第1章 another side

第17話 始まり

火月がアタルデセルに到着する約三十分前、

店内では水樹と一人の男性が話をしている最中だった。


「遅い時間にわざわざ来てもらってごめんなさい」

と申し訳なさそうに謝る彼女に対し、

「今日は遅くまで会社に残っていたので、全然大丈夫ですよ」

となるべく明るい声で返事をする。


正直、ここ最近は業務の引継ぎなどで残業が続いていたので

かなりの疲労が溜まっていたが、

営業職の人間としてそれを相手に悟られるわけにはいかなかった。


「それなら良かった」と呟いた彼女は、

ほのかにレモンの香りがする飲み物を出してくれた。


「ありがとうございます」


頭を下げた後に目線を上げると、

カウンター越しに真剣な表情をした彼女がこちらを見ていることに気づく。


ただならぬ雰囲気を感じ取ったので、一度姿勢を正して

話を聞く準備ができたことを目配せすると、

彼女が小さく頷き、落ち着いた口調で話を始めた。


「これは私のポリシーみたいなものなんだけど、

 これから一緒に仕事をする人とは必ず直接会って話をするようにしているの。

 もちろん今の時代、便利なツールは沢山あるし、

 それを否定するつもりは全くないんだけど、

 仕事内容が普通のものとはちょっと違うから

 相手にちゃんと説明して、納得してもらった上で仕事を始めてもらいたいんだ。

 何事も最初が肝心ってね」

と最後は笑顔になって話す彼女を見て

自分よりもずっと若いのにしっかりしているなぁと感心する。


何かを伝えるだけなら、確かにメールや電話で連絡した方が確実で早い。

でも、直接相手と話をしないとわからないこともある。


それは長年営業職をやってきた自分だからこそ、

自信をもって言えることだった。


相手の表情、目線、仕草、声色といった情報は、

コミュニケーションを円滑に進める上で欠かせないものだ。

特に大事な話であればあるほど、それらの情報の重要度は増す。


彼女が自分の仕事に対して真摯に向き合っていることがわかっただけでも、

今日この店に出向いた価値があったなと思う。


「私も聞きたいことがあったので、ちょうどよかったです」

と答えると同時に、初めて水樹に声をかけられた日のことを思い出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る