第311話 本能

時はさかのぼり、火月が自宅に到着する数時間前……。


いつものようにリビングでテレビを見ていたねぎしおは、

突然自宅のインターフォンが鳴ったのでビクリと身体を震わせる。


基本的に火月が自宅にいない時に来客があった場合は、

居留守を使うよう指示を受けていたので、

そのままテレビを眺めてやり過ごそうとしたねぎしおだったが、

何やら玄関の方からドスドスと妙な音が聞こえてくる。


『何事じゃ?』


数分経っても一向にその音が鳴り止まないので、

ちょっとだけ様子を見るつもりで玄関に向かったねぎしおは、

その音の正体を突き止める。


……誰かが玄関のドアを叩いているのだ。


「兄貴ぃ~!ここに住んでるのは分かってるんですぜ。

 もう一度だけ話し合いましょう」


ドアの向こう側から聞こえてくる声の主について

直ぐに察しがついたねぎしおは、

半ば呆れつつも返事をすることにした。


「お主、懲りずにまた来たのか?」


「その声は、ねぎしおの兄貴ですかい?」


三日魔に名乗った記憶はないのだが、自分の名前を知っているあたり、

流石、自称情報屋といったところか。


「生憎、まだ火月は仕事から帰って来ておらぬ。

 今日は諦めるんじゃな。もう警察の世話にはなりたくないじゃろう?」


「あの日は本当に苦労しましたよ。

 警察はこっちの言い分に聞く耳を持ってくれない状況でしたから。

 終いには、見た目が怪しいとか言い始めましてね、

 人を見た目で判断するなんて……全く、失礼極まりない行為ですぜ」


三日魔の言い分も理解できるが、

夜にあの格好で通報されたら誰しもまず不審者と疑うだろう。


警察も普通に職務を全うしていただけだろうに……

と心の中で同情していると三日魔が話を続ける。


「せっかく、お詫びの意味も込めて献上品を持って来たですがねぇ」


「献上品……じゃと?」


ねぎしおが思わず聞き返す。


「えぇ、この前依頼された焼きそばパンと牛乳はもちろん、

 各種フルーツの盛り合わせから

 A5ランクの高級肉まで手広く用意させてもらいましたぜ」


「……ゴクリ」


その甘美な響きに思わず喉を鳴らす。


だが、ねぎしおはまだ理性を保っていた。


「見知らぬ奴を家に入れるなと火月に言われておるのじゃ。

 じゃから、ドアを開けることはできぬ」


「あぁ、それは本当に残念です。

 兄貴に受け取って貰えないなら……全部捨てるしかないですね」


「ちょ、ちょっと待つがよい。

 何も捨てる必要は無いじゃろう。

 例えば、ドアの前に置いておくだけでも良いぞ?」


「実を言うと、すぐに食べて貰いたい理由がありましてね。

 肉を焼くために専用の炭と七輪をレンタルしてきたんですよ。

 限られた時間しか使えないので、食べるなら今のうちですぜ」


「ううむ……」


豆腐生活が始まってから今日に至るまで

肉を一切口にしていなかったねぎしおは、

この状況になって自分の食欲に打ち負けそうになっていた。


でもそれも仕方の無いことである。

なんたって、今回の肉はただの肉では無くA5ランクの肉なのだ。


テレビで紹介されていたあの高級肉を食べる機会が今後訪れるとは思えない。

だとすれば、火月にバレずに食ってしまった方がいいんじゃないか?

とさえ思えてくる。


結局、五分近く葛藤していたねぎしおは、

ふと、ドアポストの投函口から肉の良い匂いが立ち込めていることに気づく。


「もうこっちは肉を焼き始めましたぜ。

 早くしないと丸焦げになっちまうので気をつけて下せぇ」


ドアの向こう側では三日魔が肉を焼き始めていた。


投函口を少し開けて左手で押さえると

室内に匂いが入っていくよう、七輪に向かって右手でうちわを仰ぐ。


「……風の噂で聞きましたぜ。

 ねぎしおの兄貴、最近豆腐しか食ってないそうじゃないですか。

 腹が空いてるなら、我慢なんてする必要ないんです。

 もっと自分に素直になりましょうよ」


その甘い誘惑は、食欲という名の本能を暴走させるのに

十分な役割を果たしていたのは言うまでもない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る