第11話 カリン・フォン・シュペーという元令嬢(2/2)
完全に目のハイライトが消えてしまったカリンは、教官に追い詰められた新兵のようになっていた。
「大丈夫よ、ダニエル! だって持ってきたお気に入りの食器たちも殆ど砕けてしまったけど、お皿1枚だけは死守したわ! 他は全部粉末状になって宙へ飛んで行ったけど、お皿1枚あればきっと食事も喫茶も全て何とかなるって信じているわ」
「どうにもならないんだよねえ、お皿1枚だけだったら……」
いつもダニエルに対して呆れていた彼女であったが、今日に限っては完全に逆転していた。まるでダニエルが常識人のように見えるのが不思議である。
「あとね……乗馬の練習もしたわよ」
「うわぁ、これぞ“貴族”って感じだね。やっぱり貴族は馬に乗って駆けまわっているイメージがあるよ! そういう楽しいお話を聞かせてよ!」
「屠殺場……」
「屠殺場?」
「私が何度も落馬して泣いていて、もう乗りたくないってお母様にお願いしたのよ。そうしたらね、『乗らないなら、この馬はもういらないわね。餌代もかかるし、屠殺場に連れて行ってみんなで食べましょうか。今夜は馬刺しをいっぱい食べられるし、ワインも進むわね!』って言われたのよ」
「ひええええええええ! どうしてそうなるの!」
「根性で乗ったわよ! と言うより何故か馬の方が大人しくなったわ。きっと本気で殺されることを理解したのね。調教師が『あの暴れ馬が調教されて帰ってきた! 一体どうやって? 誰も調教できなくて困っていたんだけどなぁ』って言ったのを思い出したわ。お母様は私と馬まで調教していたのね! お見事よ!」
「あの……普通に馬から落ちたら死ぬって聞いたことがあるんだけど。命の価値が……あとカリンは自分が調教されたって言うのに躊躇いが無いんだね、教育されているなぁ」
ダニエルはカリンのせいで貴族という者を盛大に勘違いしてしまいそうになる。だがきっとカリンだけが特殊なんだろうなとダニエルは感じていた。
「ええ、きっと貴族はすごいのよ。あとね、初めての社交界に参加する時も特注の【優雅矯正ギブス】って物を身体に装着されて、1か月ずっと所作の全てをお母様に教えられたわ。『頭で分からないなら身体に教えるのが効率的よね。安心しなさい、お母さんが恥ずかしくないように育て上げるからね』って……辛かったわ」
「矯正ギブスって何?」
「身体に付けて、命令通りの動きを矯正する魔道具よ。最初は身体が動きに慣れていないからとても痛かったわ、それに抵抗すると電流が流れるのよ……慣れてくると何も感じなくなるのだけどね、心もだけど」
最後に呟いたことは、ダニエルの耳には入らなかった。だがダニエルが憧れの目から憐れみの目に変わっていたことをカリンは感じていた。おかしい、憧れの貴族の生活を話していただけなのに、なぜこんな不憫な目で見られなきゃならないのだと彼女は心の中で抗議していた。
彼は、このままではいけない、カリンが闇をかかえたまま今日と言う日が終わってしまうと危機感を持った。なんとかカリンを救う方法が無いか考え、頭をフル回転させた。周囲を見渡すと、昨日のまだ食べていないケーキの存在を思い出した。これしかないとダニエルは決心した。
「カリン、お爺ちゃんにプレゼントしたケーキはね、とっても大きいホールケーキなんだよ! ちょっとお爺ちゃんにお願いするから、カリンはいっぱい食べてもいいよ!」
「あら、ケーキは大好物よ。でもそんなにいっぱい食べさせてくれるなんて、一体どういうつもりなのかしら?」
「カリンの心は癒す必要があるんだよ! カリンは……うん、しっかり休まないといけないんだ!」
ダニエルは力強く彼女の手を握った。カリンは何故こんなにも力強く手を握られているのか理解できなかったが、手から伝わる暖かさが彼女の心を癒していたことは間違いなかった。
───カールが薪割りを終えて帰ってくると、カリンの手を握っているダニエルの姿が目に映った。カールは一瞬、ダニエルが恋にでも落ちたのかと思ったが、どちらかと言うと可哀想な人に手を握ってあげて応援している教会関係者のような目つきをしていることで察した。
「ダニエル、お前は優しい奴だな」
「みんなして何よ! 私が何をしたって言うのよ!」
「お爺ちゃん、カリンの心を癒す必要があるんだよ。美味しいお茶と大きいホールケーキでカリンの幸せを満たしてあげなきゃ!」
ダニエルは使命感を持った目をしてカールに言った。彼は必死にカリンを癒そうとしているのだ。
「ああ、お爺ちゃんは朝からそんなにいっぱい食えんからな、カリンにいっぱい食わせてやろう。たらふく高級チョコレートケーキを堪能するといい」
「何よ! 何よ! みんなそんな憐みの目で私を見ないでよ! 私は誇り高き令嬢として育てられてきたの。確かに今は没落しているかもしれないけど、私の心はずっと気高いものなの!」
「では元ご令嬢、あちらにホールケーキを用意しているので、口を閉じて無駄口を叩かずにお進みください」
「ムキ───!!」
カリンはプンプンと怒っていたが、ダニエルに引っ張られて素直に連行された。なんとか大人ぶろうとしているが、やはりまだまだ年相応だなとカールは感じていた。
───道具屋の中央テーブルを囲むように座ると、カールは改めてホールケーキを取り出した。
「やっぱりあの店員、奮発しすぎだぞ! まあそこの食いしん坊が残った分も全部食べてくれるだろうがな」
「もういいわ! 全部いただくわよ!」
「朝からご馳走だよー!」
カールは作り立てのお茶を全員に淹れると、改めて席に座った。
「それじゃあ改めて誕生日プレゼントをありがとう。今日も1日頑張るぞ」
食卓は賑やかであった。ショートケーキほどに切り分けられたケーキを食べるカール、ちょっと欲張りサイズなケーキを食べるダニエル、まさかこんな量を食べることになるとは思っておらず、『何人前ですの……』と青ざめているカリンの姿が楽しそうに広がっていた。
チョコレートケーキは、いくら食べてもくどくなく、口の中で溶けたと思ったらまた一口食べたくなる味だった。口の中に入ったケーキは、舌の上で熱を帯び、途端にチョコレートジュースを飲んでいるかのように感じ、チョコに含まれたクリームが濃厚さを強く演出しているにも関わらず、口の中から消えた際には何も無かったかのようにスッキリしていた。
「このケーキは……すごく美味しいわ。口に出して色々と褒めてみたいけど、評価を口にすることが無粋に感じるわね」
「それでいいんだ、カリン。別にあのお菓子屋だって無理に味の評価を求めているわけじゃないだろうよ。ただ美味しいって言ってくれていて、またその店で買ってやることが最大の評価なんだ」
「お爺ちゃん、僕この味大好き! とっても美味しいよー!」
「ああ、それでいい。子供は子供らしく、小賢しいことをせずに素直な気持ちでぶつかってこればいいんだ。無邪気な力を発揮できるのは子供の特権だ、そして何も考えずに突撃するような大人は馬鹿だ。お前達は馬鹿と言われない間ぐらい、好きにやればいいんだ。お前達が大人になるまではお爺ちゃんが守ってやる。ただ、大人になったからには自分で自分の身を守らにゃならんのだ」
3人は各々ケーキを堪能していたが、先に食べ終わったカールはお茶を飲みながら語りかけていた。
「ダニエル……つまるところ、お前が作った商品を売ったことも、お菓子屋がケーキを売ったことも、やっている本質は同じなんだよ。他人に喜んでもらいたいって気持ちで物を作って、喜んでもらう対価として金をもらっているんだ」
「うん! 僕は喜んでもらうことが大好きだよ!」
「ああそうだ、その道を突き進む方がええわい」
先に食べ終わったカールとダニエルは色々と話していたが、カリンは食べることに必死だった。自分の満腹中枢が冷静さを取り戻すまでに食べきらなければ、このフォークの動きは止まってしまうだろう。
貴族の所作を鍛えたカリンは、優雅に高速でケーキを食べていた。だが美味しさの暴力がカリンの令嬢というリミッターを破壊してしまったのだ。
「こんな最高のチョコレートケーキ、美味しいに決まってますわ! 美味しすぎて手が止まりませんのよ! チョコが無限に口の中で消えて、パクパクですわ! 見た目はかなりシンプルなんですけど、こういう質実剛健なところが大好きですわ! まあつまるところ美味しいのですの!」
「可哀想に……色々と溜まっていたんだな」
カールが壊れ始めたカリンを見て呟いた。
「五月蠅いですわ! このケーキを作ったの人は神ですわ! 職人たちの人件費と苦労と経験の味がしますわ! 結局ケーキはチョコレートが一番ですわ! ケーキはこれだけで勝ちですわ! 甘味が口の中で広がって、それでいて塩分のしょっぱさがまた甘さを求めますの、これは永久機関ですのよ!」
「カリンちゃん……すごい勢いだ!」
高速のフォーク捌きによって、カリンは大きなホールケーキのほとんどをひとりで平らげた。食べ終わったカリンは恍惚とした満面の笑みをしていた。
「お爺ちゃん、僕はひとりの女の子を癒してあげられたかなぁ?」
「おそらくな。一度壊れて馬鹿になった方がこいつも救われるさ」
暴走したお嬢様は幸せそうに突っ伏し、優雅さをほぼ失っているカリンの姿があった。
「もう……動けませんわ」
「いい食べっぷりだったぞ」
「カリンちゃん! これだけ食べられるなら、明日も注文するね!」
「当分……チョコレートケーキは結構です……わ」
カリンは力なく答えるので精一杯だった。
「じゃあモンブランを買ってくるね!」
「種類の問題ではありませんわ!」
「へへへっ、カリン、元気になった?」
「それはそれは、充分すぎるほどに」
「やったぁ、それじゃあ僕はまた倉庫に戻って何か作っているから、カリンはゆっくりしていってね!」
ダニエルはカリンの顔が満足しているのを確認すると、倉庫へ向かって行った。彼女にとっては、朝から暴風が巻き起こったかのような感覚であった。
「ああ……今日は動きたくないわ……」
「ふん、少しそこで休憩していろ。だが今日は残念ながら出かけなきゃならんだろうな」
「ええ、分かったわ」
カリンは身体中が幸せに包まれながら、机に突っ伏して食休めをしていた。久しぶりに馬鹿なことをやって、何か吹っ切れた気がしていた。
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