あとがき

「かなしい蝶と煌炎の獅子」ようやく完結いたしました。

一番最初に物語のラストを決めてから書き始めて、四年弱。ここまで書き続け、そして完結まで漕ぎ着けられたのは、偏に読者の皆様のおかげです。

連載当初からずっとお付き合いくださった方、途中から追いかけてくださった方、最近知って読み始めてくださった方、そんな皆様がいたからこそ、途中で筆を折ることなく、思い描いていた最後に辿り着くことができました。本当にありがとうございます。


さて、これにて鏡哉とロステアールの物語は一旦終了です。

BLと言うにはBL要素が薄く、戦記ものと言うには戦記もの要素が薄く、一応ファンタジーっぽさはあるかな? というような、ジャンルをこれと明言しにくい作品ですが、お楽しみいただけたでしょうか。

もしもこの作品を気に入ってくださいましたら、こういった話が好きそうな方にご紹介いただけると嬉しいです。ここまでお読みくださった読者様なら十二分にお判りかと思いますが、好きそうな方に届けたくともジャンルが絞れないせいで宣伝しにくい、という、なんとも扱いにくい作品なのです…。

やはり書き手としては、できるだけ多くの方に作品を読んでいただきたいという気持ちが強いです。ですので、もしよろしければ、どうぞお力添えくださいませ。


それでは、「かなしい蝶と煌炎の獅子」をここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。




















































P.S.

私事なのですが、映画のエンドロールが終わったあとにちょっとだけオマケの映像がある演出、とても好きなんですよね。






















































































































「ええ? まだ明らかになってないことがいっぱいある? 特にいきなり出て来た総攬する者エルムトゥリアとかいう名称とか、結局あの二人はどうなったのかとか? やだなぁ、そこはほら、自分で想像するものでしょ? 何もかも語ってしまったら、想像の余地がなくなっちゃうじゃないか。……え? それでも知りたい人もいる? まあ、そういう人が一定数いるのは判るけど、でも本当に良いのかなぁ。だって、さっきあんなにすっきり綺麗に終わったあとだよ? ……うーん、まあでも君たちは、僕と太陽神様のラブラブランデブーにここまで付き合ってくれた訳だしねぇ……。……じゃ、知りたい人には特別に見せてあげる。知りたくない人は、ここでさよならだ。それもひとつの選択だと思うよ。蓋を開けたら蛇足だったなんて、よくある話だからね」





























































































「ここまで来たってことは、進む気になったってことだね? それじゃあ、ほんのちょっとだけ、物語の先を見に行こうか」






















































































 はっと目覚めた鏡哉は、ぱちぱちと瞬きをした。

 見慣れた天井に、慣れた感触のベッド。そっと上半身を起こして周りを見回せば、その疑念は確信へと変わる。

 ここは、金の国ギルディスティアフォンガルド王国にある、天ヶ谷鏡哉の自室だ。

 何故、という疑問を抱く前に、ほとんど無意識にその手が己の右目へと伸びる。そっと触れたそこは、未だに少し慣れない、上質な革の眼帯に覆われていた。

(……あの人が、くれた眼帯だ)

 帝国での拷問の末に引きちぎられ棄てられた筈のそれが、まるであの出来事が全て夢であったかのように、存在している。

(……僕、は……?)

 あのときあそこで、彼と共に彼の炎に抱かれ、死んだ筈ではなかったのか。

 混乱する頭で、鏡哉は必死に思考する。不思議なことに、この状況におかれても彼は、あれらが夢だったのかもしれないとは思わなかった。

 だが、そうやって彼が考え始めてすぐに、視界の端で部屋の扉が開かれるのが見えた。びくりと肩を震わせた鏡哉がそちらを見れば、軽やかな足音とともに部屋に入ってきたのは、一人の女性だった。

 燃え盛る炎を思わせる髪と金の瞳を持った、目が潰れんばかりに美しい造作の女性だ。容姿だけで判断するのであれば二十歳そこそこの年齢に見えるが、その割にどうにも少女然とした雰囲気が溢れる、不思議な空気を纏っている。

 そのあまりの美しさに鏡哉がただ呆けていると、女性は鏡哉が座っているベッドへと近寄ってきて、にこりと笑みを浮かべて寄越した。

「おはよう。思っていたよりも、早くお目覚めだったのねー」

 少女から大人の女性へと花開くまさにその瞬間を思わせるような、そんな声が鏡哉の耳を叩いた。だが、彼女の美しさに見惚れる鏡哉には、返事をすることすらできない。

 何も言わない鏡哉を見て、ぱちりと瞬きをした彼女が首を傾げる。

「どうしたの?」

 尋ねる声に、鏡哉はうすぼんやりとする意識の中で、無理矢理に言葉を絞り出した。

「…………きれい、で……」

 うわ言のようなそれに、彼女がまた瞬きをする。そしてその直後、彼女はころころと鈴の音のような笑い声を上げた。

「ふふふ、ありがとう。そう言って貰えて、とっても嬉しいわー」

 まるで世界中の花束や宝石を集めて散らしたかのような微笑みを浮かべて、彼女が言う。その顔に鏡哉がまた見惚れていると、まるでそれを咎めるように彼女の手が伸びてきて、そして、鏡哉の片目をそっと塞いだ。

「見惚れてくれるのは嬉しいのだけれど、話が進まないのは良くないことだわ。だから、少しその視線を下げていてね。直視しなければ、きっとまだマシでしょう?」

 視界が閉ざされ、そこでようやく、鏡哉ははっと我に返った。そして、左目に触れる柔い手がいつ離れても良いようにと、慌てて視線を下げる。

 そんな鏡哉の様子を確認したのか、目を塞いでいた手が、すっと離れていった。そしてそのまま、その手が鏡哉の頭に触れる。

「良い子ね」

 柔らかい声がそう言って、温かな手が優しく頭をひと撫でした。

 鏡哉はやはり未だに混乱したままだったが、それでも彼女の姿を視界から追い出したことで落ち着きを取り戻したのか、ようやく少しだけまともに働きはじめた頭で、現状を理解しようと思考した。そして、その末に浮かんだ疑問を口に滑らせる。

「……あの、……ここはどこで、僕は、どうなったんで、しょうか……? それに、あの人は……? 貴女は一体……?」

 混乱のせいか纏まりのないその問いに、彼女は鏡哉を見つめ、ゆるりと笑みを浮かべた。

「そうねぇ。ひとまず、私やあの子のことは置いておきましょう。それよりもまずは、自分の置かれた状況を理解することが大切だわ」

「自分の置かれた状況、ですか……?」

「ええ。ここに来る前、自分がどうなったのかは覚えている?」

 彼女の問いに、鏡哉はこくりと頷いた。

「あの人の炎で、燃えて、…………死んだんだと、思っていたん、ですけど……」

 最後まで自信を持って答えられなかったのは、今こうして自分が存在しているからだ。

 だがその答えを、彼女はあっさりと肯定した。

「そうね。貴方は死んだわ。そして、ここにやって来た」

「…………輪廻、ですか……?」

 死した魂は巡り、またどこかの次元で別の生き物として生まれ変わる。リアンジュナイル大陸に伝わる死生観だ。鏡哉はあの大陸の生まれではないが、あの大陸で過ごしてきた者として、当然その考え方を知っていた。そして円卓の国王たちと関わるうちに、それが概ね事実であるのだろうことも知った。

 だからこの答えは、鏡哉が持っている知識で導き出せる一番それらしい答えだったのだが、彼女はゆるりと首を横に振ってそれを否定した。

「輪廻ではないわ。輪廻では、この世界に来ることはできないの。いいえ、それはちょっと正確ではないわねぇ。そもそも、この世界に貴方のようなただの生き物が来ることは、本来有り得ないことなのよ」

 言われ、鏡哉は更に混乱した。有り得ないと言われても、現にこうして存在しているのだから、意味が判らない。

 そんな鏡哉の混乱を察したのか、彼女は少しだけ言葉を探すように首を傾けてから、再び口を開いた。

「あの子がね、貴方を連れてきたの。あの子はここに帰って来る存在だったから」

 その言葉に、鏡哉の脳裏に赤い炎が揺れる。それを認識するや否や、彼は思わず声を上げていた。

「あの人もここにいるんですか?」

 自分を連れてきてくれる人など、彼以外に存在しない。

 確信を持って問われたそれに、彼女は頷いて返した。

「ええ。でも、今はいないわ。もうずっと、長いこと罰を受けているの」

「罰……?」

「貴方を勝手に連れてきてしまったから。言ったでしょう? ここは貴方が来られるような場所ではないのよ」

 柔らかな声に、責めるような色はない。寧ろ、鏡哉のことを気遣うような優しさすら感じさせるくらいの声だ。けれどその言葉に、鏡哉は思わず拳を握り、泣きそうな顔をしてしまった。

「……僕が、置いていかないでって、言ったから……」

 その望みを叶えて、そして、だから、あの人は罰を受けているのだ。

 その罪がどんなもので、受けた罰がどれだけのものかは判らない。けれど、他でもない鏡哉のせいで彼が罪を背負うことになってしまったのならば、それは耐えがたいことだと鏡哉は思った。

 だがそんな鏡哉の頭を、彼女の手がそっと撫でる。

「気にしなくて良いのよ。あの子がそれを幸せだと言うのだから、それで良いの」

 判るでしょう、と続いた言葉に、鏡哉はたっぷりと沈黙したあとで、小さく頷いた。

 彼女の言っていることは判る。彼が幸せだと言ったのならば、それは彼にとっての幸せなのだ。だから、こうやって悲しむのは、鏡哉の我が儘でしかないのだろう。

 判ったところで、ではそれを受け入れられるかと言ったらそんなことはないが、少なくとも、ここで嘆き喚いても何の益にもなりはしない。

 そう判断した鏡哉は、意識的に自分の悲嘆から距離を置いた。そして、彼女の話を聞くことでようやく思い至った可能性を、そっと口にする。

「…………ここは、神様の国、なんでしょうか」

 彼が帰る場所で、鏡哉が来られない場所。そんなものは、ひとつしか思い浮かばなかった。

 果たして、彼女はその問いに、鏡哉の頭を撫でていた手を下ろし、頷いて返した。

「そうね。判りやすく言うのであれば、そういうことになるのかしら。でも、きっとそれも正確ではないわねぇ」

 そう言った彼女が、すっと視線を上げる。

「ここは、あらゆる世界を見ることができる場所。あらゆる次元が揺蕩う海そのもの。……そうねぇ、貴方がいたような世界とはまるで別の階層に存在する、いわば高次元のような場所、とでも言えば良いのかしら」

「高次元……」

 呟いた鏡哉に、彼女が頷く。

「そう。そして私たちは、その高次元に存在する、総攬する者エルムトゥリアと呼ばれる種族。簡単に言うと、貴方がいたリエンコルムのような基幹次元を管理して、ありとあらゆる次元の平衡と安定を保つよう努めている生き物よ」

 流れるように言われた言葉たちに、しかし鏡哉はまるで理解が追い付かない。

「…………あの、リエンコルム、とか、基幹次元、っていうのは……?」

「リエンコルムは貴方がいた次元の名前。基幹次元っていうのは、……んー、そうねぇ、大木の幹のような次元、とでも言えば良いのかしらー」

 最適な表現を探すような素振りを見せながら、彼女はそう言った。

「次元っていうのはね、私たちの長である太陽神ソルオールが創った基幹次元と呼ばれるものと、その次元から枝葉のように伸びて生まれた末端次元と呼ばれるものとがあるの。基幹次元を創ることで、あとは勝手に末端次元が発生して、そうして世界が広がっていく。そういう仕組みなのね」

 彼女の言葉に、鏡哉は呆けたような顔をしてしまった。

 世界というか次元というかがそういう仕組みで増えていたなど、聞いたこともない。

 呆気に取られる鏡哉をよそに、彼女はなおも言葉を続けていく。

「それでね、この基幹次元っていうのは、とても大切な次元なの。ほら、木は枝葉が多少落ちても平気だけれど、幹が駄目になったら枯れてしまうでしょう? それと同じように、基幹次元がひとつ駄目になると、それに連なる末端次元も全て滅んでしまうのよー。だから、私たちにとって基幹次元っていうのは、最重要保持対象の次元なの。というより、基幹次元を管理して保持していくことこそが、私たちの存在意義と言っても良いくらいだわー」

 つまり鏡哉がいた次元は、その最重要保持対象である次元のひとつだった、と。

 そこまで理解した鏡哉は、しかしあまりのスケールの話に、頷くことしかできなかった。自分がいた次元がとても大事な次元だったということは判ったし、だからこそ今回の騒動のときに神様が沢山手を貸してくれたのだろうということは察しがついたが、だからといって何がしかの実感を持てたかというと、そんなことはなかった。

 だがそこで鏡哉はふと、師である蘇芳から聞いた話を思い出した。

「……僕の師の、蘇芳という人が、異世界から来た人だったんですが、……その、元の世界で使えていたはずの力が使えない、って言っていたことがあって。……それも、あの世界が基幹次元だったから、なんですか?」

 その問いに、彼女が微笑んで頷く。

「あら、よく判ったわねー。そう、基幹次元は特別な次元だから、その他の末端次元から誰かが来た場合、末端次元で使えていた力は使えなくなるようになっているの。同時に、基幹次元の固有能力は、その基幹次元で生まれた者しか使うことができない。そうやって基幹次元を優遇することで、不慮の事態をできるだけなくそうとしているのね。ほら、他の次元からやってきた強い生き物がそのままその力を使えたら、もしかすると基幹次元が滅ぼされてしまうかもしれないでしょう? まあ、その影響で、基幹次元から末端次元に生き物が流れた場合、基幹次元で使えていた力はそのまま末端次元でも使えてしまうっていう不具合も生じてしまっているんだけど」

 まあでもそのせいで末端次元が滅んでしまったとしても、枝葉はまた生まれて伸びるから、と、あっけらかんと言った彼女に、鏡哉は少しだけ背筋が冷えるような感覚を覚えた。

 言っていることは至って合理的でシンプルだが、それをそのままに受け取ってそうと認識しているあたりに、人ではない遥か高みの存在を感じたのだ。

「……あの、でも、それじゃあ、帝国の人たちの魔導は……?」

「ああ、あれはかなり特殊な事例ね。本来、魔導だろうとなんだろうと、別の次元から基幹次元に招かれたものは、基幹次元に来た時点で特殊な能力を失うわ。けど、あのときの魔導は、私たちと同じこの世界の住人である虚従えし嬉戯ヴァロウネインが絡んでいたから。あの坊やが悪さをして、基幹次元におけるルールを捻じ曲げてしまったのよー」

 困ったものだわぁ、と、大して困った様子もなく、彼女は言った。

「……つまり、ルールがきちんと働いていたら、ドラゴンはそこまで脅威ではない……?」

 その割に、円卓の国王たちは竜を随分と危険視していたようだったが、と思った鏡哉が疑問を呟くと、彼女は首を横に振った。

「いいえ、それは違うわ。竜種は特別なの。あれは私たちの世界の生き物でもなければ、基幹次元や末端次元から発生した生き物でもない。知らないうちにいつの間にか存在していた、あらゆる全てから独立した特殊な種なのよ。だから、次元移動の影響も受けないの。私たちのルールの外にある生き物だから」

「な、なるほど……」

「その上、竜種は神の御手エインストラほどではないにしろ、ある程度次元移動をすることができる生き物なのよねぇ。そういう意味では、他の生き物を喚び寄せるよりもやりやすかったのかもしれないわー。次元移動のポテンシャルがある分、引っ張りやすいから」

 そう言った彼女に、鏡哉は驚いて思わず口を開いた。

「え、エインストラ以外にも、次元を渡ることができる生き物がいるんですか……?」

 その問いに、彼女はおかしそうに笑った。

「あらー、知らなかった? 次元を渡る力を持つ生き物っていうのは、実は神の御手エインストラ以外にも結構いるのよー。と言っても、そういうのは皆、ひとつの基幹次元から連なる末端次元間を行き来できるだけ。その上、ほとんどの生き物は、渡る先の次元を自分で選べはしないの。あの竜種ですら、望む次元に移動できるほどの力を持つ個体はごく僅かだし、それだって、ひとつの基幹次元由来の次元への移動しかできない。だから、基幹次元に囚われず、ありとあらゆる次元を自由自在に渡れるのは、正真正銘、神の御手エインストラだけよ」

 私たちのような高次元の存在を除けば、だけれど、と付け足した彼女に、鏡哉は半ば呆けた顔をしつつも、怒涛のように流れて来た言葉たちを懸命に噛み砕いて、なんとか理解を追い付かせた。

「話が逸れてしまったわね。ええと、どこまで話したんだったかしらー? ……ああ、そうそう、竜種は特別だから、基幹次元だろうとどこだろうと平気で能力を使える、っていう話だったわね。そう、それ自体はちょっと困ったことなんだけれど、それを考慮して、基本的に竜種には様々な基幹次元に留まるようお願いしているの。だから、彼らが別の基幹次元に現れることなんて、本来は有り得ないのよー。基幹次元と基幹次元は、私たちみたいな存在が意図的に繋がない限り、絶対に干渉しないように創られているから。という訳で、本来であれば今回のように、竜種が別の基幹次元を滅ぼそうとすることなんて有り得ないのだけど……。……虚従えし嬉戯ヴァロウネインのせいで、もうしっちゃかめっちゃかだわー」

 本当に困った坊やよねぇ、と言って溜息をついた彼女に、鏡哉は曖昧な笑みだけを返す。あれを困ったで片づけてしまうあたり、この女性の力量というか地位というかが窺えたような気がした。

「あとは、そうねぇ。末端次元には数多存在する可能性の分岐が、基幹次元にはなくて正史のみだとか、以前の記憶を引き継いだ状態の魂は基幹次元には存在し得ないだとか。そんな感じで、基幹次元はその保持のために色々な制約を課しているのだけれど、……その辺を話すと長くなるし、何よりも難しい話になってしまうから、取り敢えず何でもありなのが末端次元で、厳しい決まりや法則で縛られているのが基幹次元、って覚えておけば良いんじゃないかしらー」

 のんびりとそう言って、彼女は笑った。

 なんだか最終的に随分と適当な説明で投げられてしまったような気がするが、鏡哉自身これ以上の情報は処理できない気しかしないので、特に何も言わず、頷くだけに留めた。そしてその代わりに、さっきから気になっている疑問をおずおずと口にする。

「……ここが高次元だっていうのは、なんとなく理解したんですが、……あの、……この部屋は……?」

 どう見ても金の国の自室そのものなのだが、どうなっているのか、と。言外にそう問うた鏡哉に、彼女がああ、と口を開く。

 だが、その唇から次の言葉が落ちる前に、どたどたと慌ただしく駆けるような音が部屋の外で響き、だんだんと近づいてきた。

 驚いた鏡哉が思わず扉の方を見るのと、あらあらと笑った彼女がそっとベッドから離れるのが同時で、そしてその直後、ばんと音を立てて扉が開かれる。

「鏡哉!」

 声と共に入ってきたその姿に、鏡哉は目を丸くし、そして、泣きそうな笑顔を浮かべた。

「……貴方」

 息を切らせて入室してきたのは、ロステアールだった。

 本当に存在していたという安堵と、なんだかやけに久しく感じる自分の名を呼ぶ声に、僅かだが視界が滲む。そんな鏡哉の下へと駆け寄ったロステアールが、その頬に両手を添えた。

「ああ、久しいな、鏡哉。身体に何か異常はないか? 言葉は話せるだろうか」

 歓喜と不安の混じったような顔でそう言ったロステアールに、鏡哉は内心で首を傾げつつも、こくりと頷いた。

「うん。平気だよ、貴方」

「そうか、それは良かった」

 そう言って嬉しそうに笑ったロステアールが、鏡哉を抱き寄せてその額にキスを贈る。突然のそれに小さく肩を跳ねさせた鏡哉が、ふと視線を感じてそちらの方を見ると、視界の端ににこにこと微笑む彼女の姿が映った。

「あ、あ、貴方!」

 慌てた鏡哉が、べりっとロステアールの身体を押して離す。大人しく離されてくれたロステアールは、不思議そうな顔をして鏡哉を見た。

「どうしたのだ?」

「ど、どうした、とかじゃ、なくて! ひ、人が、いるのに、こういうことは、」

 もごもごと言う鏡哉に、ロステアールは首を傾げたあとで、ああ、と声を出した。

「母上のことか」

「は、母上!?」

 驚いて声を上げてしまった鏡哉だったが、言われてみれば、というか言われてみなくても、ロステアールが母上と呼んだ彼女は、ロステアールに良く似た髪と目をしている。

 どうして今まで気づかなかったのだろうか、いや、それだけ混乱していたということなのかもしれない、などと鏡哉が内心で頭を抱えていると、彼女――炎神フラメスは、ころころと鈴の鳴るような声で笑った。

「鏡哉くんは恥ずかしがり屋さんなのねー。でも気にしなくて良いのよ。私のことは空気か何かだと思ってちょうだい」

「え、いや、あの、そういう訳には……」

 こんな存在感抜群の空気があって堪るか、と思った鏡哉が、もごもごと言葉を濁す。

 リアンジュナイルに伝わる神話が正しいとすれば、炎神フラメスと言えば、種族としての神、つまり総攬する者エルムトゥリアにおける、太陽神と月神に次ぐ地位にある四大神の内の一人だ。それがどれだけ偉いのかなど想像すらつかないが、ものすごく偉い存在であることだけは確かである。そんな存在を空気扱いするなど、できる筈もなかった。

「ほら、母上もこう言っている訳だし、気にすることはない」

「ぼ、僕は気にするんだよ!」

 にこにこしているロステアールにそう言ってから、はっとして鏡哉は彼を見上げた。

 彼がずっと罰を受けていると言ったフラメスの言葉を、思い出したのだ。

「そうだ、貴方、罰を受けているって……」

 不安そうな顔で言いながら、鏡哉はロステアールの全身を確かめるように見る。少なくとも見た限りでは、これといった外傷があるようには見えないが、それでも不安は拭えなかった。

 そんな鏡哉の頭を、ロステアールが優しく撫でる。

「お前が気にすることはない」

「そ、そういう訳にはいかないよ。だって、僕が一緒が良いって言って、だから僕を連れてきてくれて。そのせい、なんでしょう?」

 その言葉に、ロステアールは少しだけ驚いた顔をしてから、恨めしそうな目でフラメスを見た。

「母上の仕業ですね? 鏡哉には言わないようにと言ったではないですか」

「あらぁ、そうだったかしらー?」

「母上」

 少しきつめな声で呼ばれたフラメスが、悪戯が見つかった子供のような顔をする。

「だってー、何も知らないのもかわいそうだと思ったのよー。夫婦の間に隠し事があるのは良くないのよー?」

「ふ、夫婦……?」

 思わずつっこんでしまった鏡哉を見て、フラメスがにこりと笑みを返す。

「だって鏡哉くんは、ロステアールのお嫁さんでしょう?」

「え、ええ……」

 嫁になった覚えは全然ない……。

 そんなことを思った鏡哉だったが、それ以上何かを言うのは控え、ただ曖昧に微笑んでおいた。なんとなくだがフラメスからはロステアールと同じものを感じるから、多分何を言っても無駄だろうと思ったのだ。力ない凡人である鏡哉は、ただ諦めて流されるしかない。

「って、そうじゃなくて、貴方」

「うん?」

「あの、……ごめんなさい。僕のせいで、きっと大変だったんでしょう……?」

 酷いことをされたのではないか、と不安そうに見てくる鏡哉に、ロステアールが笑う。

「お前が謝ることは何もないのだ。私がしたくてしたことなのだから、全ての責任は私にある」

「……でも、僕が我が儘を言ったのは事実だよ。だから、……ごめんなさい。……多分、そんな簡単に許して貰えるようなものじゃ、なかったよね?」

 言外にどんな罰だったのかと尋ねてくる鏡哉に、ロステアールは困った顔をして視線を逸らした。言いたくない、というような態度だ。ここで追及の手を緩めれば、きっと彼はこのままこの件をうやむやにしてしまうだろう。

「教えて、貴方」

「……わざわざ話すような内容では、」

「言って」

 珍しく強い言葉で要求する鏡哉に、譲る気はない。だがそれでも、ロステアールはまだ言い淀む様子を見せた。そんな彼に痺れを切らした鏡哉がもう一度せがもうとしたとき、傍で黙って見ていたフラメスが口を開いた。

「繰り返す生と死。破壊と再生」

「母上!」

 思わずと言った風にロステアールが叫んだが、そんな彼を視線だけで黙らせたフラメスが、歌うような声音で言葉を続ける。

「一瞬たりとも止むことのない痛苦に、意思までもを侵食する汚泥のような呪い。死の際に立った瞬間に時は戻り、そしてまたそれを繰り返す。明示された期限はなく、いつになるかも判らない許しを得るそのときまで、ただ耐えることだけしかできない。……鏡哉くんでも想像できるように噛み砕いて言うと、そんな感じの罰かしらー」

 ゆったりとした声で伝えられたその内容に、鏡哉が目に見えて青褪めてロステアールを見上げる。一方のロステアールは、鏡哉の視線を受けてばつが悪そうに目を逸らした。

「あ、貴方!」

「いや、そう心配することはないのだ。確かに罰の内容はそんなところで、期限も明示されてはいなかったが、思っていた以上に早く終わったのもまた事実で、」

「あらー、よく言うわねー。人の子として生きてきた貴方に、リエンコルムの換算で万の年を軽く超える時間は、そんなに短いものではないと思うのだけれど」

「母上!」

 ほとんど悲鳴のような声で、ロステアールが母を呼ぶ。だが母は、素知らぬ顔でそっぽを向いた。

「ああもう、どうしてそうも鏡哉を不安にさせるようなことを言うのですか!」

「言ったでしょう。夫婦間での隠し事は良くないわー」

 正義は自分にあると言わんばかりの彼女に、ロステアールは何かを言おうとして、しかし諦めたように溜息を吐いてから、鏡哉へと視線を戻した。

「あのな、鏡哉。本当に、お前が気に病むことは何もないのだ。最終的にこの身は元の通りに再生されているし、魂の傷もない。今の私は、誓ってどこも損傷していないのだ」

「……でも、僕のせいで、貴方が、」

 言いながら、鏡哉の目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。

「ああこら、なにも泣くことはないではないか」

 慌てたように言って鏡哉を抱き寄せたロステアールが、黒紫の髪を撫でる。それから彼は、咎めるように母親を睨んだ。

「いくら母上でも、やって良いことと悪いことがあります。……いい加減にしないと怒りますよ」

 そう言ったロステアールの声に、鏡哉が少しだけぴくりと肩を震わせる。鏡哉はロステアールという男が怒ったところを見たことがないが、今の声は、割と本気で怒っているような色が感じられた。そして、普段温厚な彼が僅かでもこうして怒りを滲ませる様は、少しだけ怖いと思った。実際、例えばグランデル王国の王だった頃にこんな一面を見せたことがあったのだとしたら、そのときは場の気温が数度は下がったのではないだろうか。

 だが、それだけの圧を向けられた側であるフラメスは、面白そうな顔をしてころころと笑ってみせた。

「駄目よー。貴方が凄んだところで、全然怖くないわ。だって、私の方が遥かに強いもの」

 その言葉に、ロステアールはますます眉根を寄せたあとで、盛大な溜息をついた。

 そんな彼の様子を見て、さすがに可哀相なことをしたと思ったのか、フラメスが鏡哉に向かって口を開く。

「まあでも、この子の言う通り、今はもうぴんぴんしているし、与えられた罰が終わった以上は、これ以上のお咎めを受けることもないわ。だから安心してね」

 優しい声で紡がれたその言葉を受けて、鏡哉の心がようやく落ち着きを取り戻す。

 自分のせいでロステアールが想像を絶するような罰を受けたということは未だに呑み込みきれないが、ここでこれ以上泣いて困らせるのも、本意ではないのだ。

「……取り乱して、ごめんなさい」

 小さくそう謝れば、ロステアールが優しく頭を撫でてくる。

「いや、私こそ、悲しい思いをさせてしまってすまない」

「ううん。……えっと、でも、あの、……万年を超える、って、言ってたよね?」

 フラメスの言葉を思い返しながら鏡哉がそう言えば、ロステアールは頷いて返した。

「ああ。私も正確に数えていた訳ではないが、まあそのくらいの時は流れたようだな」

「…………ぼ、僕、そんなに長い間、眠ってたの……?」

「そういうことになるな」

 ロステアールはなんでもないことのように肯定したが、鏡哉の方は呆然として、なんだってそんなに長い間寝ていたんだ、と内心で呟いた。すると、そんな鏡哉の疑問を察したらしいフラメスが口を開いた。

「ほら、この子ってとても中途半端な存在でしょう? だから、この子の力だけじゃ貴方を上手に眷属化できなかったみたいで、そのせいで長いこと貴方を起こすことができなかったのよねー」

「け、眷属……?」

 首を傾げた鏡哉に、フラメスが、あら、と言った。

「言っていなかった? 鏡哉くんは今、ロステアールの眷属なのよ」

 初耳である。

 呆気に取られる鏡哉に、フラメスが言葉を続ける。

「いくら神の御手エインストラと言っても、鏡哉くんはほとんど人間のようなものだし、そんな存在を勝手に神の眷属化してこの世界に連れ込んだものだから、それはまあ怒られたのよねぇ。まあ眷属にでもしないとこの世界に持ち込むことはできないから、多分本能的にそうしてしまっただけなんでしょうけど。その上オマケと言わんばかりにもう一つ余計なものまで拾ってきたから、もうソルオール様がカンカンで。……そう言えば、てっきり更に倍くらいは懲罰が続くものだと思っていたのだけれど、よくこんなに早く許して貰えたわねー」

 そう言って首を傾げたフラメスに、ロステアールが、ああそれは、と言う。

「月神、シルファヴール殿が、鏡哉が目覚めたようだしそれくらいにしてやれと口添えくださったのです」

「ああ、なるほど。シルファヴール様はお優しいものねぇ」

 良かったわね、と笑うフラメスに、ロステアールが微笑みを返しながら頷く。

 和やかな雰囲気を醸しつつ親子間で緩い会話が行われるなか、一方の鏡哉はそれどころではなかった。

「あ、貴方、眷属って、どういうこと!?」

「うん? 言葉のままだが?」

「それじゃ判らないよ!」

 少しだけ大きな声で言った鏡哉に、フラメスが楽しそうな笑い声をあげる。

「ふふふ、本当に二人は仲良しさんねぇ」

 そう言ったフラメスが、そのまま鏡哉を見た。

「本当に、言葉のままなのよ。この世界に足を踏み入れられるのは、私たちの種族に等しい力を持つものか、それに連なるものだけなの。だからロステアールも、貴方をここに連れて来るために、自分の眷属に召し上げようとしたのね。でも、本来それは純血の総攬する者エルムトゥリアやそれに等しい力を持つものにしかできない芸当で、しかもそれだって正当な手順を踏んで成すものなの。それなのにこの子ってば、上手くいかないからって、色々な法則を無視して力技で貴方を眷属に押し上げてしまったのよー。だから、当然上手くいくはずもなくて、ここに来たときの鏡哉くんってば、もうしっちゃかめっちゃかな有様でね。それを調整して安定させるのに、随分と長い時間がかかってしまったのだわー」

 それはもう大変だったのよー、とのんびり言うフラメスに、ロステアールが申し訳なさそうな顔をした。

「本当に、母上とシルファヴール殿には多大なご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ないと思っています」

「あらー、私は良いのよ。可愛い息子のお願いだもの、可能な限り、なんだって叶えてあげるわー」

 ふふ、と笑うフラメスに、しかし鏡哉は笑っている場合ではなかった。もう今更なので何も言えないが、自分の我が儘は思っていた以上に色んなものを巻き込み、あちらこちらに迷惑を振りまいてしまったようである。

 そのことに鏡哉が身の縮まるような思いをしていると、それに気づいたらしいロステアールが、ああそうだ、と声を上げた。

「ドタバタしていて、すっかり忘れていた。鏡哉、お前に贈り物があるのだ」

 そう言ったロステアールが、両の掌を上に向け、鏡哉に向かって差し出す。一体なんだろうか、と思った鏡哉がその手を見つめていると、不意に大きな掌から炎がぶわりと噴き上がり、そして中から何かがひょっこりと顔を出した。

 それを見た鏡哉が、目を見開く。

「っ、」

 きょとりとした顔でこちらを見つめる丸い目に、鮮やかな炎色の鱗。丸い角のような炎がぴょこっと頭から生えている、愛らしい小さな身体。

 忘れる筈がない。見間違うようなことだってしない。いつでも鏡哉の傍にいてくれて、最後まで鏡哉のことを守ってくれた、可愛くて強くて頼りになる、鏡哉の大切な友達。

「ティっ、ティア、くんっ……!」

 鏡哉の瞳を覆う涙の膜が盛り上がり、端からぽたりと零れて落ちる。

 震えた声で紡がれたその名に、ロステアールの掌の上のトカゲがぱちぱちと瞬きをしてから、掌を蹴ってぴょーんと宙に躍り出た。そしてそのまま、べたっと鏡哉の顔に張り付く。

「んぷっ、ティ、ティアくん?」

 まるで涙を拭おうとするように鏡哉の目じりをぺちぺちと軽く叩くトカゲに、鏡哉の表情が少しだけ緩み、そして更なる涙が溢れてきた。

「っ、ご、ごめんね、ごめんね、ティアくん、」

 ぼろぼろと泣きながら、鏡哉が謝罪を口にする。

「僕なんかを守ったせいで、ティアくん、っ、本当に、ごめんなさい……!」

 肩を震わせて言葉を零す鏡哉に、トカゲは彼の顔に張り付いたまま、おろおろと慌てたようにロステアールを見た。そんなトカゲに、ロステアールは何も言わず、しかし穏やかな微笑みを浮かべて頷く。それを見て、トカゲが再び鏡哉の目じりをぺちんと叩いた。

『きょうや! きょうや! なかないで! ぼくはへいきだよ!』

「……え?」

 突然聞こえた声に、鏡哉はぱちぱちと瞬きをした。そしてたっぷりと沈黙したあとで、顔に張り付いているトカゲにそろそろと手を伸ばす。そっと背中を撫でて手に移るよう促せば、意図を汲んだトカゲは器用に上半身を捻り、鏡哉の手に前脚を伸ばしてしがみつくように抱きついてきた。それを落とさないように慎重に両手で包みつつ、自分の胸の高さまで運んで、そして、鏡哉はまじまじとトカゲを見た。

「……もしかして、今の、ティアくんなの?」

 半信半疑の問いに、しかしトカゲは、嬉しそうにこくこくと頷いた。

『そうだよ! ぼくだよ! ようやくおはなしできたね、きょうや!』

 弾むようなその声に、鏡哉は目を見開いてから、ロステアールを見上げた。あまりの衝撃で、涙は引っ込んでしまった。

「あ、貴方、ティ、ティアくんが、生きてて、それで、しゃべ、しゃべっ……!」

 口をぱくぱくさせる鏡哉に、ロステアールが小さく声を漏らして笑う。

「私の眷属になったいうことは、すなわち炎に連なる存在になったということ。ならば、炎にまつわる生き物の言葉を理解できるのは、至極当然のことだ」

「え、えっと、つまり、ティアくんが人の言葉を話せるようになったんじゃなくて、僕がティアくんの言葉を判るようになったって、こと……?」

「ああ」

 優しい目をしたロステアールが頷いて、それを見てから、鏡哉は改めてトカゲを見つめた。

「……ティアくん」

 ひっこんだはずの涙が、またもじわりと滲んでくる。そんな鏡哉を見て、トカゲは慌てたように手の上でこてこてと首を傾げたあとで、ころりんと腹を見せて転がった。

『なでていいよ! きょうや!』

 まるで撫でたら元気が出るだろうと言うかのように、腹を見せたトケガが尻尾をぱたぱたさせて促す。それを見た鏡哉は、限界だった。

「っ、ティアくん~~っ!」

 ぼたぼたと涙を零しながら、トカゲを胸に抱き寄せる。結局泣き出してしまった鏡哉に、トカゲがわたわたと暴れたが、それでも鏡哉は優しく抱く手を緩めることはしなかった。

「よ、よかった、よかった……! ぶじ、じゃないけど、でも、よかった……!」

 涙の合間に零れる声に、トカゲはじたばたしながら鏡哉の手を叩いた。

『ちがうよ! ぶじだよ! いまはもうへいきなんだよ! わかがぼくのたましいをひろって、しんじゅうにしてくれたの! だから、ぼくもっともっとつよくなったんだよ! きょうやをまもるんだよ!』

「っ、ひっく、しんじゅう……?」

 耳馴染みのない単語に訊き返せば、トカゲが、そうだよしんじゅうだよ、と返してくれたが、やはり鏡哉にはそれが何なのか判らない。

 一体何なんだろうかと思った鏡哉が、ひくりひくりとしゃくり上げながら問うようにロステアールを見る。するとロステアールが手を伸ばしてきて、指先でトカゲの頭を撫でた。

「神獣。神の獣だ。この世界に生息する生き物のうち、総攬する者エルムトゥリアの配下に属するものを、総じてそう呼ぶ」

『そうなの! わかがね、しんじゃったぼくのたましいをひろって、このせかいにつれてきてくれたの!』

「幻獣のままここに連れてくることはできないから、神獣として召し上げる必要があったのだ」

 ロステアールの言葉に、フラメスもうんうんと頷く。

「鏡哉くんを眷属にしたってだけで大罪なのに、それだけじゃあ飽き足らず、ティアちゃんまで連れ込んでしまったんだから、困ったものよねぇ。そんなんだから、余計に罪が重くなったのよー?」

「母上」

 嗜めるように母を呼んだロステアールに、しかしフラメスはにこにこと微笑んで返す。何か間違ったことを言ったかしら、と言わんばかりのその表情に、ロステアールは押し黙った。

「…………僕の、ため?」

 トカゲをそっと撫でながら、鏡哉がぽつりと言う。それに対し、ロステアールは何かを言おうとして口を開き掛けたが、じっと見上げてくる鏡哉の視線を受けて、暫しの沈黙ののち、黙って小さく頷いた。

「お前は、ティアのことを大層気に入っていただろう?」

 それがああして死んでしまったままでは、気に病むと思ったのだ、と続いた言葉に、鏡哉は彼にしては珍しいくらいに少しだけ険しい顔をしてロステアールを見た。だがすぐにその表情は崩れ、次いでそれは、怒ったような安心したような、複雑な表情へと移ろう。

 ロステアールが自分のために不利益を被るのは好ましくない。好ましくないというか、心の底から嫌だと思う。だが、それでも、鏡哉は喜んでしまった。自分の身を犠牲にトカゲを救ってくれた彼に、心からの感謝の気持ちを抱いてしまった。

 そんな、どこまでも自分勝手な自分のことが、心底嫌いだ、と鏡哉は思う。それ故の表情だ。だが、ロステアールはそんな鏡哉の髪を撫で、トカゲは自分を包む鏡哉の掌に頭を擦り付ける。

「お前が気にすることは何もないと言っているだろう? 私がしたくて、勝手にしたことなのだ。それでお前が喜んでくれるのであれば、これほど嬉しいことはない。それに、別にお前のためだけにしたことではない。確かにお前は私の眷属にはなったが、だからといって炎が操れるようになっただとか、そういうことはないのでな。これから先、私が不在のときもお前を守る用心棒が必要だったのだ」

『そうだよきょうや! ぼく、またきょうやをまもるやくめをもらったの! まかせてね!』

 むんっと胸を張ったトカゲに、鏡哉もようやく、その顔に笑みを滲ませる。

 やっぱり未だに罪悪感は薄れず、ロステアールの言葉に納得をした訳でもないが、それでも、鏡哉はこういうときに言うべき言葉を知っている。そしてそれは、鏡哉の心からの気持ちでもあった。

「……ありがとう、貴方、ティアくん」

 その言葉に、トカゲが嬉しそうに尻尾をぱたぱたさせる。ロステアールも微笑んでもう一度鏡哉の頭を撫で、それから、しかし、と声を零した。

「私に会ったときよりもティアに会ったときの方が喜んでいたように思えるのは、なんとも悔しいと言うべきか、悲しいと言うべきか」

「え、あ、い、いや、だって、貴方はきっと大丈夫だって思ってて、ティアくんは、その、こうして会えるなんて、思ってなかったから……」

 もごもごと言う鏡哉に、ロステアールがトカゲを見た。

「鏡哉はお前のことが大好きなようだが、浮気は許さんからな?」

「貴方!」

 声が笑っているから冗談だということは判るが、ちょっと揶揄いすぎである。そう思った鏡哉が咎めるようにロステアールを呼べば、彼は楽しそうに笑って返した。そんな二人のやり取りを見て、フラメスも朗らかな笑みを浮かべている。

 多分、揶揄うようなロステアールの言葉たちは全部わざとで、沈み込んだ鏡哉の気分を浮上させるためのものなのだ。今の鏡哉には、なんとなくそれが判る。

(……ああもう、本当にこの人は、どこまでも僕を甘やかすんだから……)

 気を抜いたらその優しさに埋もれて、どんどん駄目になってしまいそうだ、と鏡哉は胸の内で呟いた。そうならないためにも、できるだけ自分は自分のことを厳しく律しようと決意をする。

 そんな鏡哉の様子に何を思ったのか、トカゲが彼の手にすりすりと頭を擦り付けてきた。その仕草に微笑みつつ、鏡哉はふと浮かんだことを何の気なしに口に滑らせる。

「そういえばティアくんって、確か千年以上生きてた凄い生き物なのに、喋り方はそんな可愛い感じなんだね」

 そこがまた愛らしいところではあるけれど、と思いつつ、ふふふ、と笑った鏡哉に、トカゲがぱちりぱちりと瞬きをした。そしてそのまま、すっと目を逸らす。

 てっきり何かしらの言葉が返ってくるものだと思っていた鏡哉は、初めて見るトカゲの反応に少しだけ驚いてしまった。思わずロステアールを見れば、彼はなんだか笑いを堪えるような変な顔をしている。一体どうしたんだろうか、と思った鏡哉がその疑問をそのまま声にしようとしたところで、それを遮るようにフラメスが声を上げた。

「ああ、そういえばすっかり忘れていたわー。この部屋の話をしようとしていたんだったかしらー」

 なんだか少し棒読みのように聞こえる声だな、と思った鏡哉だったが、それはあまり本質的な問題ではないし、多分気のせいだろうということで片づけた。それよりも、今はフラメスの話の内容の方が気になる。ロステアールやトカゲの登場で鏡哉自身も頭から吹っ飛んでいたが、何故自分の自室のような場所がここにあるのかは、結構大きな疑問だったのだ。

「と言っても、別に大した話ではなくてね。ロステアールが、鏡哉くんが落ち着けるように、元の鏡哉くんの住居と同じものをつくって欲しいってお願いしてきたから、つくっただけなの」

「つ、つくった……」

 まさか大工に頼んで建てて貰ったのだろうか。というかこの世界にも大工がいるのだろうか。などという疑問を鏡哉が頭に浮かべていると、にこっと笑ったフラメスが、ぱちんと軽く手を叩いた。

 すると、まるで景色が塗り替わるようにして、見ている光景がさっと一変した。

 質素で控えめな大きさだったはずの部屋が、グランデル王国の王専用の寝室のような豪奢で広い空間に変わり、気づけば鏡哉が身を預けているベッドまでもが、天蓋つきの高価なものになっている。

 驚いた鏡哉が思わず身じろぐと、かつてロステアールの寝室で味わった極上の寝具に似た感触がして、その居心地の悪さに思わず尻を浮かしそうになってしまった。

 何が起こったのか、という顔で鏡哉がフラメスの方を見れば、彼女の顔を直視しなくとも、彼女が楽しそうにしている様子が窺えた。

「ふふふ、ロステアールはあんまり驚いてくれなかったから、鏡哉くんの反応は新鮮で楽しいわー」

「え、こ、これ、どうやったんですか……?」

「どう、と訊かれると困るのだけれど、そうねぇ……、こう、えーいって」

 フラメスが両手を大きく上げてそう言ったが、鏡哉は何も判らなかった。だが、恐らく神様だからできる芸当なのだろう。多分。

 そう結論づけた鏡哉が、ロステアールを見上げる。

「……貴方もできるの?」

 ロステアールも神の一員なのだから、きっとできるのだろう、と思っての問いだったが、それに対してロステアールは首を横に振った。

「いいや、私にはこういう力はない」

「え、そう、なの?」

 少しだけ驚いた顔をした鏡哉に、フラメスがそうなのよーと声を上げる。

「ほら、この子、半分人間でしょう? だから、総攬する者エルムトゥリアの一員とは言っても、この世界ではできることがあまりないのよねー」

 フラメスが言ったその言葉に引っ掛かりを覚えた鏡哉が、少しだけ迷ったあとで、そっとそれを口にする。

「この世界では、ですか?」

 鏡哉の問いに、フラメスがにっこりと笑った。

「ええ、この世界では。この下の次元での話をするのであれば、ちょっとこの子は凄いわよ? なにせ、ただの半神半人の生き物として昇華するはずだったのが、人の部分に別の神様の要素が入り込んでしまったから」

「…………ええと……?」

「あら、判りにくかったかしら? そうねぇ、ええと、……そうそう! 貴方たちは概念の神と呼んでいるんだったかしら? 要は、ロステアールの人間の部分は概念の神になってしまっているのよ」

「は、はあ」

 まるで理解が追い付かない鏡哉に、見かねたロステアールが声を上げた。

「あの帝国での一件を受けて、円卓の国々、特にグランデルでは、私を炎の神として崇めるような風潮が高まってな。その影響で、私の人の領域が、概念上の神として昇華してしまったのだ。無論、総攬する者エルムトゥリアには遠く及ばない、飽くまでも人の願いの体現でしかないのだが」

 それでもただの人よりはよほど力を持つ、と言ったロステアールに、鏡哉はようやく、ああそういうことかと理解した。そして、グランデル王国の面々を思い出し、納得する。

(この人が生きていた頃だってあれだったんだから、そりゃああんなことがあったら、信仰でこの人を神様に押し上げるくらいはできそう……)

 鏡哉が内心で一人頷いていると、フラメスがやれやれといった風に溜息を吐いた。

「半神半人ってだけで前代未聞なのに、それに加えて人の部分が概念上の神様になってしまったせいで、この子の扱いをどうすべきか、それはそれは揉めたのよー」

 困ったものよねぇ、と言うフラメスに、ロステアールが口を開く。

「そうは言いますが、元を正せば私を産んだ母上の責任なのでは?」

「それはまあ、そうなんだけどー。でも私もちゃんと罰は受けたしー。罪を償ったんだから、文句を言う権利はあるでしょう?」

 けろっとした顔で言うフラメスに、ロステアールは曖昧な微笑みを浮かべた。

「それでは、私はここに来なかった方が良かったですか?」

「まあ、意地悪ね。私が貴方を心待ちにしていたのは知っているでしょう? それこそ、貴方のことをさっさと殺してくれた鏡哉くんに、とっても感謝しているくらいなんだから」

 思わぬ流れで名前が出された鏡哉は、彼女の発言に困惑した。

「あ、あの……?」

 確かに、ロステアールの魂を発露させ、結果的に彼の死を早めたのは鏡哉だ。だから、それを責められるのならば、鏡哉は言い訳できないし、するつもりもない。が、感謝されるとはどういうことだ。

「その、大事な息子さんにそういうことをしてしまったんですから、普通は怒るのでは……?」

 至極真っ当なことを言ったつもりの鏡哉に、しかしフラメスはきょとんとした顔をした。

「怒る? どうして?」

「いえ、えっと、……大切な人の死は、あんまり喜ばしいことではないかと……」

 なんだか自分の方がおかしいと言われているような気がして、最後の方はどんどん声が小さくなってしまった。だが、フラメスは言われた内容を理解したようで、ああそういうことね、と言った。

「んー、確かに、人の感覚ではそうなのかも。でも、本当に感謝しているの。だって、私はこの子に早く死んで貰いたかったんだもの」

「…………はい?」

 思わず訊き返した鏡哉に、フラメスが笑う。

「死ねば、この子は私のもとへ来るでしょう? だから、早く死んで貰いたかったのよ。でも、同時にこの子には人としての生をまっとうして欲しいとも思っていたわ。かわいいかわいい息子ですもの。できるだけ幸せになってくれる方が良いに決まっているわ」

 言いながら、フラメスは鏡哉がいるベッドへと歩み寄り、彼の頬に手を伸ばした。

「早く死んで欲しいけれど、人生に満足はして貰いたい。その難しい望みを叶えてくれたのが、貴方なのよ」

 フラメスの手が柔らかく鏡哉の頬を撫で、そして彼女は、咲きほころぶような笑みを浮かべた。

「だから、ロステアールを殺してくれて、本当にありがとう」

 思わず視界に入れてしまったその笑みに、鏡哉の表情が見惚れるように崩れていく。思考までもを奪う天上の女神の微笑みに、しかし鏡哉は頭の片隅で、いややっぱりその発言はおかしい、とだけ思った。

 そんな鏡哉の手を、トカゲがぺちぺちと叩いた。

『きょうや? きょうや?』

「……え、あ、ティ、ティアくん……?」

『どうしたの? へーき?』

「あ……、うん、大丈夫だよ。ちょっと、思わず見とれちゃって……」

 こてんと首を傾げたトカゲの頭を撫でつつそう言ってから、鏡哉はトカゲを安心させるように微笑んだ。

 一方、鏡哉から手を離したフラメスは、今度はそれを自分の両頬に当てて、ああいけない、と言った。

「話が逸れてしまったわ。ええと、そう、ロステアールは、総攬する者エルムトゥリアと人間と概念の神様の融合体みたいなものなのね。残念なことに、この世界は貴方たちが元いた世界よりも上位の世界だから、ここでは概念の神としての力は発揮できないのだけれど、元の世界と同等以下の次元でなら、十分にその力を使うことができるの。これ、私たちにとってはとっても素敵なことなのよね」

「素敵、ですか……?」

 鏡哉の声に、フラメスが頷く。

「ロステアールはね、リエンコルムの人たちが考え、この子に夢見る総攬する者エルムトゥリアの力を、総攬する者エルムトゥリアとしてではなく、基幹次元リエンコルム由来の概念の力として発揮できるの。……つまり、総攬する者エルムトゥリアの炎神フラメスに近しい力を、あらゆる次元にある平衡の天秤を傾けることなく使える、ってことなのよね。勿論、飽くまでもリエンコルムの人々が想像する総攬する者エルムトゥリアの力であって、真の意味での総攬する者エルムトゥリアの力ではないから、大幅に劣化はするだろうけれど、それでも、これってとっても凄いことなのよ」

 天秤の話は、鏡哉もうっすら聞いた事があったので、ぼんやりとは覚えている。ようは、デメリットなしで疑似的な総攬する者エルムトゥリアの力が発揮できる、ということだろうか。

 いまいち理解できていない鏡哉に気づいたのか、ロステアールが鏡哉の頭をぽんと撫でた。

「天秤については、植物に対する害虫と、それを駆除する薬との関係を考えると判りやすい。害虫を放っておけば植物は枯れてしまうから、総攬する者エルムトゥリアは害虫を駆除する薬を散布する訳だが、だからといって薬を使いすぎると、やはり植物は枯れてしまう。故に、そのあたりのバランスには十分留意する必要があるのだが、私の場合は、植物にほとんど悪影響を与えずに薬を散布できると、まあそんなところだ」

「な、なるほど……?」

「と言っても、それもリエンコルムでロステアールが神として語り継がれている間だけのことなんだけれど。概念の神様の要素は、人々の願いや想いがなくなれば消えてしまうから」

 フラメスはそう言ったが、鏡哉はなんとなく、あの世界というか主に赤の国でロステアールへの信仰が消えるなんてことは、有り得ないんじゃないかなぁ、と思った。

「……この場合の害虫っていうのは、あの、……ウロ、みたいなののことだよね?」

 基幹次元を保持するのが総攬する者エルムトゥリアの役目だと言っていたし、ああいう輩から次元を守るのが仕事なのだろうと、鏡哉はそう思ったのだが、フラメスは鏡哉の言葉に笑い声を上げた。

「あらー、違うわよー。あの坊や、虚従えし嬉戯ヴァロウネインは、傍観する者ヴィデルゼーレだもの。名前の通り、ただの傍観者。益にも害にもならない存在だわ」

「え、で、でも、僕がいた世界は、ウロのせいで……」

「んー、虚従えし嬉戯ヴァロウネインはちょっとだけ特殊というか。太陽神ソルオール様にご執心で、あの人の気を引きたくて悪戯ばっかりしているのよねー。この前リエンコルムで悪さをしていたのも、その一環。ソルオール様に長く構って貰うために、天秤の釣り合いを考えてできるだけ騒動を引き延ばそうとするところは厄介だけど、別に脅威ではないのよ」

 ただ面倒なだけ、と言ったフラメスに、鏡哉が呆気に取られる。

(あ、あんなに王様たちを苦しめて、散々追い詰めて、戦争にまでなったのに、ただの悪戯で、脅威じゃない……)

 思わずロステアールを見れば、彼は少しだけ困った顔をしたものの、頷いて返してきた。どうやら、フラメスの言っていることは本当らしい。

「……それじゃあ、あの、……害虫って言うのは……?」

「それは、」

 何かを言いかけたフラメスが、そこで唐突に言葉を切って、耳に手を当てる。そして彼女は少しだけ顔を顰めて暫くの間黙ってから、小さな溜息を吐いた。

「ごめんなさいね、ちょっとこれ以上余計なお話をしている時間はないみたい。という訳で、ここからは必要な話だけさせて貰うわ。途中で質問があったら、遠慮なく訊いてね。……一応、もう少し休ませてあげてってお願いはしてみたんだけど、案の定却下されてしまって」

 ソルオール様は融通が利かないのよねぇ、と言って鏡哉に向かってすまなそうな表情を浮かべた彼女は、次いでロステアールへと顔を向けた。

「ロステアール、懲罰が終わったばかりの貴方と目覚めたばかりの鏡哉くんにはちょっと酷だけれど、お仕事よ」

「仕事を担うことを条件に存在を許された身です。喜んでお引き受けしましょう。……鏡哉には無理をさせてしまうかもしれないが、付き合ってくれ」

 そう言って頭を撫でてきたロステアールに、鏡哉は困惑の表情で首を傾げた。

「お仕事って、どういうこと? それに、僕もついて行って良いの?」

 鏡哉のその疑問には、フラメスが答えてくれた。

「初めてのお仕事だから、そんなに難しいものではないわ。ちょっと、とある観察対象と接触して、直接様子を見てきて欲しいだけ。私たちが行くよりも、ロステアールが行った方が干渉の度合いが圧倒的に低いから、うってつけなのよー。多分これからもこういうお遣いが増えると思うから、取り敢えず沢山経験を積んで慣れていってね」

 なんだかよく判らないが、どうやら鏡哉の知らないうちに、雇用契約が結ばれていたらしい。

 まあ確かに、何もしないで居候のようなことをしているよりは、何がしかの役目を与えられている方が、鏡哉の精神衛生上は遥かにマシだ。だが鏡哉は、自分にできることがあるとは思えなかった。

「あの、でも、……僕、役に立つんでしょうか……?」

 何をするのかはいまいち理解しきれていないが、自分がついて行っても足手纏いになるだけではないだろうか。そんな思いを孕んでの問いは、フラメスの軽やかな笑い声に一蹴された。

「役に立つも立たないも、貴方がいないとロステアールは世界を移動できないわ」

「……え?」

「ほら、この子、所詮半分は人間だから、ここと下位の次元とを行き来できるほどの力はないの。それに加えて、ちょっと不器用みたいで、下位の次元同士の移動もあんまり上手じゃないのよねぇ」

 言われ、鏡哉は少しだけ驚いた。ロステアールのような人にも不得意なことがあるのだな、と思ったのだ。だが、思い返してみれば、ロステアールは高威力の派手な魔法は得意中の得意だったが、細かな調整を必要とする繊細な魔法は苦手だったような気がする。

(次元移動って色々と細かい設定が必要そうだし、だからこの人はあんまり得意じゃないのかな……)

 なんとなくそんなことを思いつつ、鏡哉はロステアールを見上げて口を開いた。

「……僕がいたら、移動できるの?」

 その問いに、ロステアールが頷く。

「お前の神の御手エインストラとしての力を利用して、次元を越える。私たちは互いに半端者だからな。二人そろって初めて、まともな次元移動ができるのだ」

 つまり、鏡哉一人では上手にエインストラとしての力を扱えないと、そういうことなのだろう。実際、鏡哉は未だに自分の力の使い方を知らない。あのときロステアールの下へ行けたのは、純血のエインストラである老婆の導きに加えて、とにかく必死だったからだろう。

「えっと、あの、……嫌、とかじゃないんだけど、……連れて行くなら、他のエインストラの方が良いんじゃないかな……?」

 半端者である自分よりも、純血のエインストラの方がよっぽど役に立つのでは、と思っての発言だったのだが、その問いにはフラメスが首を横に振った。

「駄目よー。神の御手エインストラは確かにあらゆる次元を渡れる生き物だけど、この世界にだけは来ることができないの。ここは、全ての世界の高位に存在する、いわば真の基幹次元のような場所だから、この世界に帰属している生き物で、かつ次元渡りの力を持っている生物じゃないと、踏み込めないようにできているのよ」

「え、でも、それは僕も同じなんじゃ……」

 鏡哉の言葉に、フラメスが小さく笑ってウィンクをした。

「いいえ、鏡哉くんは特別。だって鏡哉くんは、ロステアールの眷属になったでしょう? この世界に籍があるロステアールの眷属ということは、つまり貴方もこの世界に帰属しているということなの。そこに元々の神の御手エインストラとしての能力が加わる訳だから、ロステアールの補佐としてこれ以上の存在はないわ。……まあ、そもそもこの世界に帰属していないものを後付けで帰属させるなんていう行為は禁忌中の禁忌だから、誰もしようとしないのだけれど」

 やってしまったものはやってしまったのだから仕方がないし、それがこうして役に立ったんだから、結果オーライってことでー、と緩く言ったフラメスに、鏡哉はそんな危ない橋は渡らないで欲しかったと思ったが、それを口にすることはせず、曖昧な笑みを返しておいた。

「という訳で、貴方は唯一、正真正銘全ての隔たりを越えることができる神の御手エインストラなのよ」

「は、はあ……。……一応伺いたいんですが、……ここにいる他の生き物でも、無理なんですよね?」

 確認するような問いに、フラメスはにっこりと微笑んだ。

総攬する者エルムトゥリアに限らず、私と同等以上の力や権利を持つ生き物なら可能よ。けど、それだと天秤の平衡に強く関わってきてしまうから、やっぱり補佐には向いていないわね」

 つまり、本当に鏡哉が最適な要員だということなのだろう。あまり信じられることではないが、フラメスがわざわざ嘘を言う理由もない。

「……あの、でも、僕、どうやって次元を渡れば良いのか、よく判らなくて……」

 自信なさげな声に、フラメスがロステアールを見て、その視線を受けた彼は、彼女に向かって頷いてから、鏡哉を見た。

「次元移動の制御は、基本的に私が行う。だから、その力を借して貰う以外に鏡哉にやって貰うことは、ひとつだけだ」

「ひとつ?」

「移動先の次元の名前を、強く念じてくれ。名前とは、個を強く個たらしめるもの。だからこそ、すべての次元には名前が付与されている。お前がそれを念じてさえくれれば、到達すべき場所は自ずと見えるのだ。あとは私が、そのしるべの糸を手繰り寄せて、道を繋ごう」

 名前、と呟いた鏡哉に、フラメスが頷く。

「今回行って貰うのは、末端次元“蓬嶺郷ほうれいきょう”。詳しいことは向こうに行ってから教えるから、まずは現地に行ってちょうだいね」

 フラメスの言葉に反射的に頷いた鏡哉は、しかしそこではっとして口を開いた。

「あの、行きのことは判ったんですが、その、……帰りのために、この世界の名前を教えていただいても良いですか?」

 次元の名前を浮かべることでそこに至るというのであれば、行った先から帰って来るときには、ここの名前を思い浮かべる必要があるはずだ。鏡哉はそう思って尋ねたのだが、その問いを受けたフラメスは、思わずといったふうに笑い声を上げた。

「ふふふ。あ、ごめんなさいね。初めてされる質問だったから、ちょっと面白くなってしまって。あのね、この世界に名前はないの。だって、必要ないのだもの」

「え、そ、そうなんですか?」

 驚く鏡哉に、フラメスが頷く。

「この階層は、ありとあらゆる次元の上に存在する最高位の階層で、そしてこの階層には、この世界しかないの」

「え、ええと……」

 よく判らないという顔をした鏡哉に、ロステアールが口を開いた。

「この次元の上に存在する次元はなく、そしてこの次元に並ぶ次元も存在しない、ということだ。頂点に存在する、唯一無二の世界。故に、名前はない。名とは、区別をするためにつけるものだからな」

 そう言われて、鏡哉はようやく理解した。つまり、いわば最高階層であるこの次元軸に存在するのはこの次元だけで、この世界と同等以上の他の次元というものがない以上、わざわざこの世界に名前をつけて区別する必要もない、と、そういう話なのだろう。

 自分たちが存在しているこの世界と、その下に漂う数多の次元。前者は唯一であるがために、何かと混同するようなことはないが、後者はそうではないから、管理し統括するために、識別用の名を与えられているのだ。

「え、でも、じゃあ、どうやって戻ってくるの……?」

 首を傾げた鏡哉に、フラメスが笑う。

「簡単な話よ。ただ、帰りたいと望めば良いの。貴方の居場所は、ここなんだから」

 そう言って鏡哉の頭をひと撫でしてから、フラメスはまた唐突に耳に手を当ててから、困った顔をして肩を竦めた。

「ああもう。無駄話をしていないで早くしろって催促されてしまったわー。少しでも休める時間を稼ぎたかったのだけれど、残念」

 あんまり力になれなくてごめんなさいね、と言ったフラメスに対し、鏡哉は慌てて首を横に振る。多分、必要事項だと言い訳をして会話を続けることで、出立の時間を引き延ばそうとしてくれていたのだろう。その心遣いだけで十分すぎるというか、神様にそこまで心を砕いて貰うと、寧ろ落ち着かない気持ちになってしまう、と鏡哉は思った。

「大体のことはロステアールが知っているから、あとは向こうでこの子から聞いてちょうだいね」

 そう言ってから、フラメスがロステアールに顔を向ける。

「ロステアール。貴方も大変だとは思うけれど、自分が役に立つと言うことを証明することが肝要よ。ソルオール様は厳しいから、使えないってなったら容赦なく切り捨てると思うの」

 まあそうなったときは、月神シルファヴール様が庇ってくれるとは思うけれど、と言葉は続いたが、鏡哉は思っていた以上にロステアールが置かれている状況が芳しくないことを知り、不安そうな顔で彼を見上げた。そんな鏡哉の視線を受け、しかしロステアールはいつものように笑う。

「そう不安そうな顔をするものではないぞ。なに、使える存在だということを証明し続ければ良いだけの話だ。母上の言う通り、利便性はあるのだろうから、難しいことではないさ。……ただ、それにお前まで巻き込んでしまうのは、あまり気が進まないが……」

 そう言ったロステアールが、困ったような顔をして鏡哉を見た。

「こうしてお前を連れてきてしまったが、結果、お前は私と共に様々な次元へ赴き、仕事をこなすことになってしまった。……お前は、本当にこれで良かったのか?」

 ほんの僅かな不安とも憂いとも取れるような色を宿した金の目が、鏡哉を見つめる。その瞳を直視しないように気を払いつつ、鏡哉はそっと笑った。

「良いんだよ。貴方と一緒にいられて、ティアくんも一緒で、僕、とても幸せだよ」

 掌のトカゲを撫でながら、鏡哉はそう言った。心からの言葉だった。

「…………本当に、僕だけこんなに幸せで、許されるのかなって思うくらい、幸せだよ」

 そっと目を伏せ、零す。

 あらゆるものを切り捨て、ただ一人を選んだ結果が、こんなに幸せだなんて。

 それは間違いなく罪であるのに、それでも鏡哉は、こうしてこれ以上ないほどの幸せを手に入れた。手に入れてしまった。それはとても嬉しいことで、同時にどうしようもなく後ろめたくなる。どうしても、見捨てた末に道連れにしてしまったあの子の姿が、脳裏を掠めてしまう。

 そんな鏡哉の様子に、ロステアールは数度瞬きをしてから、ベッドの中の身体に手を伸ばした。そしてそのまま、鏡哉をひょいっと抱き上げる。

「っ!? あ、貴方!?」

 驚いた声を上げた鏡哉を片腕で抱きながら、ロステアールが黒紫の頭をひと撫でした。

「これを言ったところで、お前の中でその罪が消えることはないのだろう。私の言葉だけでは、お前のそれを除いてやることはできないのだろう。……だが、それでもお前が、少しでもすくわれてくれるのであれば」

 そう言いおいたロステアールが、その金の瞳に優しい色を滲ませる。

「天ヶ谷ちようは、きちんと幸せになったよ」

 囁くような声に、鏡哉の目が見開かれる。そのまま鏡哉は、思わずといったふうにロステアールを直視した。だが、その目がいつものように蕩けることはない。ただただ、ロステアールを信じようとして、けれどどうしても信じきれないと言いたげな目が、それでも拭えない期待を滲ませて、ロステアールを見つめている。

 目を逸らすことなくその隻眼を見つめ返したロステアールは、柔らかく微笑んだ。

「嘘ではない。ソルオール殿の計らいで、天ヶ谷ちようは幼子に戻り、再びを歩んだ。そして、当時のヴェールゴール王の下で健やかに育ち、沢山の人に愛され、幸せな一生を送ったのだ」

「……っ、な、なん、で……?」

 鏡哉はあのとき死を望んだ。鏡哉の死は、ちようの死だ。肉体を共有している以上、ちようを含むすべての人格たちが道連れになったはずだ。なのに、どうして。

「降りかかった辛苦に見合うだけのものを与える、それが平等というものだ、というのが、ソルオール殿の考えでな。無論、干渉の都合上、直接的な幸福を与えることは難しいが、そうなれるようにという道筋を用意なさったのだろう。そしてお前のちようは、周囲に導かれ、自らその道を歩みきった」

 優しい声に、鏡哉の目に涙が滲んだ。震える手が伸ばされ、控えめな力でロステアールの服を握る。

「…………あの子が、………ちゃんと、幸せに……?」

 愛されて、愛を知って、そして誰かを愛して。鏡哉のように。鏡哉が貰ったように。沢山のものを得て、そして、幸福な生を歩んだと。

 信じられないという顔が、信じたいと言っている。だからロステアールは、微笑みを返した。

「信じて構わんよ」

 そのひとことに、これほどまでにすくわれる。なんて自分勝手なと、そう思うのに、それでもすくわれてしまう。

 ロステアールは鏡哉に嘘をつかない。けれど、それは今までそうだったというだけの話だ。彼は心を知り、己の意思を得た。だから、もしかするとこれは、鏡哉を思っての嘘なのかもしれない。少しでも鏡哉の心を軽くしようという、彼なりの気遣いなのかもしれない。

 それでも。それでも、だ。ロステアールの言葉はきっと、鏡哉にとって何よりも確かなものだ。だからこそ、鏡哉はそれに身を委ねてしまうのだ。

 そんな自分を自覚しながら、鏡哉はロステアールに言葉を返そうとした。彼の心配りを受け入れ、礼を述べようとした。だが、そんな鏡哉の口を、ロステアールの指先がそっと塞ぐ。

 そして彼は、悪戯っ子のような顔をした。

「その状態での礼は受け取れんな。……そうだな、いつかこっそり、直接見に行こうか」

 そうすればお前も、今度こそ信じる気になるだろう、と続いた言葉に、鏡哉は大きく目を見開き、反射的にロステアールの服を強く握り締めた。

「行けるの!?」

「おお、少しばかり元気が出たか? 勿論、行けるとも。お前は神の御手エインストラ。お前が望み、私が手を貸したならば、どこへだって行けるさ」

「で、でも、僕、一万年以上寝てたって……、」

「前に金の国で教えただろう? 次元を隔てれば、時間軸もずれる。次元を越える存在に、時間という概念は意味を持たないのだ。どの時点でのどこへ行きたいかを細かく設定しさえすれば、時を越えることなど、造作もないことなのだから」

 ロステアールはそう言って笑ったが、それに対してフラメスが口を挟んだ。

「この子はそう言うけれど、それは理論上の話よ。鏡哉くんの勝手な次元跳躍は今のところ許されていないし、そもそも今のロステアールの技術じゃ、そんなピンポイントに時間軸を固定できるような精度は出せないわー」

「母上……」

 そんな身も蓋もないことを言わないで欲しい、と言いたげなロステアールを無視して、フラメスがぱんぱんと手を叩く。

「はいはい。話はこれでおしまい。いい加減にしないと、ソルオール様から大目玉を食らってしまうわー。さ、ロステアールも鏡哉くんも準備をして。ティアちゃんも、向こうでは二人のことをよろしくね」

 そう言ったフラメスに頭を撫でられ、トカゲは胸を張って頷いた。

 それから鏡哉の方を見たフラメスは、心なしか気落ちしたような様子の彼に、ふふ、と笑う。

「そんなに落ち込まないで。仕事をこなすうちにロステアールの技術は上達するだろうし、いつかきっと、リエンコルムへ行く許可だって下りるわ」

 私も口添えするから、と言ったフラメスに、鏡哉が少しだけ表情を明るくしてロステアールを見れば、彼も頷きを返してくれた。

「それでは行こうか、鏡哉。さっきも言った通り、お前はただ、次元の名前を強く念じてくれれば良い」

 促され、そのまま目を閉じて言われた通りにそれを実行しようとした鏡哉は、そこではっとして目を開けた。

「あ、あの、ちょっと、ちょっとだけ、待って」

「うん? いや、だが、これ以上出立を遅らせる訳には、」

「ちょっとだけ、だから」

 珍しく譲ろうとしない鏡哉に、ロステアールは黙って母を見た。そして、視線の先のフラメスが困った顔をしたのを認めたところで、再び鏡哉へと視線を戻す。だが、母の言わんとしていることを察したにも関わらず、ロステアールは何も言わずに鏡哉の言葉を待った。

 そんなロステアールの配慮をひしひしと感じながら、鏡哉は俯いて、落ち着きを失ったようにトカゲを指先で触っていた。

 本当は、トカゲとフラメスには遠慮して貰いたいのだ。けれど、この状況でそれをお願いできるほど鏡哉の神経は図太くないし、そもそもそれは我が儘がすぎるという自覚もある。

 なので、相変らず空っぽに等しい勇気を頑張って総動員するから、もう少しだけ待って欲しい。あと少し、ほんの少しだから。

 そんなことを考えながら黙りこくっている鏡哉に、手の中のトカゲが一度ぱちりと瞬きをしたあと、せわしなく動いているその指先に、かぷりと噛みついた。

「っ!」

 驚いた鏡哉が、反射的に肩を跳ねさせて顔を上げ、そして、こちらを覗き込む金の瞳と目が合う。

 ああ、本当に、なんてきれいな人なのだろうか。フラメスも美しい人だけれど、その神々しい輝きを以ってしても、この何よりもきれいな人には敵わない。

 そんな言葉たちが鏡哉の脳裏を駆け抜け、それでも理性を必死に繋ぎ止めて、鏡哉が小さく口を開く。

 本当に、今更すぎて、そういうところまで自分らしい。けれど、今でなくては駄目だ。ただでさえ遅れてしまっているのだから、もうこれ以上遅らせるなんて、許されないし、許されたくないし、嫌だ。

 そう。そうなのだ。間違いなくしなければいけないことだけれど、そうではなくて、他でもない鏡哉自身が、そうしたいのだ。

 ロステアールの目を真っ直ぐに見て、けれどどうにもこれ以上見続けることはできないと諦めた鏡哉は、トカゲをそっと自分の肩に移して、両腕をロステアールの首へと回した。そしてその耳に口を寄せ、本当に小さな声で、囁くように音を紡ぐ。



「あのね、僕、貴方のことが――――」









かなしい蝶と煌炎の獅子 〈完〉


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かなしい蝶と煌炎の獅子4 〜伝説の最果てで蝶が舞う〜 倉橋玲 @ros_kyo

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