第26話 奪われた町、ヒガシナリ(7/?)
鳥の鳴き声が、空を覆っていた。窓からは涼し気な風が入ってきており、今日1日はずっと寝ていても良いのではないかと思わせるほど、気持ちの良い朝であった。
「寝ていたいという欲望と、起きなきゃダメという理性が戦っているわね」
カリンは気持ちよさそうに起きると、ベットと名の付いた牢獄から脱獄した。何度も見られているとはいえ、あまりダニエルに寝起きの顔は見られたくなかった。
「ん……カリン、もう起きる時間?」
眠り眼のダニエルは、こちらを見ることなく、枕に向かって話しかけていた。
「もう少し寝ていても良いわよ。私は顔を洗いたいだけだから」
「分かった……おやすみ」
金貨1万枚で差し押さえたとはいえ、随分と偉そうな奴隷だなぁと苦笑しながら、顔を洗いに行った。井戸から水を汲み上げるために外に出ると、まだまだ早いのに日雇い労働者達が外を歩いていた。
「やっぱり朝早いのは辛いぜ」
「そんなこと言うなよ、早くいかねえと良い仕事が誰かに取られちまう」
「毎日肉体労働で辛いぜ、いつになったら楽な生活が待っているんだろうな」
「愚痴なら墓場で言え、昨日はお前が起きなかったせいでドブさらいの1日だったんだからな!」
「へいへい、でもドブの中から金目の物が出てきたて、酒を1杯奢ってやったんだからチャラにしてくれや」
「今日も1杯奢ったらな」
「きちぃ~」
大柄な男ふたり組がそんな世間話をしながら、宿の前を通っていった。カリンは今こそ金に余裕があるものの、もし借金のカタに落とされるだけ落とされたらと思うとゾッとした。男ならああやってまだ肉体労働の道があるだろうが、女の場合は想像に難くなかった。
「嫌なことを考えてしまったわ。井戸水で顔を洗ってスッキリしましょう」
ギーギーと少し嫌な金属音が響きながらカリンは井戸水を汲み上げ、水を手でさらった。水はひんやりとしていて、そのまま顔に当てるには少し勇気が必要だった。
「女は度胸! えいっ!」
パシャっと顔に当てると、顔中が刺すような冷たさに覆われた。だが2回目3回目は慣れたもので、それほど冷たく感じなかった。だが、目はしっかりと覚めたようだ。
「今日はどうなるかしらね、あんまり変なことに巻き込まれなかったら良いのだけど」
カリンは自分の嫌な予感が的中しなければ良いなと少し祈る気持ちで井戸を後にした。
──────部屋に戻ると、まだスヤスヤとベットで寝ているダニエルの姿があった。
「ダニエル、起きなさい。もうそろそろ起きて!」
ダニエルを布団の上から揺らす。一度目が覚めていたおかげで、今日は起こすことに苦戦していなかった。
「昨日が野宿だったせいか、今日はよく眠れたよ。カリン、顔洗ってくるけどどこに行けばいいの?」
「宿を出てすぐ右よ。水は冷たいから一気に顔にかけない方がいいかもね」
「うへぇ、冷たいのは嫌だなぁ」
「その分、目がよく冷めるわ。ほら、行ってきなさい」
ダニエルは渋々といったゆっくりとした足取りで外に向かって行った。この町の衰退の元凶がこの町を救いたいと馬鹿正直に言って通じるだろうか。不安を抱えたまま、カリンは寝床を整理して、今日の予定を考えていた。少し片付いて、椅子に座って外を見ていた所、
「冷たーい!」
なんてダニエルの元気な声が聞こえ、カリンは少し笑っていた。
───ふたりは荷物を宿屋に預けて、早速薬屋に向かった。薬屋は朝から開いており、老婆が相変わらず薬を鉢でゴリゴリと削っていた。
「お婆さん、おはようございます!」
「おやおや、昨日のお坊ちゃんとお嬢ちゃんじゃないか。おはよう……風邪でも引いたんかえ?」
昨日と違って機嫌の良さそうな老婆は、笑顔で話しかけてくれた。
「お婆ちゃん! 僕の名前はダニエルって言うんだ。実はお婆ちゃんに用事があって来たんだ!」
「おやおや、丁寧な挨拶をありがとうねえ。私の名前はニーメって言うんだよ。こんな老婆にどんなお願いかい?」
ニーメと名乗る老婆は、一瞬“ダニエル”と名前を聞いた瞬間に目が細くなった気がした。カリンにはやはり老婆は色々と知っているのではないかと疑えるものだった。
「ダニエル、ここからは私が聞くわ。私はカリンと申します。ニーメさん、この町って労働者の人が多いけど、モノに関わる人達の元気が足りないわ。何が原因かご存じで?」
「あらあら、カリンさん、この町のことが気になるのかい?」
やはりニーメは明らかに何かしらを知っている。顔は笑っているが、目が笑っていない。昨日聞いた内容は、少なくとも恩恵は受けている。だが恨んでいる可能性も否定できないのだ。カリンが質問の方法を誤った場合、この老婆がどんな行動を行うのか予想できなかった。
「道具屋さん、武器防具屋さん、服屋さん、そして貴方達薬屋さん。みんな、何かしらの被害をここ1年間で受けているわ。それで、お婆さんはこの町に詳しいと思ったの。昔からずっとここに住んでいるのであれば、お婆さんに聞くのが一番だわ」
ニーメはカリンの言葉を聞いて、怪しげに笑い始めた。
「オホホホホホ、私もえらく持ち上げられたもんだ。だがあんた達が店に来ることは分かっていたさね、泊っている宿の店主は私の息子さ。昨日、大きな声で怒鳴り散らしていたからびっくりして息子が聞き耳を立ててしまったんだけどねえ、えらくまあ大変なことをやったみたいで驚いたさ」
「うっ……全部閉めたと思ったけど、声が大きすぎたかしら」
「ちなみに、たまに部屋で情事をするカップルがいるらしくて、それも聞こえているらしいさね。もしそんな気分になってもやらんほうがええ。もしやるなら静かにやるんだよぉ、婆さんからの忠告だ」
「やらないわよ! そんな関係でも……ないし」
「へへへへへへ、まあ事情はある程度このババアの耳に入っとるよ。腹の探り合いは無しだ、あんた達は何がしたいんだい?」
「私達のせいで道を踏み外した人達を少しでも救ってあげたいの」
ニーメは目を丸くしてカリンを見ていた。まるで変なことを言ったかのようだ。
「お嬢ちゃん、ずいぶんと優しいんだねえ。商売ってもんは誰かが得をする以上、誰かが損するもんさ」
「今回に至っては誰かが損して、誰かも損しているんですけどね」
「ハハハハハ、それは驚いた。私が生きてきた中で、誰も得しなかったような商売は聞いたことがないねえ」
「買った人は得をしているけど、業界全体としては大損よ。ニーメさんぐらいよ、この町で得をしているなんて言い切っている人は」
「ああ、他の薬屋のバカタレどもは勝てん戦いに特攻して散っていったんじゃ。ワシは流れてきた薬を見たらそりゃ効能ぐらいわかるもんさ、これも年の甲かねえ。あのバカタレどもは薬師のエリートだと思い込んでいるからねえ、田舎町の薬程度本気を出せば勝てるって思っていたんだ。全く馬鹿だねえ」
「ニーナさん……」
「効能は超えられても、次は値段が勝てんことぐらい分かるさね。でもあんな値段で売っていたら、売る側がきっと体力切れを起こして売れなくなるってことも分かったさ。だったら嵐が過ぎるのを待てばそれでええんじゃな。なのに嵐に挑んで吹き飛んでいきおった、無惨じゃのお……」
「でもニーナさん、なんで分かっていたのに忠告しなかったの?」
ニーナは座っている隣に置いていた湯呑みを手に取って、ズズズと飲んだ。ハアとため息を出した後、カリンに向かって口を開いた。
「あのひよっこ坊や達にはきちんと教えてやったよ。でも『エリートの僕達が田舎者には負けない』ってねえ、出しちゃいけないプライドってもんがこの世にはあるもんさ。婆ちゃんの忠告なんて、老人の弱気な反対程度にしか思っていなかったんだねえ」
「そんな……」
「おかげで薬を欲しい連中はみ──────んなババアの店にきちょるよ。そろそろ傷薬も販売を再開して、元に戻るとするかね」
「じゃあ声をかけたら、薬屋のみんなも返ってくるのかしら?」
「さあねえ。あの子らはプライドが高いから、肉体労働なんてやらないって言って働いていなくて、家賃も払えずに追い出されとるよ。そんな状態で返ってこれるかのぉ」
ニーナは上の方に視線を上げながら、今の彼らの様子を想像していた。
「ホームレスなのね、彼らのプライドの高さには困ったものだわ。せめて肉体労働で頑張っていてくれれば、薬屋の再開も簡単なのに!」
「ホホホホホホ、まだまだ婆ちゃんの天下だねえ」
「でもお婆ちゃんが亡くなった時、誰も薬を作る人がいなくなっちゃうわ」
ニーナはニコニコしてカリンに答えた。
「ワシが死んだ後はまた誰かが来るさね。まあワシは充分すぎるほど儲けちょる、薬屋達を戻してやりたいなら場所を教えてやらんでもないが、行かんほうがええと忠告だけはしちゃる」
「え……どうしてかしら?」
「もしお前達の正体を知ったらどうなるかのぉ。暴力で訴えかけてくることはあり得るし、何より勝者が敗者に手を差し伸べるのは、彼らにとって相当な屈辱になるってことを理解する必要があるでな」
「う~ん」
物事は簡単には進まない。もうこれ以上ダンピングは起きないから戻っておいでと言ったところで、信じてもらえるかも不安であり、信じてもらえたとて返ってくる保証はないのだ。
「ありがとう、お婆ちゃん。でも一度は話をしてみたいと思うの。彼らの寝泊まりしていそうなところはどこかしら? 地図はあるから教えて頂戴」
「魚心あれば水心さね」
「あ……はい、チップはこれぐらいでいいかしら」
カリンは銅貨を数枚渡した。
「やれやれ、儲からない商売をしているのは、お坊ちゃんだけじゃなくてお嬢ちゃんも同じなのかもしれんねえ。まあチップ分は教えてあげるさ」
ニーナはカリンが開いた地図の何か所かに鉛筆で丸を付けた。
「じゃあ行っておいで。また他のことを知りたくなったら暇つぶしに教えてあげるさね」
「有料でね!」
カリンはダニエルの手を引いて、笑いながら薬屋から出て行った。
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