クライアント 遠山金魚 5
その時、ふすまが激しい勢いで開いてひとりの大男が転がり込むように乱入してきた。めちゃくちゃ息を切らしている。
「んが……」男が言った。
「待て、金魚」男の言った『んが……』を訳すいちご。
(以下の金魚とこの乱入男の会話はすべていちごの同時通訳によるものである)
「
『津富山?』 僕はあの寿司の箸袋を思い出した。この男が津富山寿司の息子なら、金魚が言っていた幼稚園からの同級生とは、この大男にほかならない——。
「なんだその男は? 誰だ?」権蔵は僕をそのさつまいも程もある指で指差して言う。
「誰でもいいだろ。お前に関係ない」金魚は裸バスタオルで白さやを構えたまま答える。
「若ちゃんが金魚のうちに寿司二人前を出前したって言うから、気になってわざわざ見に来てみりゃあ、なんだよ金魚その格好は?」——権蔵という男の『むは……』を訳すいちご。どうしてこの長文が『むは』だけで表現できるのか謎である。というか、この権蔵という男も金魚と同レベルの口下手だと言うことだ。
金魚は構えを解いて僕に歩み寄り、腕をとって「むふ……」と言った。
「ふっ、今さっき、自分とこの人とで済ましたところさ。ジジツコンってやつだよ。自分とやっくんはもう出来てるんだよ。さっさと帰れ!」金魚は無表情のまま、とんでもない嘘をついた。
「な、なに? もう済ました……ほ、ほんとうか?」大男は息を飲んで蒼白になった。
「いや、その、本当はまだその——」僕が思わず口をだす。金魚は無表情の顔を権蔵に向けたまま、目だけで僕をにらみつける。めっちゃ怖い。
「ほんとうじゃ、ないのか?」権蔵は眉を寄せて、複雑な表情になった。
「やりすぎてもうフラフラだよ。やっくん凄いんだから。自分もう、妊娠したと思う。男の子だといいなと思う。名前何にしようか、やっくん? それともひい爺ちゃんに決めてもらおか?」
「やっぱ、やったのか?」権蔵は泣き出しそうな顔で言った。この大男、なんかすごく純情っぽかった。
「いや、やってないですよ!」権蔵の純情に心を打たれたような気がする僕は、思わずそんなことを言ってしまった。
「なんだって? やっくん? あれだけやりまくっといて、そんなこと言っちゃうんだ? 女に恥かかせると、どうなるんだっけ?」ふたたび、あの刺し貫くような殺気が僕を襲う。
「んお……」権蔵は見開いた目で空中を凝視しながら口をパクパクさせて心臓に手を当てた。「ま、まて、し、心臓が」いちごが権蔵の『んお』を訳す。
「だから権蔵! お前には関係ない。帰れ!」
「く、帰らねえぞ! そんな野郎のどこがいいんだ? なんだそのヒョロヒョロは。俺は体重百三十キロ超えだ。それにベンチプレス三百キロ挙げるぞ。腕周りは五十センチだ」乙女のように泣きじゃくりながら大男は叫んだ。
「重けりゃいいってもんじゃないだろう! 重いのがいいなら漬物石でもやってろ」
「重いだけじゃねえぞ。金魚、お前、まだ高校生だろう? そんなおっさんじゃダメだ。同じ歳じゃなきゃダメだ。忘れんな! 俺も高校生だ」
「高校生なんてガキすぎて相手してらんないんだよ。自分にはおとなしか合わないんだ。おとなラブだよ、おとなラブ」——なんだかすごく幼さを感じさせるセリフだ。
「駅長の国さんが言ってたぞ。そいつ東京から来ただと? そんな遠くじゃ不便じゃないか! 俺んちは歩いてもここから三時間しかかからないぞ」
「自分はやっくんと東京で一緒に住むんだよ。邪魔するやつは叩き切る!」
「いや、そんな、一緒に住むとかそんなことまだ——」僕が慌てて口を挟む。
「邪魔するやつがたとえやっくんでも叩き切る!」金魚は言った。
どうやら間違いなく、権蔵は金魚が好きなのだが、それを直接伝えられる勇気はないらしかった。純情と言えばこの権蔵もとびきり純情なのだ。それにしても、この口下手な二人にはいちごの声は聞こえないはずなのに、しっかり会話が成立している。この二人こそ、天の采配じゃないのか? それに気がついてくれ金魚! なんなのだ? きみのその思い込みの強さは?
★
権蔵は帰らなかった。彼は金魚と僕の間にどっかりとあぐらをかいて座り動かなかった。しかたなく、金魚と僕は部屋の向こうとこちらで離ればなれに寝た。
次の日、僕は金魚が用意したゆかたを着せられ、下駄を履かされた。金魚は部屋に居座る権蔵をそこにいないかのごとく軽快に無視した。
「あう……」ふすまの向こうからゆかたに着替えた金魚があらわれた。こころもち——頬がうすく色づいていた。照れているのだろう。
「お待たせ、やっくん。いま出ればひい爺ちゃんの演武にちょうどいいと思うよ」
お祭りの神社までの徒歩二十分は、一升瓶を片手に馴れない下駄で歩くにはかなりの距離だった。金魚のゆかたは金魚柄で、すっと伸ばしたうなじの襟が色っぽかった。
いちごは難しい表情でふてくされるように歩いてついてくる。ゆかた姿で並んで歩くふたりを妬いているみたいだった。
権蔵はと言えば、金魚と僕の後をのそのそとつかず離れずついて来た。権蔵の姿だけがまるで日陰にいるみたいに灰色にくすんで、その大男の体は一回りも二回りも小さく見えた。
神社に続く坂道の途中には露天が立ち並び、りんご飴やら、おでんやら、ヨーヨー釣りやら、金魚すくいやらがならんでいた。この日ばかりは近隣の村や町から人が集まってくるらしい。金魚の目が輝いてる。無表情ながらそのワクワクは僕にも伝わってきた。
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