第9章 順義

第358話 無常

明日あすありと 思う心の仇桜あだざくら 

              夜半よわあらしの かぬものかは」


この歌は、後に誰もが知る偉大な僧侶となった人物が、

九歳の頃に詠んだ歌である。


桜の花を明日見ようと思っていても、

今晩の内に嵐が吹き、散ってしまうかもしれない……

そんなはかなさを表現している。


転じて、誰もが当たり前に過ごしている日常も

いつ終わりが来るかわからないものである。

だからこそ、そのかけがえのない毎日を一生懸命生きよう……

というメッセージを含んでいるんだとか。


この歌の作者を初めて知ったときの衝撃はまだ記憶に新しい。


一体どれほどの人生経験を積めば、

よわい九歳にしてこれほど歌を詠むことができるようになるのだろう。


毎年、桜の散る時期になると

火月は決まってこの歌を思い出していた。


そして同時に一つの疑問がずっと頭に残り続ける。


それは、


何故なぜ人は、花が散ることに対して死をイメージするのか?』


ということだった。


確かに見たままの情景として花が地面に落ちる様は、

人の命が散っていく様子に見えなくもない。


だが、実際の所、花が落ちたからと言って桜の木が死ぬわけではない。

言ってしまえば不要になった身体の一部が落ちているだけである。


それは夏に日焼けして、皮が剥けるのと同じような感覚に近い。


それに、落葉樹なら毎年葉を落としているはずだ。


枯れ葉の落ちるさまの方が

よっぽど死をイメージすると思うのは自分だけだろうか。


いずれにせよ、火月にとって花が落ちる様は死を連想させる物では無く、

新たな旅立ち、再生のイメージが強かった。


花が初めて枝から離れる瞬間は、未知の場所への冒険だ。

そして、その先で新たな土壌の栄養となり、次の花を咲かせるかてとなる。


火月はそんな風に考えていた。



「火月よ、早くこっちに来るが良い! 

 何やら旨そうなものが売っておるぞ!」



チョコバナナと書かれた屋台の前でねぎしおの叫ぶ声が聞こえる。

火月は今、自分が住んでいる場所から一番近い河川敷の花見会場に足を運んでいた。


会社の花見イベントにすら久しく参加していないのに、

何故わざわざ休日に花見をしに来ているのか?

と問われれば、無論ねぎしおのせいである。


何やら、テレビで花見特集を見たらしく、

その時にリポーターが食べていたものがそれは大層美味しそうに見えたんだとか。


あとはもういつもの流れである。


花見に連れて行けと騒ぐねぎしおを黙らせるため、

自宅の近くで開催されている花見イベントを探した結果、

ちょうど今日まで花見のイベントがやっていることを知った火月は、

急いで家を出て今に至る。


「何を立ち止まっておるのじゃ!

 売り切れで買えなくなったら、絶対に許さぬからな!」


むしろ、売り切れる瞬間を見る方が

チョコバナナを買うことよりレアな経験だろうなと思ったが、

そういうことではないのだろう。


結局の所、花より団子なのだ。


はらはらと薄いピンクの花が散っていく中、

火月はねぎしおの待つ屋台の方角へ、ゆっくりと歩き始めたのだった。

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