第32話

「それは都合がいい話だな」


 理玖さんに兄の話をすると苦々しい表情になった。わたしと同じで兄の話を信じられないようだ。

 昨日は理玖さんが帰って来るまで起きていようとベッドの上に座って待っていたのにいつの間にかベッドの中で眠っていた。隣に理玖さんが寝ていたので、理玖さんがベッドの中に入れてくださったのだろう。

 朝ごはんは焼きたてのパンにオムレツ、新鮮な野菜のサラダに紅茶。朝からこんなに用意されても食べられそうにない。特に伯爵家のパンは種類がたくさんあって目移りするのだ。わたしはクロワッサンというパンにはまっている。たまには違うパンを食べようと思うのにクロワッサンを目にするともう駄目だ。今日もお腹はいっぱいなのに三つ目を手にした。どうしてこんなに美味しいのかしら。

 それを見る理玖さんの目は笑っている。


「やっぱり、都合がいいですよね。でもわたしは両親を嫌いにはなれないんです。兄様の話が本当ならいいのにって、昨日からずっと思っていて...」


 しょんぼりしながら話していると理玖さんが慌てたように話を遮る。


「絶対にあり得ないってわけじゃないから。ただ今になって言って来る義兄に腹が立っただけだ」


「でも母様に会うのはまだ怖いの」


「あんな風に言われたばかりなんだから、少しずつでいいさ。君が会いたいと思った時に、今度二人で会いに行こう。たとえ義兄に頼まれても一人で行ってはいけないよ」


 理玖さんの顔は真剣だったので、わたしもしっかりと頷いた。一人で両親に会うのは勇気がいるので、理玖さんと一緒にと言われてホッとした。


「それにしても茉里はクロワッサンが好きなんだね」


 四つ目を手にしたのを見て理玖さんに笑われてしまった。


「こんな美味しいパン食べたことなかったから」


「確かにクロワッサンは美味しいが、このフレンチトーストも美味しいからこちらも食べてみるといい」


 フレンチトーストと言って理玖さんが示したそれは前から食べたいと思っていたものだ。初めて見るものだから食べ方がよくわからないので手をつけたことがなかった。理玖さんが勧めてくれるのなら明日はフレンチトーストに挑戦してみよう。


「明日いただきます」


 返事をしながら理玖さんがフレンチトーストを食べるのを見ているとナイフとフォークを使って上手に食べている。やっぱり手づかみではなかったのね。手が汚れるからどうするのか心配だったけど納得する食べ方だ。

 伯爵家では子爵家では食べたことのないものが多く並ぶので、いつも食べ方が間違っていないか気になってしまう。特に果物は難しい。間違えても理玖さんは蔑んだりする人ではないけど、ここにはよく知らないメイドの目もある。どこで誰が見ているかわからないのだから気をつけないと理玖さんに迷惑をかけることになる。


「それで義兄さんは伯母さんのことを何か知っていたかい?」


「わたしと違って伯母さんがいたことは知ってました。でも昔に亡くなったことしか知りませんでした」


「亡くなったのが君たちが生まれる前のことだからそんなものだろう」


「でも調べて見るとは言ってくれました。母様が伯母さんの名を出したのは初めてのことだから気になるそうです」


「私の方でも調べるが、君たちの伯母さんだから義兄の方が詳しく調べられるだろう」


 伯母さんのことを調べたからと言って何かが変わるとは思えない。でも母様との関係は改善できるかもしれない。母様がどうしてわたしを遠ざけるようになったのか、そして手をあげるようになったのは何故なのかわかるといいと思う。


「ああ、残念だが仕事に行かなければならない。明後日は休みだから二人でクリスタル植物園に行こう。茉里は行ったことがあるかい?」


 クリスタル植物園は二年前に建てられた国立の植物園だ。世界中の植物が咲いていると聞いたことがある。いつか見に行きたいと思っていたけど、まさか理玖さんと一緒に行けるなんて。


「いえ、行きたかったので嬉しいです」


 理玖さんは新婚旅行に行けなかったことを悪いと思っているらしく、こうして休みの日はどこかに連れて行ってくれる。わたしは家でのんびり二人で過ごしたいなと思っていたけど、せっかく理玖さんが予定を立ててくれているので喜んでいる顔をしていた。けれど今回のクリスタル植物園は本当に嬉しい。世界中の花ってどんな花があるのかしら。本ではよくわからなかった熱帯地方の花が気になるわ。


「やっと笑った。家族のことが気になるのは仕方ないけど、君にはいつも笑顔でいてほしいと思っている。伯母さんについては私も調べるし、義兄も調べてくれるんだ。茉里は明後日行く植物園のことだけ考えてるといいよ」


 理玖さんはそれだけ言うとおでこにキスをして仕事に行った。

残されたわたしは頬に手を添えて、植物園のことより理玖さんのことばかり考えていた。

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