今田家コーヒー作戦
五十嵐 密
1.おとなになりたい
「おとうさん、おはよう」
「おはよう、今日もいい天気だね」
いつものにおいだ。
「おとうさん、おとうさん、」
「ん? どうした?」
「またのんでるね。それ」
「コーヒーのことかい?」
「ぼくもこーひーのんでみたい」
「まだ早いよ。これは大人の飲み物なんだ。」
おとうさんは、わらった。やさしくわらった。
ぼくは、どうしても”こーひー” をのみたい。のんでみたい。
オトナノノミモノ? そんなこと言われたら、もっとのんでみたくなるもん。
「ほら、顔を洗って、歯磨きもしておいで」
「んー、してくる」
はみがきは、きらい。この台にのるのがこわい。
でも、むしばは、もっときらい。はいしゃさんがこわい。
前までは、おとうさんが、みがいてくれたけど、ぼくはもう、こどもじゃないから、ひとりではみがきできるもん。
ひとりじゃなかった。かがみにもうひとりのぼく。
まいにち、ぼくたちはここで待ち合わせて、いっしょに、はみがきっていうおしごとをしてるんだ。
「ぼくたちは、おとなだね」
「ん? なんか言ったかい?」
「なーんでもなーい」
「ちゃんと磨けたかい?」
「うん、ひとりでもちゃんとはみがきできるもん」
ぼくが、はみがきからもどってくると、いつも、おとうさんが、あったかいミルクをテーブルにおいてくれる。
おとうさんがいれてくれるこのホットミルクが、ぼくはだいすき。
「どうだ? 熱くないかい?」
「だいじょうぶ、あったかくておいしい」
「相変わらず、おいしそうに飲むなあ」
また、おとうさんが、やさしくわらった。
こーひーは、おとなになってからでいいや。
だって、こんなにおいしいミルクが、ぼくにはあるんだもん。
もっともっとよくばったら、かみさまにおこられちゃうな。
「なにをそんなに笑うことがあるんだい?」
「んーん、なんでもない。わらっちゃうくらい、おいしんだもん」
「それは幸せなことだな、さぁ、朝ごはんも食べなさい」
おとうさんは、ずっとわらってる。
ぼくが、しあわせなことが、おとうさんもしあわせなのかな?
ぼくは、いつもどおり、朝ごはんをもぐもぐたべて、おでかけのしたくをはじめた。
「今日も公園に行くのかい?」
「うん、そう。みんなとあそぶんだ」
「そっか、みんなと楽しんでおいで。そのかわり、事故や怪我には気を付けるんだよ」
「だいじょうぶだよ、すぐそこだし、おとうさんも、ぼくのことみえるでしょ?」
ぼくの家のまえには、ちいさな公園がある。
家と公園までは、くるまも入れないくらいの、ほそいみちしかない。
「おとうさんは、きょうもおしごと?」
「そうだよ。仕事部屋からでも公園が見えるから、悪さできないぞ? 」
「わるいことなんかしないもん。おとうさんは、おしごとがんばってね」
「うん、ありがとな、いつもよりに頑張れるよ」
「じゃあ、いってきます」
「あい、いってらっしゃい」
いってきますって言ったけど、玄関のとびらを開けば、とうちゃくだ。
だから、いつも、ぼくがいちばんのり。
みんなは、あとからばらばらにやってくる。
あれ?
「きょうは、おれがいちばんだ」
「ぼくが、いちばんじゃないのはじめてだ」
「おまえ、いつもひとりだから、きょうは、おれがおまえのかわりになってあげたんだ」
「ありがとう、やっぱ、たけるくんはやさしいね」
「へへ、おれは、うちゅういちやさしいからな」
たけるくんは、ぼくの家のとなりのとなりに住んでるおともだち。
さいしょは、べつべつの、おともだちとあそんでいたけど、苗字がおなじことで、ぼくたちは、なかよくなれた。
「みんながくるまで、なにしようかな?」
ぼくは、たけるくんのほうにむかって歩きながら、おちていた木の枝をちいさくふりながら、きいてみた。
「んー、おもいつかねーなぁ。そういえば、おまえのとうちゃんは、きょうもしごとしてるのか?」
「うん、まいにち、おしごとしてるよ」
「そっかぁ、おとなってたいへんだなー。おれは、おとなになりたくないなぁ」
「えっ?」
「ん? どうしたよ」
「んーん、ぼくはさ、おとなになりたいって、きょうおもったの」
たけるくんは、ふしぎそうに、ぼくのかおをのぞいてくる。
「なんでおとなになりたいんだよ、おまえも、まいにち、しごとしたいのか?」
「ちがうの、”オトナノノミモノ” をのんでみたいの」
それは、まるで、魔法のことばのようにきこえる。
おとなじゃないと、飲むことができない。
おとうさんは、いつも、おいしそうに、それをのんでいる。
やっぱり飲みたい。飲んでみたい。
ホットミルクもだいすきだけど、こーひーも飲んでみたい。
「オトナノノミモノ? なんだそれ?」
「こーひーっていうんだって。たけるくんしってる?」
「コーヒー? しってるよ、あたりまえだろ」
たけるくんは、大きくわらって、じぶんのおとうさんも、おかあさんも、よく飲んでることを、おしえてくれた。
それをきいて、やっぱり、おとなしか飲めないんだと、ぼくはおもった。
「たけるくんは、こーひーのんだことある?」
「ないよ、でも、おいしくないって、かあちゃんがいってた」
「でも、おいしくないなら、なんでおとなは、こーひーをのむのかな? ほんとうに、おいしくないなら、ぼくの、おとうさんは、なんで、あんなにおいしそうなかおをするのかな」
「わかんねーよ。でも、おまえは、コーヒーをのみたいのか?」
「うん、のみたい」
「どうしても?」
「どうしても、のんでみたい」
「よし、じゃあ、いまからさくせんかいぎだ」
そういうと、たけるくんは、ぼくの手から木の枝をうばい、じめんになにやらかきはじめた。
ぼくは、とつぜんのことで、よくわからないまま、ただみていた。
「おい、いえのなかと、コーヒーのおいてあるばしょ、ここにかけよ」
たけるくんは、ぼくに、木の枝をかえしてきて、そう言ってきた。ぼくは、わからないまま、たけるくんにきいてみた。
「あ、うん。でも、これはなにをするの?」
「おまえが、コーヒーをのむためのサクセンだよ」
「え? でも、おとうさんは、のませてくれないよ」
「だから、こうやってサクセンたててるんだよ」
ぼくは、やっとわかった。
「わるいことはしない」って、おとうさんとやくそくしたけど、ぼくは、こーひーをのんでみたい。
だから、ごめんなさい。
ぼくは、それから、家のなか、こーひーの粉がおいてある、いつものあの場所を、くわしく、たけるくんと、はなし合った。
そうしているうちに、みんなが公園にあつまってきた。
「よし、これはおまえとおれだけのひみつな」
「うん、わかった。みんなにはないしょだね」
「なづけて”コーヒーサクセン” だ。わすれるなよ」
「コーヒーサクセン。ぜったいわすれないよ」
ぼくとたけるくんは、砂のうえにかいたサクセンを、足のうらで、ぐちゃぐちゃにけした。
夕方、おとうさんが、まどを開けて、ぼくを呼ぶ。かいさんの合図だ。
みんなと、つぎのあそぶやくそくをして、きょうは、ばいばい。
「おとうさん、ただいま」
「おかえり、今日もたのしかったかい?」
「うん、たのしかったよ」
ぼくは、手をあらいながら、返事をした。
おとうさんのかおを見て、返事をすれば、”あの” サクセンがばれてしまいそうな気持ちになって、コーヒーサクセンがばれないように、いつもよりも、ながく、手のすみずみまで、あらった。
そして、おとうさんが作ってくれたカレーを、ぼくは、いちもくさんにたべてから、自分のへやにこもった。
サクセン内容は、こうだ。
1. おとうさんが、コーヒーを飲むときに、コーヒーの作り方をおぼえる。
2. おとうさんがいないじかん。ぼくだけが、家にいるじかんをつくる。
3. そのすきに、ぼくが、自分で、コーヒーを作って、飲む。
これで、かんぺきだ。
ひとつだけ、たったひとつ……
ぼくだけが、家にいるじかんをどうやってつくるかだ。
かんがえろ、ぼく。
つぎの日、ぼくは、さっそくサクセンを、かいしした。
「おとうさん、おはよう」
「おはよう、今日は早起きだね、今日もみんなとあそぶのかい?」
「んーん。きょうは、おうちにいる」
「じゃあ、おとうさんと、散歩でも行くかい?」
「んーん。きょうはいいの」
「そっか。残念だなー、おとうさんも気晴らしにと思ったんだけどなぁ」
「おとうさんは、おしごとたいへん? さんぽしてきてもいいよ」
「それなら、一緒に行かないと、気晴らしにならないさ」
「そっか」
むずかい。ぼくをのこして、おでかけなんて、おとうさんがするはずないもん。
じゃあ、きょうは、コーヒーの作り方だ。いちばん大切なこと。
おとうさんが、コーヒーを作るところを、ぜったいに、おぼえないと。
お昼すぎ、ぼくは、目がさめた。
寝ちゃってたのかな。おなかすいた。
「おとうさん、おとうさん」
「あれ? おとうさーん」
返事がない。
ぼくは、ふしぎになって家を走りまわったけど、おとうさんは、どこにもいない。
「もしかして……」
ぼくが、寝ているうちに、おでかけしたのかな? ほんとにいないのかな? ぼくだけを家にのこして、おでかけするなんて、しんじられないよ。
なんど、家のなかをさがしても、おとうさんはいない。
すると、げんかんのそとから、はなし声が、きこえてきた。
カーテンにかくれながら、そっと、ようすをのぞいてみる。
おとうさんと、おとなのひとが、はなしている。
おとうさんのすがたを見て、ぼくは、すこし安心した。でも、すぐに、”あの” サクセンを思い出した。
いましかない。
おとうさんが、ぼくを家にのこして、おでかけするなんて、家のまえで、おはなしするときしかないもん。ぜったいないもん。
ぼくは、キッチンに走った。 けど、そうだった、作り方がわかんないや。
ぼくのばか! ばかばか! せっかくのひとりなのに、ぼくは、なんにもできないじゃないか!
しかたなく、自分のへやへ、もどろうとしたそのとき、キッチンのよこにある、とびらから音がした。
ドンドン、ドンドン、
「おい、あけてくれよ」
たけるくんの声だ。
ぼくが、とびらのかぎを開けてあげると、
「コーヒーのんだか?」
「んーん。つくりかたが、わかんなくて」
ぼくは、たけるくんがここにいることも、これまた、よくわからないまま、すなおにこたえた。
「それじゃ、おれが、ヒーローだな」
「え?ヒーロー?」
「おれさ、コーヒーのつくりかた、かあちゃんからぬすんできたぞ」
「ほんとに?」
「ほんとだよ、それと、いま、おまえのとうちゃんと、はなしてるの、おれのとうちゃんだよ。とうちゃんのはなしはなげぇから、まだ、だいじょうぶだぞ。よかったな」
ぼくは、おどろきと、安心が、まざりあって、ドキドキしていた。
やっと、これで、コーヒーを飲むことができるんだ。
ぼくも、おとなの、なかまいりかな。
たけるくんを、家にあげて、ぼくと、たけるくんは、コーヒーの粉をさがす。
いつものあの場所に、コーヒーはおいていなかった。
床においてあるダンボール箱。キッチンよこの食器棚。おしょう油や、ソースがはいっている棚。どこをさがしても、見つからない。
近くをとんでいく、鳥のなき声も、床にちらばった食器やソースも、まるで、この家が、ジャングルのように見えてくる。
そのあいだ、ぼくは、おとなになった自分を、そうぞうして、わくわく、むずむずするような、そんな気持ちだった。
くるま、おしごと、おかね、ひとりで、どこまでも行けるのが、おとな。
そんな、おとなにならないと、飲むことができないコーヒー。
コーヒーを飲むことができるのは、おとなだけなら、ぼくがコーヒーを飲めたら、おとなになれるんだ。
はやく、おとなになりたい。
おしごとは、たいへんなのかな?
くるまのうんてんはむずかしいのかな?
でも、どこでも、すきなところへ、行くことができる。コーヒーだって、すきなときに、飲むことができる。
「あったぞ」
そんなそうぞうをしていると、たけるくんがぼくにむかって、声をかけた。
「どこどこ?」
ぼくは、たけるくんの、見つめるほうをのぞきこんだ。
ぼくたちでは、まるで、手のとどかない、キッチンうえの、ちいさな空間に、それはあった。
「どうしよう……」
「おい、いすのうえにのって、そのまま、キッチンのうえにのったら、とれないか?」
ぼくは、ふるえてる。
はみがきをするときに、ぼくだけがつかう、あのふみ台さえも、こわいのに。
いすにのって、そのまま…… キッチンのうえにも…… のることなんて、ぼくには、できそうにない。
おとななら、手がとどくんだろうなぁ。
おとななら、こわくないんだろうなぁ。
「どうした? いすもってこいよ」
ぼくにはできない……。
おとなになるには、おとななことをしないと、おとなになれないんだ。
「ぼくは、おとなになれない…… たけるくん、とってくれないかな?」
ちいさな声で、たけるくんに返事をした。
すると、たけるくんは、ぼくの肩をつかんで、ぼくの目をみつめて、こう言った。
「おとなになるんだろ? おまえは、かんたんに、おとなになれるとおもってんのか? おまえがとらないと、いみがねぇだろ。こわいのか、しらないけど、おまえがやらなきゃだめなんだよ」
ぼくは、そのことばに、勇気をもらえた気がした。
あのコーヒーをとることが、おとなへの試練なんだ。きっとそうだ。
キッチンのそばにいすを置いて、ふるえる手をみつめながら、ぼくは、おとなになる”その” いすに、片足をのせた。
そのとき、げんかんのとびらが開いた。
作戦失敗。
ぼくは、おとなになれなかった。
ふしぎそうに、ぼくたちを、見つめるおとうさん。
ぼくは、おとうさんに、”サクセン” をぜんぶはなした。
「おとうさん、ごめんなさい」
「はは、謝ることもないさ」
おとうさんは、やさしくわらった。
たけるくんのおとうさんは、たけるくんをすこしだけおこったあと、おとうさんにあやまってた。
「ひと様のご自宅に勝手にあがってしまいまして、申し訳ありません」
「はは、謝ることもないですよ。それに、息子のお友達なんですから」
おとうさんは、また、やさしくわらった。
たけるくんは、照れるようにわらいながら、ぼくにあやまってから、たけるくんのおとうさんといっしょに、かえっていった。
ふたりがかえったあと、おとうさんが、ぼくのほうを、ふりかえって、こう言った。
「コーヒー、飲みたいかい?」
「え? いいの?」
「あぁ、飲み過ぎるといけないだろうけど、ひとくち程度なら、問題ないよ。それに、ひとくちで満足するだろうから」
ぼくは、自分で叶えることができなかったから、すこしのあいだ、返事ができなかった。
これで、おとなに、なれるのかな? 自分でコーヒーをとらなくて、おとなになれるのかな?
「どうしたんだい? もう、飲みたくなくなっちゃたのかい?」
「んーん、のみたい」
「じゃあ、そこのテーブルで待っててごらん」
ぼくが、テーブルでまってると、おとうさんが、まるで、お店の店員さんのように、コーヒーを、ぼくの目の前においてくれた。
「どうぞ、お召し上がりください」
おとうさんのはなしかたは、まるで、ぼくを、おとなのように思わせる。
ぼくは、おそるおそる、”あの” コーヒーをひとくちすすってみた。
「うぇ、にがい」
「ははは、やっぱりなぁ」
おとうさんは、いつもより、大きくわらった。
そんなことより、ぼくの口の中は、たいへんだ。飲みこんだあとも、ニガイのが、のこってる。
「これ、ほんとうに、コーヒーなの?」
「そうだよ。これが、コーヒーなんだよ」
「おとうさんが、いつも、おいしそうにのんでるやつ?」
「そうだよ、どうだい? 大人の味は? コーヒーを飲んで、大人になれたかな?」
おとうさんは、わらいながら、ぼくのかおを、のぞいてくる。
「ぼくは、もうすこし、こどもでいる。おとなになりたくない。ホットミルクがのみたい」
おとうさんは、いつもの、やさしくわらって、ホットミルクをいれてくれた。
ぼくは、そのホットミルクを、おとうさんは、ぼくが、ひとくちだけ飲んだ、のこりのコーヒーを、いっしょに飲んだ。
「あゆむ、今日のことは、忘れてはいけないよ?」
「うん、ちゃんと、はんせいする」
「そうじゃない、今日みたいな経験は、とてもたいせつなんだよ」
ぼくは、どういうことか、わからなかったけど、おとうさんは、そのまま、はなしつづけてくれた。
「コーヒーひとくちに、作戦を考えたり、その作戦を実行して、挙句の果てに、そのひとくちのために、自分の恐怖とも闘って、それを乗り越えようとした。わかるかい? 大人や、ほかの友達が、今日の話を聞いたら、笑うかもしれない。おとうさんだって、笑ってしまった。でもな、あゆむ、他人から笑われるほどのことでも、熱中して本気で取り組めることは、すごいことなんだ。あゆむが憧れた”大人” さえ、そこまでできる人は、多くはいないだよ。だからこそ、今日のように、自分の夢や憧れに本気になれる、その熱量と好奇心は、いずれやってくる”大人” になっても、絶対に忘れてはいけないよ」
あのときのことば、ふと、思い出す。
いや、忘れたことさえない。
ペンを走らせる先は、あの日の僕より。
父さん。ぼくは、大人になりました。
あれから、コーヒーは苦手になりましたが、一応、大人でしょう。
相変わらず、たけると男二人で、世界をうろついています。
最近は、そっちに帰れていないけど、仕方ないんです。
熱量と好奇心が、まだまだ冷めませんので。
この、一報が届いた暁には、また、いつものように
やさしくわらってやってください。
今田 歩夢
今田家コーヒー作戦 五十嵐 密 @hisoka__70
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