第007話
「おーいビート、そろそろ
村の周囲の見回りを終えた父ちゃんが迎えに来た。もうそんな時間か。
まだ太陽は西の空にあるけど、日が暮れたらすぐ寝る生活だ。早めに帰り、夕食を摂って身体を拭かねばならない。
そうそう、この世界でも、太陽は東から昇って西に沈んでいくことが分かった。いくらファンタジーでも、そこは基本として押さえているようで一安心。西からお日様がコニャニャチワではなかった。これでいいのだ。
「わかったー、いまいくー」
俺は立ち上がってズボンの埃を払うと、畑の中を流れる小川まで行って手を洗う。この小川は農業用水としての利用の他、洗濯や水浴びにも使われる生活の大動脈だ。
水量はそれほどなく、幅四メートルくらい。深さは、一番深いところで俺の膝上くらいだから、三十センチもないだろう。
水は澄んでいてそこそこ冷たいけど、飲用にはしていない。飲み水には、別にある井戸の水を使っている。
「おめは綺麗好きだなや」
父ちゃんが、ちょっと呆れたように苦笑いしながら言う。
「だって、おいもたべるときに、つちのあじするとおいしくないんだもん」
まぁ、本当は衛生的な問題なんだけどな。それをこの世界の人間にそう言っても奇異な目で見られるだけだろうから、分かりやすく好き嫌いということで通している。
「……んだな、おらも洗ってくるだで、ちっと待っててくんろ」
お、よしよし、いい傾向だ。
衛生観念が定着すれば、乳幼児の死亡率や感染症の罹患率は下がるだろう。手洗いだけでもかなり違うはずだ。なにしろ、風呂も石鹸もない世界だからな。
衛生関連と言えば、ちょっと尾籠な話になるけど、この世界のトイレ事情については驚いた。
中世ヨーロッパでは糞尿垂れ流しだったというのはよく聞く話だけど、俺はこの世界もそのレベルではないかと思っていた。確かに、地方の都市ではそんな感じらしいけど、この村は違う。
この村には全部で二十軒ほどの家屋が建っているんだけど、その全てにトイレが付いている。所謂ポットン式なんだけど、日本のそれとは違って、溜まったブツを肥溜に集めたりはしない。汚物槽に落ちたものは、基本そのまま放置される。そんなことをすれば満杯になって大変なことになりそうなものだけど、そこはファンタジー。
なんと、汚物槽の中にスライムが居るのだ。
このスライムは『マッディスライム』といって、森の掃除屋と言われている。魔物の中では珍しく、攻撃性は皆無で危険は全くない。
通常は森の水辺近くに生息しており、動物の死骸や排泄物、枯れた植物なんかを食料にしている。そして食べたものは少量の水と土に分解してしまうという、いわばファンタジー世界におけるミミズなのだ。
このスライムが居るおかげで、汚物槽はそれほど臭くない。
ただし、スライム自身が排泄して出来た土は徐々に溜まっていくので、何年かするとやはりいっぱいになる。その時は別の場所に汚物槽を新たに掘り、トイレを移築するのだという。スライム自体は、いつの間にか新しいトイレに移動しているらしい。
この汚物槽に溜まった土は栄養豊富で、地力が無くなった畑に撒かれて肥料にされる。なんともエコでファンタジーな話だ。
トイレとは切っても切れない『紙』の話もしておこう。紙なのに切れないとは哲学的だな。何となく。
この村の家の軒先には、必ず『とある』低木が数本生えている。一見、
この木は、そのままズバリ『紙の木』と呼ばれていて、この木の葉が尻拭きに使用されている。
枇杷に似たその葉は繊維が入り組んでいて非常に丈夫だ。とはいえ、そのままでは硬くて使用には堪えない。
先程食用にならないと言ったこの木の実だけど、その実を砕いたものと葉を一緒に一晩水に漬けると、葉の表面の緑の部分が溶け落ちて柔らかくなるのだ。白い繊維だけが残ったその見た目は、まんま不織布かティッシュである。あとは水洗いしたそれを数十枚重ね、重りの石を載せて水を抜き、天気の良い日に一、二日干せば天然のトイレットペーパーの完成だ。
なんて都合のいい植物だ、とは思うけど、これも人との共生を選んだ結果と考えるとアリなのかもしれない。
余談になるけど、この木の葉を毎日数十枚取るのが、まだ子供の俺が出来る唯一の仕事だったりする。
というわけで、トイレに関しては予想以上に、遥かに良い環境だった。都会のトイレ事情については、またいずれ。
「だば、帰ぇって芋さ食うべ」
「うん!」
手を洗って来た父ちゃんと手を繋ぎ、俺は家に帰る。今日もなかなか有意義な一日だったと言えよう。
◇
こんな生活も悪くないとは思うんだけど、一つだけどうにも我慢ならないことがある。食事だ。
栄養は足りていると思う。芋は甘くて美味しいし、畑で採れる野菜もある。たまに森から出てくる魔物で、たんぱく質も少しだけ摂れる。
まあ、魔物は危険なので出てくると大騒ぎになるんだけど、感情の何割かが『肉が食えるかも』という期待である事は否定しない。
香辛料も意外と充実しており、胡椒や生姜、唐辛子に似たものや、名前は知らないけどいくつかのハーブ類も村では栽培されている。
けど、塩が無い。
酒と酢もないんだけど、子供なので酒は要らないし、酢は代用として酸っぱい柑橘の搾り汁がある。
この村は結構な内陸に位置しているようで、海からかなり遠いらしい。そのため、塩はたまに来る行商人から買うしかなく、いつも不足気味だ。しかもこの行商人は個人事業主なので品物を大量には仕入れられず、辺境ということで護衛も雇わねばならないため、塩の値段はどうしても割高になる。
何時来るか分からない行商人をアテにする訳にもいかず、少ない塩を節約しつつ使うため、この村の料理は押し並べて薄味だ。森芋の汁から採れる黒砂糖のほうが使用頻度が高いくらいだ。
岩塩でも採れればいいんだけど、乾燥地帯というわけでもないので、鉱床が近場にはない。
そんなわけで、今日も一味足りない野菜スープと茹でた芋の夕食を摂ったあと、手を洗った小川まで水浴びに行く。
まだ太陽は地平線に差し掛かったくらいだ。水浴びするぐらいなら十分な明るさがある。
ん?なんか妙だな。
「ねぇとうちゃん、かわのおみずがへってるよ?」
夕食前に手を洗ったときより、明らかに水量が減っている。俺の膝辺りまであったはずが、今は脛の中頃くらいだ。しかも少し濁りが出ている。
「あんれ、何だべか? 川上で何ぞ詰まっとるだか?」
父ちゃんも不審に思ったらしい。一緒に手を洗ったしな。村長に相談に行くようだ。
けど、なんだろう、何か嫌な感じがする。
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