クライアント 遠山金魚 4

 バス停から歩くこと約二十分、僕たちは一軒の農家の前に到着した。

 大きな瓦屋根の平屋の屋敷だった。入り口は同じ色の瓦屋根を乗せた木造の門で、『遠山』と墨文字で書かれた表札がかかっていた。敷地に塀はなかったが背の低い生け垣が囲んでいて、南側に広がる庭には数本の柿の木が微妙に色づいた実をつけていた。


 金魚は無言で玄関の引き戸を開けて中に僕を招き入れた。都会と違って、いちいち鍵は掛けないようだ。

「うち、お父さんが村長だから、いつも忙しくて家にいないんだ。それに明日はお祭りだし、今日は帰ってこないよ」いちごが通訳する。

 お母さんは? 

「お母さんは去年、町に仕事を見つけたからそっちに住んでるよ」

——ちょっと複雑な家庭環境の匂いがする——僕は思った。

 そう言えば、金魚のひいお爺さんは一緒に住んでいないのかな? 僕が訊いてみれば、

「ひい爺ちゃんは神社の丘の向こうに自分だけのいおりを持っていて、そこに住んでるよ。修行なんだってさ。本当はひとりで暮らしたいだけかもしれないけど」金魚はいちごの通訳でそう言った。

 その金魚によれば、お祭りがもようされるあの丘の森の神社も、この辺り一体に広がる畑も、全てこの遠山家の土地だそうだ。それにしても、 ——来年まで命がもたないような老人が一人で暮らしたいなんてあるのだろうか? はっきりと言葉にはならなかったが、ぼんやりとそう感じた僕だった。

 と、まあそんなわけで、金魚はこの大きな家に一人で住んでいるらしい。

 それって、『今日は親、帰ってこないんだ』って言われているようなものだった。


   ★


 金魚は村に一軒の寿司屋から特上寿司を出前で取り寄せてくれた。 口下手の金魚がどうやって? と思ったが、最近の寿司屋はお得意様とSNSでつながっているらしい。

「う……」金魚が言う。いちごが翻訳する。

「やっくんはお寿司すき? 自分はこのお寿司大すきで、しょっちゅう食べてるよ。この寿司屋は自分の幼稚園からの同級生のうちなんだ」

「ふーん——」僕もこの寿司は美味いと思っていた。この山奥に鮮魚を期待するのは無謀とも思えるが、昨今の流通の進化はめざましいのだな。ネタの良さだけではない。しゃりの握り具合もすばらしかった。

 箸の袋には津富山つとやま寿司と印刷されていた。珍しい名字なのでしばし考えた僕だったが、『つとやま』と読むしか思い当たらなかった。


 金糸銀糸で滝を登る鯉の刺繍が入った大判で分厚い座布団に座った僕と金魚は、大きくて艶のある重そうなちゃぶ台に向かい合って寿司を食べた。ちゃぶ台は漆塗りの蒔絵で数百万円もしそうな豪華なものだった。

 無口が基本の金魚は食事中、一言もしゃべらずにお寿司に集中していた。


 寿司を食べ終わった金魚は立って茶の間を出ていったが、しばらくして戻ってくると顔を赤くしながら、

「はん……」と言った。金魚が赤くなればいちごが青ざめる。それを見て僕はただならぬ危険を感じとった。

「お風呂わいたよ。やっくん」いちごは声を震わせながら金魚の『はん……』を通訳した。


「やっくん、自分、はずかしいから先に入ってるよ。だから後から入ってきてよ。待ってるよ」金魚は首元まで真っ赤に色づきながら、庭に面する縁側廊下の奥へ消えていった。いよいよ、最大の危機の始まるときが来てしまった。って、金魚はそれをしっかりと予告していたではないか? にもかかわらず、僕はパニックした。見ればいちごは目が死んでいる。いや、目だけが死んでいるわけでもなかったが——。


——あれ? 僕は思った。そもそも、今回結んだ契約書にはこんな恋人関係になりますなんて文面は一行も含まれていないはずだった。そうじゃないか? だからここから先の金魚との関係は義務化されてはいないはずだ! ——一瞬、そう思って気を取り直した僕だったが、すぐに気がついた。


 だからだ——。


 そんな文面が含まれていないと言うことは、そうなりませんという宣言もそこに含まれていないのだ。「しまった——」僕は青ざめた。

 これは契約を結んだ同士の、契約とは無関係の恋愛の話になる。なので、それは契約うんぬんと関係なく、金魚を怒らせれば僕は活造いけづくりにされると言う単純な仕組みだったのだ。


 完全に詰んだ—— 僕は思った。全て自分の甘さから来た失敗だった。

「どうすりゃいいんだ? どうすりゃいいんだ?」

 僕はおろおろしながら、遠山家のお茶の間で右往左往した。「どうするの? どうするの?」いちごはそんな僕のうしろをくっついて歩いて、やはり右往左往していた。


 金魚は後から入ってきてね。とリクエストを残して風呂に消えていったが、その『後から』にはハッキリした基準がなかった。なので、ここで僕が一時間や二時間、いや、一年や二年、グズグズしていても、それは約束を破ったことにはならないはずだ。そんな役にも立たない詭弁きべんが僕の脳裏に浮かんでは消えていった。


 どのくらいの間、そうしていただろうか? 

 僕は背中にぞっとする気配を感じて振り向いた。

 そこにはバスタオルを裸の体に巻いた金魚がいた。体からは湯気が上がっている。その手には例の白さやが握られて、いつでも切りかかれる態勢で身を低く構えている。髪の毛からは水のしずくが滴って、足元の畳に染み込んでいく。

「う……」金魚が言う。

「いつまで、何をしてるんだよ? やっくん?」いちごが訳す。

「むあ……」「女に恥をかかせるのがどれくらいヤバいことか教えてあげようか?」僕は慌てて時計を見た。あれから少なくとも三十分は経ってる。その間、『超』がつくほどの純情乙女の金魚は今か今かと、女の人生の中の一大イベントが始まるのを心待ちにしていたのだ。お風呂の中で——。

 僕は頭から血の気が引くのを感じた。少なくとも普通の人間には単なる脅しでこんなシリアスな殺気が出せるとは思えない。——本気だ——僕は思った。


「ふ……」金魚が発声する。いちごはかちこちに身を固くしながらも、それを訳す。

「服を脱ぐのが苦手だって言うなら、自分が手伝ってあげるよ。やっくん? 服だけ切るから、動かないでくれる? 動くと痛いことになるかもよ」

 これはどう考えてもこの場の金魚が僕に与える最後通告のようだった。

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