第100話

「お嬢様、お戻りくだされ」

「嫌ですわ」


 さっきからずっとこの繰り返しだ。全く進展がない。

 場所は再び宿の中に戻っている。ロビーの奥にある事務室、さらにその一角にある応接スペースだ。ローテーブルとふたり掛けのソファが二脚据え付けてあり、周囲は衝立で区切られている。

 この事務室、普段ならロイドさんやオーガスタが仕事をしているのだけど、今は席を外してもらっている。聞かれると不味い話が出ないとも限らないからな。

 ソファには俺とクリステラ、向かいにジイことベンジャミンさんが座っている。他の皆は衝立の向こうで聞き耳を立てている。

 お行儀が悪いとは思うけど、気持ちは分かるから見て見ぬふりをしている。ウーちゃんは定位置である俺の足元だ。


 ベンジャミンさんはクリステラが侯爵令嬢だった時の守役だったそうだ。そうだろうと思った。うちでお嬢様って言ったらクリステラしかいないし。

 やや小柄な百六十センチ無いくらいの身長で、肉付きは薄い。おそらく六十歳を過ぎていると思われるけど、腰が曲がっているという事もなく、その足取りはしっかりしたものだ。めっちゃ走ってたしな。

 髪は白く、幾筋か茶色いものが残っている。地毛は茶色か。その髪を丁寧に撫でつけてオールバックにしている。髭は生えていない。丁寧に剃っているようだ。

 やや鷲鼻で、真面目なドイツ人っぽい。俺の個人的な思い込みだけど。

 服装はシンプルな黒の三つ揃いにスタンドカラーの白シャツ、黒い蝶ネクタイだ。如何にも執事っぽい。先程までその上にマントを羽織っていたけど、今は脱いで膝に乗せている。


「お嬢様、お聞き分け下され。侯爵家の存続はお嬢様にかかっておるのですぞ」

「知った事ではありませんわ。そもそも、わたくしを一方的に絶縁したのはお父……ヒューゴー侯爵ですわ。奴隷にまでしておいて、それを半年以上も経ってから呼び戻そうなど、少々虫が良過ぎるとは思いませんの?」

「それは何度も申し上げているように、事情が変わったのですぞ」

「ですから、そのような事情など知った事ではないと言っているのですわ」


 テーブル越しに向かい合うふたりの……というか、真っ直ぐ向いているベンジャミンさんに対してクリステラはそっぽを向いているのだけれど、話し合いにもならない会話はかれこれ三十分以上続いている。

 事が事だけに、俺たちが割って入るわけにもいかない。面倒な事だ。

 そのふたりが揉める原因、それは侯爵家の御家騒動だった。



 クリステラの実家であるヒューゴー侯爵家は、王都の西の平野に大穀倉地帯を有する大貴族だ。『王国の食糧庫』とも呼ばれている。

 領都サンパレスは北壁山地の麓に広がる平野、その南にある港町で、国内第二の大都市だ。領内で収穫した食料を、王都だけでなく他の街へも広く輸送する拠点になっている。王国でも有数の商業地だ。という事を以前クリステラから聞いた。

 クリステラはそのヒューゴー家の次女に当たる。ヒューゴー侯爵には正妻と側室ひとりが居り、クリステラは正妻の産んだふたり目の子だそうだ。

 兄弟は全部で三人。同腹で長男の兄『アリスト』、腹違いの姉『ブレンダ』と同じく腹違いの弟『デイモン』という構成だそうだ。ブレンダは既に他家に嫁いで居ないらしい。


 この国の貴族は直系男子継承が基本だ。ヒューゴー家の場合は、正妻の産んだ長男であるアリストに最上位の継承権がある。以降はデイモン、クリステラと続き、他家に嫁いだブレンダには既に継承権は無い。男子優先で長子優先というわけだな。

 ただし、この継承順位には例外がある。それは魔法だ。

 貴族が貴族としての地位と権威を守るためには、その力を内外に示す必要がある。それは、あるいは財力であったり、また軍事力であったりするわけだけど、この国で最も重視されるのは、何と言っても魔法だ。貴族にしか使えないとされている神秘の秘法。

 まぁ、実際には元奴隷の俺や仲間たちという例外はあるんだけど。

 自分たちを神格化し、統治を容易にしてくれる魔法は、貴族を貴族たらしめる最も重要な要素というわけだ。


 ヒューゴー家で魔法が使えるのはアリストとクリステラのみ。亡くなった先代当主の祖父は土の魔法使いだったらしいけど、現当主である侯爵は使えないらしい。アリストも土魔法の使い手だそうだ。隔世遺伝かね?

 最上位の継承権を持つアリストが魔法を使えるのだから、普通ならお家騒動など起きない。しかし、思ってもみなかった事が起きるのが世の中だ。

 現在も続いている戦争だけど、ヒューゴー家からはそのアリストが一軍を率いて出征する事になったそうだ。侯爵自身が出征すると内務が滞り、国内の物流に影響が出るからという理由らしい。ここボーダーセッツのブルヘッド伯爵も同じ理由で出征してないし、それ自体は問題ではない。

 問題になったのは、アリストが戦争の最前線で行方不明になった為だ。

 いや、問題どころか、大問題じゃん!

 まったく、この戦争はあちこちで騒動を起こしてくれる。元凶のジャーキンにはキッチリ落とし前を付けてもらわないとな。


 リュート海南東方面に配属されたアリストは、艦船を率いてノランの撃退に当たっていたらしい。港町を要する領地の跡取りという事で、それなりに艦の扱いや指揮に慣れているからという理由での配置だったそうだ。

 しかし慣れない内海の潮流や気候に翻弄され、その内海を知り尽くした神出鬼没のノランの海賊共に良いように翻弄されてしまい、成果は捗々はかばかしくなかったそうだ。こっちに聞こえてくる情報通りだな。

 一向に上がらない戦果に業を煮やした司令官は、丁度タイミングよく・・・・・・・・・もたらされた海賊のアジトに関するタレコミに飛びついてしまった。

 碌な裏取りもないまま立案された強襲作戦の指揮官にアリストが抜擢されてしまい、命令に従い艦隊を率いてアジトに攻め込んだアリストだったけど……案の定、それは罠だったらしい。

 攻め込んだ艦隊は壊滅、わずかに生き残った乗組員の中にアリストの姿は無かった。状況からすると生存は絶望的だそうだ。

 もたらされた悲報によって、侯爵家は大混乱に陥った。誰が跡目を継ぐかで、家中が割れてしまったのだ。


 側室とそのシンパは、当然次男のデイモンを後釜に推した。順当に考えればそれが当然だ。貴族の次男なんて長男のスペアでしかないんだし。

 しかし、元々長男に付いていた連中は、当然これに反発した。デイモン派が実権を握れば、自分たちは閑職へと追いやられてしまうからだ。

 とは言え、反対するには根拠が要る。アリスト派には、アリストに代わる新たな旗頭が必要だった。そこで白羽の矢が立ったのがクリステラだったというわけだ。


 そもそも、クリステラが放逐されたのはクリステラに非があっての事ではない。第二王子バカからの、ひいては王家からの抗い難い圧力があったからこそだ。今はその第二王子は実権を失い(本当は命すら失っているんだけど)、その親である国王も鬼籍に入っている。はばからねばならない相手は居ないのだ。

 『クリステラを呼び戻し、爵位を継がせる』。アリスト派には、もはやそれしか手は残っていなかった、というわけだ。


「貴族は貴族らしく在らねばなりませぬ。そして、貴族を貴族足らしめているのは魔法をおいて他ありませぬ。今や侯爵家で魔法が使えるのはお嬢様のみ。侯爵家の未来はお嬢様に掛かっておるのです」

「ですから、わたくしは既に侯爵家の人間ではないと申しているでしょう? ただの奴隷のクリステラ。それが今のわたくしですわ」


 いつまで経っても話は平行線だ。クリステラには実家に戻る気が全く無いらしい。戻っても政争の具にされるだけだし、姉弟で争う事になるからな。

 実は頭のいいクリステラだから、お家騒動で侯爵家が力を落とす事にも気を使っているのかもしれない。魔法が使えない貴族も珍しくは無いんだし、弟が跡を継いでも問題ないと考えているんだろう。


「くっ、旦那様のなされた事とはいえ、お嬢様が奴隷などとは嘆かわしい。ビート殿と仰いましたかな? 謝礼は如何程でも出しましょう、お嬢様を解放して頂けますまいか?」


 おっと、ここで俺に話を振って来るか。でもなぁ……俺にできる事は無いんだよね。


「僕はクリステラの意志を尊重するだけだよ。そもそも奴隷だなんて思ってないし、いつでも解放するって言ってあるしね。どうしても必要って時以外は命令するつもりもないよ」


 クリステラをはじめ、初期に購入した皆は既に自分を買い戻せるだけの報酬を得ている。彼女たちが俺の奴隷でいるのは、彼女たち自身の意志だ。俺がどうこう言える事じゃない。


「そうですわ! わたくしは自分の意志でビート様と共にある事を望んでおりますの! この身と心、一生の全てをビート様に捧げる所存ですわ!」

「ぬっ!? なりませぬ! お嬢様は然るべきお方を婿に迎え、ヒューゴー侯爵家を継いで頂かねばならぬ身! 冒険者などという明日をも知れぬ仕事を生業にする者へ身を捧げるなど、例え御天道様が許してもこのジイが許しませぬぞ!」

「許して頂かなくて結構ですわ! ビート様が御命を失う時はわたくしも生きる意味を失う時! 後を追って自ら命を絶つのみですわ!」


 ありゃ? なんかヒートアップして論点が変わって来たな。戻る戻らないはどうした?

 それとクリステラ、発言が重いよ。なんかヤンデレ化してきてないか?


「なりませぬなりませぬ! お嬢様の伴侶となる者はこのジイの眼鏡に叶う方でなければ! 何処の馬の骨とも知れぬ者にお嬢様を任せる事などできませぬ!」

「ビート様は馬の骨などではありませんわ! 英雄ダンテス様の愛弟子にして精強無比の冒険者! 博識にして経済にも明るく、その手腕は商業ギルドの支配人が是非にと請う程ですわ! まさに完璧、後世に叙事詩の主役として謳われる事間違いなしですわ! わたくしがこの身を捧げるに、これ以上相応しい方はおられませんわ!」


 左手を当てた胸を誇らしげに張るクリステラ。いや、そいつ誰よ、俺の知ってる人?

 俺の知ってる俺は、いつもいろいろやらかして周りをドン引きさせる痛い奴だ。そんなデキスギ君じゃない、ヤリスギ君だ。馬の骨というか、馬鹿の骨と言うか……いかん、落ち込んできた。


「ぐぬぬぅ……ならば、ジイにもその力を見せて頂きとうございますな! この目で確認せねば納得できませぬ! このジイめが納得できたならば、その時はお嬢様の伴侶として喜んでお迎え致しましょうぞ!」

「ふふん、どのような難題だろうと、ビート様の手に掛かれば造作もありませんわ! その申し出、受けて立ちますわ!」


 取り敢えず何か話がまとまったみたいだけど……えっ? あれ? 何? 伴侶って?


 ……は?

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