第5話

公爵家での花嫁教育は難航しているようで、段々と両親の機嫌も悪くなっている。愛莉は家に帰ってくると母に泣き言を言っているようだ。三千院伯爵からの申し出による婚約とはいえ、花嫁教育が終わるまでは結婚できないそうだ。このままだと妹はいつまで経っても結婚できないだろう。

そしてわたしにも縁談の話が舞い込んで来た。祖父江伯爵だ。三人目の花嫁にどうかと言われたらしい。

両親からすれば願っても無い話だと喜んでいるが、兄があまり乗り気でないためすぐには受けなかったようだ。兄がわたしのことを考えてくれるとは思えないので何か訳があるのだろう。

わたしはもしこの話がまとまったら家出をしようと思っている。こんなこともあろうかと二年くらい前から手に職をつけることを考えていた。結婚が嫌なわけではないけど、祖父江伯爵だけは嫌だった。彼の舐め回すような視線は我慢できない。舌を噛んで死んでしまった方がマシな気さえしている。わたしにできることは限られているので、語学を活かせる仕事を探した。商業ギルドに登録して仕事を紹介してもらっている。

初めの頃は実績がないため、全く仕事が来なかった。翻訳の仕事は決められた人を使うから新人には回って来ない。それでも根気強く、緊急の仕事を受けたりして信頼を築き今では指名も入るようになっている。貴族の生活からしたら端金だけど、平民としてなら暮らしていける。

成人すれば独立できる。両親に決められた人と結婚しなくていいのだ。もちろん子爵家からは縁を切られるだろうけど、平民として生きていく覚悟はできている。


「なあ、平民として生きるって本気なのか?」


「そのつもりよ。ただ、まだ成人してないのよ。それまでに祖父江伯爵との結婚が決まったらどうしたらいいのか」


わたしは幼なじみの松平賢一に相談しに来ていた。彼の家はわたしの家の隣なので、いつでも訪ねることができる。子爵令嬢としては失格だけど、誰にも見つからなければ問題ない。


「成人まではまだ一年はあるから、それまで逃げ続けるのは無理だろう。平民になるくらいなら祖父江伯爵と結婚した方が良い。彼は確かに浮気者で有名だが奥さんのことは大事にしていると評判だぞ。今みたいに妹のお下がりを着ることもなくなるし、食事を抜かれることもないだろ」


「賢一さんは男だからわからないだろうけど、あの獲物を見るような目はゾッとするの。妹のお下がりばかりだけど、平民になったらもっと質素な服を着ることになるのだから平気よ。食事が抜かれるのは仕方ないわ。わたしが太ってるからだもの」


妹のお下がりの服が直しをしても入りにくいとメイドの誰かが母に進言してくれたが、母からはダイエットをしなさいと言われただけだった。ウエストは妹より細いのに気付いてもいないのだろう。最近は朝ごはんしか用意してくれなくなった。そのことをメイドを通して知っている賢一さんはスコーンとサンドイッチを用意してくれた。次はいつ食べれるかわからないから、もぐもぐと口に入れる。でも食べ過ぎは禁物よね。太ってるって三千院伯爵も思ってるみたいだもの。


「茉里は太ってないよ。でも君の母親は痩せてるのが美徳だと思っているようだから何を言っても無駄だろうな」


「そうね。母は人の意見に耳を貸すような人ではないから無理だと思うわ」


久しぶりにお腹いっぱい食べたわたしは紅茶を飲みながら庭を眺めていた。昔はここでかくれんぼをして遊んだこともある。愛莉はその頃から皆に可愛がられていたから、誰もが彼女を必死で探した。そしてわたしはいつも忘れられた存在だった。いつまで経っても誰もさがしにきてくれなくて、隠れ場所から出て来たらこの場所で皆がジュースを飲んでいた。

『ああ、茉里はまだ隠れてたのか。気付かなかったよ。愛莉が喉が渇いたというからジュースを飲んでるんだ』そういえば賢一さんも愛莉が一番の人だった。いつからかわたしのことも気にかけてくれるようになっていたけど、初めの頃は他の人と一緒でわたしのことは目に入っていなかったように思う。いつからこんな風にお茶をするようになったのかしら。


「それで、本当に愛莉は三千院伯爵と結婚するのか? まだ婚約したことも誰も知らないみたいだが」


「花嫁教育が終わるまでは発表しないしきたりだそうよ。きっと花嫁教育で脱落した場合のことを考えているのだと思うわ。花嫁教育に失敗して婚約解消なんてことになったら女の方が恥ですもの。嫁の貰い手がなくなってしまうわ」


公爵家としてはそこまで恥をかかせるつもりがないということだと思う。でも三千院伯爵は愛莉のことを見初めて婚約を申し込んだと聞いたのにどういうつもりなのか。このままでは婚約解消になるのも時間の問題だ。


「愛莉は覚えるのが苦手だから公爵夫人は無理だろう。早めにダメになった方が傷つかなかいだろうに」


愛莉の愛らしさでなんとかなると思っていたけど、公爵夫人という立場はそんなものではないみたいだ。わたしは愛莉なら王子様と年齢が合えば王妃にさえもなれると思っていたけど、現実はそんなに甘くないのね。


「でも可哀想だわ。本人はすっかり乗り気になってるのに」


「え? 愛莉は乗り気なのかい?」


「ええ、そうよ。三千院伯爵を見てその気になったみたいで、色仕掛けでなんとかならないか母と色々画策しているわ。花嫁教育の方を頑張ればいいのに、その発想はないのよね…ってどうかした?」


賢一さんの顔色が変わった気がして、わたしは尋ねた。すると急に立ち上がって、


「すまないが急に用を思い出した。茉里はこのままここにいてもいいよ」


「ううん、わたしももう帰るわ。ごちそうさま。またお邪魔してもいいかしら」


「もちろんだよ。いつでも訪ねておいで」


賢一さんの笑顔はぎこちない気がした。


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