第7章 another side

第297話 人生

傷有り紅三の扉の修復からちょうど二週間が経過した二月下旬頃、

山内匠真やまうちたくまはアタルデセルのカウンター席に一人座っていた。


時計の針は午後十時を過ぎたところで、

店内に他の客の姿は見当たらなかった。


別に水樹さんから呼び出しがあったからここに来たわけでは無い。

どちらかと言えば、今回は私が彼女に時間を作ってもらったのだ。


おそらく、こちらの要件について大方の予想がついているのだろう……

先ほど、彼女が店の外に出て行ったと思ったら直ぐに戻ってきたので、

扉の前のプレートを『準備中』に変えてきてくれたのだと察する。


この店の中で他の人に聞かれたくない内容……となればおのずと話題は絞られる。


席に着いてから、

どうやって話を切り出そうかと五分ほど無言で考え込んでいたものの、

あまり良い案が浮かばなかったので、いつも通りの自分でいくことにした。


「今日はお時間を作って頂き、ありがとうございます」


その場で小さく頭を下げる。


「そんなこと全然気にしなくて大丈夫だよー。

 それに私も山内君に伝えたいことがあったからさ、ちょうどよかったよ」


「伝えたいこと……ですか?」


視線を上げると、水樹さんは微笑を浮かべてこちらを見ていた。


「うん、この間は本当にありがとね。

 山内君がいなかったら、傷有り紅三の扉は修復できなかったと思うからさ。

 それに、中道君と志穂ちゃんを助けてくれたのも山内君でしょ?」


人の心を見透かすような彼女の真っすぐな目を直視できなくなった山内は、

思わず視線を外す。


「いえ……、それは違います。

 自分は何もしていないです。

 お二人が頑張ってくれたから扉を修復できたのであって、

 助けてもらったのは私の方なんですよ」


「いやはや、若い人に迷惑をかけてしまって、

 本当にどうしようもないですね……」

と自嘲気味に笑う山内を水樹はただじっと見つめていた。



「私、人の笑顔って本当に素敵だと思うの」


話題が変わったのか、唐突に彼女が話始める。


「一緒にいる人を幸せにしてくれる、安心させてくれる、

 自分がここにいてもいいんだって認めてもらえた……そんな気がするから。

 だから、このお店に来てくれた人には笑顔になって帰ってもらいたい。

 そのためには、まず私が笑顔にならなきゃいけないんだけどね。

 でも、今の山内君の笑顔は、あんまりしてほしくないかな。

 そんな表面上の笑顔を作るくらいなら、

 無表情のままでいてくれた方がマシだよ」


「中々手厳しいですね……肝に銘じておきます」


人のことをよく観察している人だとは思っていたが、

やはり店主をしているだけのことはある。


「水樹さんは、人生についてどうお考えですか?

 そうですね、例えば辛い困難な状況にあった時、

 それを乗り越えれば楽しいことが待っている……

 なんてフレーズをよく耳にしますが、貴女もそう思いますか?」


「幸福量保存の法則……、

 人生における幸福と不幸の量を同じとする考え方についてなら

 信じていないかな。

 やっぱり、幸、不幸の感じ方って人それぞれだと思うし」


こちらの返答を聞いて、ゆっくり頷いた山内が話を続ける。


「私も、この法則についてはあまり信用していません。

 そして少なくも私が今日まで生きてきた人生の中で幸せだったことと、

 辛かったこと、どちらが多かったかと聞かれれは、

 辛かったことの方が圧倒的に多いです。

 幸せいっぱいの時期があったとしても、

 その状況がずっと続くわけじゃないんです。

 コップ一杯に満たされた水をこぼさないで持ち続けるのは、本当に難しい」


そう話す山内の表情は、水樹が今まで見た事の無いものだった。


「老婆心ながらに申し上げますと、

 人生、思ったよりも辛いことが多いと考えていた方が心が楽かもしれません。

 そして、そんな辛いことが続いた時に

 私は自分を自分で笑って取り繕うことしかできませんでした。

 まさに、笑わなきゃやってられないってやつですね。

 だから、そんな作り笑いをしないで済むような人生を

 どうか貴女には歩んでいってほしいと、心から願います」


そう山内が言い終えると、

スーツの内ポケットからはしばみ色の懐中時計を取り出し、

カウンターテーブルの上に静かに置いたのだった。

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