は、息が詰まりそうな音を立てながらゆっくりと閉まっていく。
そして、さっきまでの喧騒が嘘のように聞こえなくなった。
ぴったりと閉まった扉は、レバーハンドルどころか鍵穴さえもなく、まるで一枚の壁のようになってしまった。
「どうやってもあちらには戻れないってことか……」
ちょっと泣きそうなくらい不安になりながら、恐る恐るもう一枚の扉を押すと、今度は拍子抜けするほど簡単に開き、外の風が一気に吹き込んできた。
やった!!
小躍りしたくなる気持ちを抑え、何食わぬ顔で一歩外に踏み出す。
目の前に広がった風景は、店に入る前とはまったく違うものだった。
これは……どうもヴュルフェルの裏側に出たようだな。
目に入る看板の色がほとんど赤く、人通りも多い。
ああ、こっちがローリン地区のメイン、色街か。賭博で儲けた金を色街で使う、なるほどな……。
どうでもいいことに納得していると、賭博場で男にしなだれかかっていたジュリアの様子を思い出す。
あーくっそ!
言い表せない複雑な気持ちが胸に広がる、しかし、今それを考えても仕方ない。
あんな女の事より、リリアナの偽者のほうが問題だ。
ふと、夢で見たリリアナの泣き顔が頭をよぎる……そうだよ、あんな顔させちゃ駄目なんだ。
気を取り直して、黒い看板を探した。
女性用の娼館はまだ一軒しかないらしく、『すぐ見つかるはずですよ』と言っていた当家の有能執事の言葉をまた思い出す。
一緒には来ていないが、ここに来てからどれだけクロードが調査してくれたことが役に立っているか。
何度もローリン地区を訪れなくて済むよう、俺が失敗しないよう、そしてクロード本人が心配で胃が痛くならないよう……うん、しっかりと調べてくれたようだ。
はぁ、リリアナからはもちろんだけど、クロードからも頼られる男になりたい。
あ、あれか?
赤い看板に紛れるように、赤文字で『アラクネ』と書かれている黒い看板が目に入った。
よし見つけたぞ、今日の一番の目的。
そして今からやることに失敗は許されない、強引な方法なのは承知だがグズグズ悩んでる時間もない。
絶対に大丈夫、やり遂げる! 行くぞ俺。
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