第4話 自由の翼
かき氷を食べ終え、僕たちは再び目的地に向かった。
思ったよりもその行程は長く、彼が足を止めながら「よし」と言って一息ついた頃にはすでに陽が傾いており、遠くの方の空がオレンジ色に染まりつつあった。
「よし、って何もないじゃない」
「今からこれを登るのさ、いっちょ気合い入れなきゃと思ってな」
腕まくりをしながら、やる気満々で彼は言った。僕は思わず目の前の道を眺めながら「これを……?」と再度確認してしまう。
眼前に広がっているのは長い長い坂道だった。
今いる、玩具の一つもない殺風景な自然公園から、小高い丘に向かって蛇腹道が続いている。一応舗装された道ではあったが、そうはいっても傾斜を見る限り、普通は車いすで登ろうとはしないだろう。
「さすがに無理でしょ、松葉杖と車いすでこの道は」
「何を言うか、これでも俺は何度か一人で登ってるぞ」
「いや、そこは一緒にしないで」
「まぁいいから、行ってみようぜ!」
両脇から伸びる松葉杖を地面について勇ましく音を立てながら、僕の文句は右から左に受け流し、彼は坂を登り始めた。
仕方ない、こういうタイプは実際に無理なことを見せてやらないと諦めないだろう。そう思ってため息をつきながら、彼の後に続いて坂を登り始めた。
坂自体はなだらかではあった。大通りなどでもたまにあるくらいの傾斜だ。とはいえ、それが非常に長く続く。傾斜が緩かろうとも、長い距離を車いすで登り続けるのには相当な体力が必要だった。
息せき切って汗を流しつつ、登りに登ってようやっと一つ目の折り返し地点につく。その場所は平面になっていて一休みできるようになっていたが、僕がそこに着いたのを確認すると、彼は構わず次の坂に進もうとしていた。
「ちょっと、待って……早いよ……」
車いすで坂を登るという、リハビリより辛い運動を強いられ、ただでさえ身体が弱くて運動不足な僕はすでに滝のように汗をかいていた。腕がパンパンだ。
「おいおい、まだ後二回、坂は続くぞ」
「だから……無理なんだってば……」
「運動不足だ運動不足! 男ならやるっきゃないだろ」
と言って、またしても上訴は棄却された。
間髪入れず彼は先に進んでしまう。もういっそのこと勝手に下りてしまおうかとも思ったが、坂道を一人で下るのは何かと危険だ。
戻るも地獄進むも地獄、僕は再び大きくため息をつくと、彼についていくと判断した一時間前の自分を強く非難しながらレバーブレーキを解除した。
蛇腹道二度目の坂道。傾斜は変わらずとも距離もまた変わらない。
一度目はなんとか登れはしたけれど、すでにハンドリムを握る両手は疲労のせいで力が入らなくなってきている。明日、筋肉痛に苦しむことになるのは火を見るより明らかだ。
途中でレバーブレーキを駆使して休みを取りつつも、十五分程度かけて二度目の折り返し地点にたどり着く。彼はだいぶ前にそこにたどり着いていたが、一応は待ってくれていたらしい。
「ほらほら、目的地まで最後の坂だぞ。あともうちょっとだ!」
すでに満身創痍な僕とは対照的に、体力オバケなのか彼は軽いウォームアップを終えたくらいのノリで最後の坂道に差し掛かろうとしていた。
さすがに体力の限界を感じていた僕は、松葉杖をついて進もうとした彼を阻むように息をあげながらもやや大きめの声をあげた。
「ちょ、ちょっと! あのさ……ちょっと待ってよ……」
肩を上下に動かしながら、苦しさから前も向いていられず俯いて叫ぶ。
自分でも驚くほど肺が大きく膨れているのが分かる。こんな状態でさらに運動をすれば、身体に異常をきたしてしまうだろう。
「無理なんだって……僕には、もう。これ以上登ることはできないよ」
「何言ってんだ、あと少しだって! 大丈夫大丈夫」
「無理だって言ってんだろ!」
できる限りの、おそらく自分の生きたわずか十数年程度の中で最も大きな声を張り上げて、彼の言葉を制す。
同時に、身体は酸素を求めて肺を収縮させていて、座っているだけでも脈拍が早まっていくことが分かった。忙しない呼吸音は僕の言葉が精神的な弱さからくるものではなく、身体が限界であることを明白に示している。
しばらくの間、スーハースーハ―という呼吸音のみが続く。僕が叫んでから、彼は黙って僕の様子を眺めるばかりだった。
ややあって息切れが落ち着いてきた頃、僕は改めて強い語調で彼を非難した。
「こんなの無茶に決まってるだろ! 車いすでこんな坂登り切るなんてさ。それに僕は、ずっと腎臓の病気にかかっていて、まともに運動だってしてないんだ。急にこんな身体に負荷をかけたら、何が起こるか分からない。そしたら君はどうするつもりなんだ!」
「そんときゃお前をおぶってでも病院に連れ帰ってやるよ」
「無理に決まってるだろ! そんな足で!」
無責任にもニヤと笑う由太郎を前に、思わず吐き捨てるように言ってしまう。
でもそれは事実だ。彼だって、自由に歩き回れるような身体ではない。どんなに彼が体力に自信があろうとも、一応は看護師から外出を止められるような身なんだ。そうでなくとも、松葉杖で坂を登り下りするなんて入院患者がするようなことではない。
「無理だなんて、最初から決めつけんなよな。どんなことだって、最初から諦めてたらつまんねーだろうが」
言いながら彼はくるりと翻り、松葉杖を使って大回りに平地を歩きながら僕の背後へと回った。僕は焦って「なんだよ」と声を上げながら振り向くが、なぜだか由太郎はかがみこんで視界から消えてしまう。
「坂を登るのだってよ、せっかくここまで来たんだから諦めるのなんてもったいないだろ? お前一人で登るのが難しいんなら、俺が連れてってやるよぉ!」
叫ぶと同時にガッ、と何やら背後で金属音が響いた。
何が起こっているのかもわからず、やや無理やり上半身をねじって彼の姿を視界に収めると、なんと車いすの背もたれを歯で噛んで押し出そうとしていた。
「何考えてんの、汚いだろ!」
「ひひから、おまへは、こげ!」
背もたれの布を嚙みながら叫ぶ由太郎。その必死さに気圧され、僕は思わずレバーブレーキを解除し、ハンドリムを掴む。彼は松葉杖を前に出しながら身体を支え、使える左足の力だけで二人分を前進させようと力を込め始めた。それに合わせて、僕も両手を強く握り、リムを回す。
すいーっと、今までとは違い車輪が軽々と一回転した。
そのまま再度リムを掴みなおし、もう一度車輪を回す。同時に彼も松葉杖を前に突く。あまりにも異様な光景ではあったが、後ろから手で押されているかのようにスムーズに進むことができた。
「このまま! さかも! いくぞ!」
気合い十分な彼と相反して、僕は不安でいっぱいだった。しかしこんなにも必死な彼を前にして、やめようなどとも言えなかった。
坂道にさしかかり、車体が斜めに傾く。僕はできる限り身体を前傾にして、リムに力が入りやすくなるよう努めた。平地よりもゆっくりではあったが、徐々に車いすが坂を登っていく。
先ほど一人で登っているときに比べ、スムーズに車いすは進んだ。しかし前進量に比例するように背後の由太郎の鼻息は徐々に荒くなっていった。
当然であろう、ただでさえ松葉杖で歩きにくい坂を、さらにきつい姿勢を維持して踏ん張っているのだから、辛くないわけがない。
僕はやや後ろを振り向きながら、彼の様子を窺った。
彼は鬼の形相で歯を食いしばり、額からは滝のような汗を流している。さすがに申し訳なくなった。
「ね、ねぇ。もういいんじゃない? そんなに無理しなくても……」
「なにいっへんだ! さいほまでやりきるぞ!」
彼を慮ってのことではあったが、未だに弱音を吐く僕に苛立っていたのか、彼の口調はやや厳しくなった。僕は再び前を向いて、少しでも彼の負担が減るように残る力を振り絞ってリムを漕いだ。
そうして五分程度経った頃だろうか、僕たちはやっとすべての坂を登り切ることに成功した。息を切らしながら、身体を抱き込むように上体を倒す。坂を登っている最中、心中は疲労と後ろめたさでいっぱいだった。
「さぁ、見てみろよ!」
僕の後ろ暗い心境も意に介さず、由太郎は底なしに明るく言い放った。その言葉に導かれるように前傾姿勢からゆっくりと上体を起こすと、そこで僕は圧巻の光景を目にした。
目の前には悠然と広がる海の青があった。そこに雲の白と空の水色、そして太陽の陽ざしが作る橙色のグラデーションが色鮮やかに混ざり、幻想的な景色を作りだしている。
水平線上は日の光を反射してまるで宝石のようにキラキラと金色に光っていて、その先には夏を表す壮大な入道雲が立ち昇っていた。
しばらくの間、僕は声を出すことができなかった。人生で初めて見る、その景色の雄大さに、美しさに、ただただ息をのむばかりだった。
「……すごい、綺麗だ」
やっとのこと、声を上げる。しばらく口を開けたままだったせいか、その声は掠れて出た。
「そうだろ? この時間のこの場所は本当に最高なんだよ」
そう言って由太郎は、遥か遠く遠くを見つめていた。
空には鳥が飛んでいる。僕にはあの鳥がなんという名前の鳥か分からなかったけれど、潮風にあてられ、腹をオレンジ色に染めながら気持ちよさそうに飛んでいるように見えた。
「俺さ、空が飛びたいんだよ」
「えっ、なんて?」
由太郎は羽に風を受けて滞空する鳥を僕と同じように見上げながら語る。
「俺さ、前にも言ったけど鳥が好きなんだ。あいつら何よりも自由に飛ぶだろ。あの姿に憧れてさ……。見ているうちに鳥に詳しくなっちまった。でも、それだけじゃ物足りなくなったんだよ」
高台の手すりに松葉杖を立てかけ、背をその横に投げだす。
「だからさ、飛んでみることにしたんだ。ハンググライダーを使ってさ。当分は一人じゃ飛べないんだけど……ちゃんと練習して、いつか一人で自由に飛ぶんだ。そしてこの街を誰よりも高いところから一望してやるのさ」
いつか大空を自由に飛ぶさまを夢想してか、背を手すりに預けたまま両手を大きく広げて見せる。語る彼の顔は来る未来を信じ切っていて、希望に満ち溢れていた。
僕は、そんな彼の表情と自分の境遇とを比べ、意味もなく落胆してしまうのだった。
「君はすごいな、無茶でもなんでも、自ら進んで飛びこんでいく」
生まれてこの方、何に挑戦することもなく、自由を掴んでこなかった僕に比べて。
彼は自分の意志で、おのずと幸せを手に入れていくんだろうなと思う。
「そんなことねぇよ、ただ自分のやりたいことをやってるだけさ」
「ううん、すごいよ。僕には到底できない」
諦観の念を示すように、目をつむって首を振って見せる。
「さっき見ての通り、僕は一人では何もできないんだよ。外を出歩いて、良い景色を見るのも一苦労さ」
ここまで連れてきてくれた感謝を示すように、けれど浮かびあがる希望の念を自身の言葉で断ち切るように。僕は由太郎の前で自分の境遇を告白する。
「僕はさ、先天性の腎臓病なんだ。生まれたときからずっと透析を繰り返してて、合併症なんかも相まって入退院を繰り返してるんだよ」
まるで懺悔でもするかのように語る僕を前にして、彼はじっと僕の目を見つめていた。
「だから学校とかもほとんど通えずに、人生の多くの時間を病院で過ごしてる。君が言うところの『あんな退屈な場所』にずっとね」
高台からも見える白い病院。あれが僕の自由を奪う鳥かごだった。
「その病気、治らないのか」
珍しく神妙な面持ちを浮かべる由太郎の姿が面白くて、自然と頬が緩んだ。わざとらしく肩を落として見せて、こう続ける。
「一応、腎臓の移植ができれば治りはするらしいんだ。それに運よくドナーは見つかってる……んだけど、ね」
「だけどなんだよ」
「移植時に拒絶反応を起こした場合に、最悪死ぬ可能性があるっていうのを知ってから、勇気が出ないんだ。生まれてからずっとこの病気と一緒に過ごしてきたというのもあって、死んでしまうくらいなら、ってこの生活を受け入れちゃって……」
もしものことを思うと、手が震える。足が震える。
どんなに自分が不自由であろうと、生きていることに変わりはない。
もし手術に失敗して死んでしまうことがあるくらいなら、不自由な生活でも今の方がずっとマシだ。例えそれが、人の生きる道としては不幸なものであったとしても。
首をもたげ、空を仰ぐ。
この広い空に飛び立つことなんて、僕には一生できないことなのかもしれなかった。
「僕は自ら幸せを探しにいくことなんてできない。病院という名の鳥かごの中で、ずっと生きていくしかないんだよ」
「……ロマンチストか!」
唐突に左足で地団駄を踏みながら由太郎が声をあげる。
「なんだ、なんだなんだ! 病気治んねーのかと思ったよ。大丈夫じゃん!」
あっけらかんとした態度で、先ほどまでの神妙な面持ちとは正反対に満面の笑顔を浮かべながら、底抜けに明るく言い放つ。
僕はなんだか軽々しく言われたことにムッとして、少し彼をねめつけながら語気を強める。
「そんな言い方ないだろ。こっちは生まれてからずっと、この病気と付き合ってるんだ。毎日透析受けなきゃだし、辛いことだっていっぱいある」
「でもさ、勇気を出せば治せるんだろ?」
簡単なことだと言わんばかりにあけすけに言い放つ。
「それなら、勇気が出るそのときまで待てばいい。大丈夫さ、いつかきっとその日は来る」
「何を根拠にそんなことを……君は何をするにも大丈夫の一点張りだね」
呆れつつ、なんだかその一言が僕の心を解きほぐしてくれるようで、自然と笑みがこぼれた。
「ま、それまでは俺がたくさん土産話聞かせてやるよ!」
「……うん、頼むよ」
由太郎に抱いていた不信感のようなものは、もうまっさらに消え去っていた。
僕はただ、嫉妬していただけなのかもしれない――自ら幸せを手に入れようと必死になれる由太郎の強さに。未だ自由を手にする勇気の出ない、自分の弱さを棚に上げて――
そんな僕を、由太郎は外に連れ出してくれた。
勇気の出ない僕を、まるで鳥かごから解放するかのように。
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