第187話 学問なき経験は、経験なき学問に勝る

指先が茜ちゃんの懐中時計のリボンに触れる。


あと少し、あとほんの少しだけ手を伸ばせば届きそうな距離にあるのに

なかなか時計を掴むことができない。


歯を食いしばり、精一杯腕を伸ばした伊紗は

ようやく懐中時計のリボンを掴むことに成功した。


と同時に、服の襟元を何かに引っ張られる感覚に襲われ、

一時的に自由落下が止まる。


『どうして……?』


自分の身に何が起きたのか理解できなかった。


頭の後ろの方で誰かがブツブツと喋っているような声が聞こえたが、

今はもう意識を保っているのも限界だった。


段々と視界がかすんでくる。


このリボンだけは絶対に離すまいと手に力を込めるが、

リボンの結び目が緩くなり、懐中時計が崩壊する異界の地面へと吸い込まれていく。


もちろん、そんなことに気づく余裕もなく、

伊紗の意識だけが深い深い闇の底に落ちて行った。



――――――


――――――――――――



「全く、修復者には頭のおかしい奴しかおらんのか」


空中回廊を飛び出した伊紗の服の襟元を、

脚の爪で掴んだねぎしおが呟く。


到着が少しでも遅れていたら、絶対に間に合わなかっただろう。

だから、火月が自分を投げ飛ばした咄嗟の判断は正しかったと言える。


だが、一つだけ問題点があるとすれば

それはねぎしおに飛行能力がないということだ。


両翼を広げ、

落下スピードが少しでも遅くなるようにパタパタと忙しなく動かす……が、

やはり飛べないものは飛べないのだ。


「うぐぐ、人間というのは結構重い物なんじゃな。

 流石にもう限界じゃ……」


今の状態を維持し続けるのは無理だと諦めかけたその時、

身体が軽くなるような感覚に襲われる。


「十分助かった、後は任せてくれ」


どうやら火月も到着したようだった。


分断された空中回廊をジャンプした火月は、

ねぎしおと意識を失っている修復者を抱きかかえると、

そのまま崩壊が始まった異界の地面へ落ちていく。


「このままだと地面に叩きつけられるぞ! 

 出口の扉は見つかったのか?」


焦った様子のねぎしおが話しかけて来る。


「ああ、場所は分かってる。多分あそこだ」


火月が睨む地面の方へ視線を送ると、

そこはもう地面ではなく海の一部と成り果てていた。


崩壊の影響で建物を支えていた島の一部が海に飲み込まれていったのだろう。

そして、その水面には白く光る扉のシルエットのようなものが

浮かび上がっていることに気づく。


「まさか、このまま海に飛び込むつもりじゃなかろうな?」


「そのまさかだ」


もう落ちている最中なので、実質拒否権はなかった。

このまま無事に帰れるのか、それとも全員揃って海の藻屑もくずとなるのか……

今出来ることがあるとすれば、天に祈ることくらいだろう。


「初めての海で、初めての水泳が経験できるなんて運が良かったな」


「ふん、この状況でよく言いおるわ」


キラキラと星が瞬く夜空の下、黒い海に激しい水しぶきが飛び散った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る