煌炎の彼方に 4

「ギルヴィス王」

「……はい」

 今にも泣き出しそうなのを必死に堪えているような顔で、それでも金の王はしっかりと返事をした。

「貴公にはもう、私の後ろ盾など必要ないな?」

 優しい声が、金の王の耳を撫でる。その言葉に込められた意味を理解した金の王の胸を、これ以上ないほどの歓喜と悲しみが満たした。

「っ、ロステアール王、」

 思わずといった風に零れたその呟きに、ロステアールが笑った。

「こらこら、私はもう王ではないのだ」

 まるで金の王の次の言葉をやんわりと制止するようにそう言ったロステアールが、幼い王を見つめて微笑みを浮かべる。

「事の顛末も含め、エルキディタータリエンデ王によろしく伝えてくれ。在位中は随分と迷惑ばかり掛けてしまったが、あの御仁が私への抑止力として目を光らせていてくれたからこそ、私は安心して好き勝手をすることができた」

 そう言うロステアールに対し、言いたいことは山ほどあった。告げるべき言葉たちだって、溢れるほどにある筈だった。だが、金の王が思うそれらはきっと、もう全部ロステアールに伝わっているのだろう。

 故に、幼い王は口に残る全ての言葉を呑み込んだ。そして、ロステアールがくれた言葉を大切に大切に受け取り、しっかりと頷きを返す。円卓の総括たる銀の王への言伝をわざわざ自分に預けてくれた彼に、恥じぬようにと。

「必ず、お伝えします」

 真剣な眼差しで言った金の王にもう一度笑みを返してから、ロステアールはぐるりと周囲を見渡した。そして、赤を胸に抱く民を思いながら、大きく口を開ける。

「誇り高きグランデルの騎士たちよ!」

 びりりと響いた声に、赤の騎士たちが反射的に姿勢を正した。

「八年余りという短い間だったが、よく私に仕えてくれた。貴公ら一人一人が私の誇りだ。これより先も、鍛錬に励み、己を磨き、私が愛した国を守り続けてくれ」

 響き渡るその声に、騎士たちは一斉に膝をついた。そして、炎を纏うかつての王へと、深々と頭を垂れる。彼はもう王ではなかったが、それでも騎士たちにとって彼は、今も尚心からの忠誠を誓うに値する君主だった。

 そんなかつての臣下を見て、ロステアールの目がゆるりと細められる。そして彼は一度目を閉じたあと、傍らに座る男を見た。

「……レクシィ」

 呼ばれ、俯いていたレクシリアの顔が、ゆっくりと上げられる。その表情に、ロステアールは困ったような笑みを浮かべた。

「そんな顔をするな」

「……どんな顔だよ」

「歓喜と悲嘆と幸福と寂寞と期待と不安と、そういったものがない交ぜになっているような、複雑な顔だな」

 真面目に答えを返したロステアールに、レクシリアは一瞬何とも言えない顔をして、そして、ぽつりと言葉を落とした。

「…………いくのか」

 短い問いに、ロステアールは一度瞬きをしてから、静かに頷く。

「ああ」

 自分を見下ろすロステアールを、レクシリアが見上げる。ロステアールの表情に宿るものを見た彼は、暫く何かを悩むように口を引き結んで、そして、笑おうとして失敗したような変な笑みを浮かべた。

「……良かったな」

「……ああ」

「全部もう、ちゃんと、自分で判るようになったんだな」

「……ああ。お前が教えてくれた全てを、実感を伴って理解することができるようになった」

 その言葉に、レクシリアが息を吐く。そして彼は、自分を見つめる金の瞳から目を逸らすようにして、ロステアールが纏う炎を見た。

「……その炎、自分でも消せないんだろ」

「判るのか?」

「お前の顔見てりゃ判る。なにせもう、作り物じゃないみたいだからな」

 言われ、ロステアールは炎に包まれている己の手を見た。

「……私は、人の身に憑いた母と人である父の間に生まれたのだ。故に、魂こそ炎神の血を引いてはいるものの、肉体の方は純然たる人間のものでな。だからこそ、私はずっと己の魂を封印し、同時にこの感情も封じ込めてきた。この肉体では神の魂には耐えきれず、感情の起伏で魂が揺れれば、そのまま力が溢れて己の身を滅ぼしてしまうと、そう知っていたから」

「でも今は、封印が解かれたんだな。その結果が、その炎なんだろ」

「……ああ。心を知り、今まで出会った数多のものに、私は本当の思いを抱いてしまった。震えた心は魂を揺らし、直にこの肉体を焼き滅ぼすだろう」

 ロステアールの声に、変化はない。常と変わらない、静かで穏やかな音色を奏でている。そんな彼に、レクシリアは口を開きかけて、しかし一度その口を閉じてから、改めてロステアールを見た。

「良かったな、ロスト」

 もう一度、レクシリアがそう言う。先ほどのそれとは違い、今度はその言葉に揺れが滲むことはなかった。

 そして、これで話は終わりだとでも言うように、レクシリアがロステアールから視線を逸らそうとする。だが、それを咎めるように、ロステアールが口を開いた。

「レクシィ」

 落ち着いた、けれど強い声が、レクシリアを呼ぶ。その声に引かれるようにして、レクシリアは再びロステアールを見た。その視線の先で、一度瞬いたロステアールが、次いで思わず滲み出てしまったかのような、そんな自然さで、淡い陽光にも似た笑みを浮かべた。そしてその唇が、レクシリアに向かって開かれる。

「ありがとう、レクシィ。お前がいたから、私は人として生きることができた。お前がいたから、私はここまで来ることができた。お前がいたから、私は心から愛する存在に出会えた」

 その言葉に、レクシリアが息を呑む。

「きっとそれは、私が思っている以上に険しい道だろう。人はどうしても比較することをやめられない。お前はそれに苦しみ、悩むこともあるのだろう。……だが、それでも私はお前が良い。お前だからこそ、安心して任せることができる」

 そう言ったロステアールが、両手をレクシリアに向かって差し出す。すると、ロステアールを覆う炎の一部がその手の上に集まり、輝ける王冠を象った。

「レクシリア・グラ・ロンター、先代グランデル王として、今ここで正式に貴公に国を託す。……だから簒奪などと言ってくれるな、親友よ」

 柔らかな笑みと共に落とされたその言葉に、レクシリアは大きく目を見開いた。

 ずっと望み、求め続け、けれど決して叶うことがないと、そう知っていた。それが今、こうして目の前にある。

 レクシリアの視界が滲み、歪んでいく。そのまま耐え切れずに零れ落ちそうになったそれを隠すように、レクシリアは頭を垂れた。

「謹んで、お受けする」

 誓いを立てるように言ったその頭に、ロステアールが炎の王冠を乗せる。淡い金の髪に触れても不思議と髪を焼くことのない炎を戴いたレクシリアは、そっと顔を上げて小さく笑った。

「大仰がすぎるんじゃねぇのか?」

「私の後を任せるのだぞ。これでも足りぬくらいだ」

 ロステアールの言葉に数度瞬きをしたレクシリアが、心配性だな、と笑う。そんな彼の頭上で、炎の王冠が瞬くように数度輝き、そして、まるで幻が消えるときにも似た穏やかさで、ゆるりと掻き消えていった。

 それを見送ってから、ロステアールがひとつ息を吐く。そして、友の視線に促されるようにして、その顔がたった一人へと向けられた。

「鏡哉」

 自分を呼ぶその声に、鏡哉はロステアールの下へと駆け寄りたい衝動に駆られた。だが、ロステアールの視線が、声が、表情が、それを許さない。そしてその意図を汲んだように、蘇芳が鏡哉の両肩を強く掴んだ。

「鏡哉。私のせいで、お前には随分とつらい思いをさせてしまった。本当にすまない」

「っ、そんなこと、……だって、僕は、貴方がいたから、貴方が、愛してくれたから、」

 そうだ。彼がいたからこそ、鏡哉は幸福を知ることができた。だから、彼が謝ることなんて何もない。

 そう言いたかった。そう言って、炎に包まれる彼に駆け寄って抱き締めたかった。けれど、ロステアールのすべてが、それを拒んでいる。あんなにも全部を受け入れてきてくれた彼が、初めて鏡哉を拒んでいる。

神の目エインストラであることが知られてしまったとなると、少しばかり過ごしにくい思いをするかもしれないが、その辺りは諸王方々が対応してくれるだろう。幸いなことに、お前の素性を知っているのは各国の中枢や軍部のみだ。きっとそれ以上に広がることはない」

「…………貴方」

「お前の慣れ親しんだ家に帰るのも良いし、他の国に滞在してみるのも良いだろう。どの国も、お前の来訪を拒むことはあるまい。円卓の十二国はそれぞれに個性のある環境をしているからなぁ。刺青のデザインの参考になるものに出会う機会も、きっと少なくはない筈だ」

「……貴方」

「本格的に魔術を学んでみるのも悪くないかもしれないな。その場合は、グレイやギルヴィス王が助力してくれるだろう。興味があるなら、落ち着いた頃にでも頼んでみると良い」

「貴方!」

 これまでに出したこともないような大きな声が、鏡哉の口から吐き出され、ロステアールは口を閉じた。そして、少し離れた場所から自分を見つめる鏡哉を見る。

「どうした、鏡哉」

 名を呼ぶその声はこの上なく優しい色をしているのに、それでも押し出される拒絶に、鏡哉は一度怯み、しかし目を逸らすことなくロステアールを見続けた。

「……そっちに、行っても良い?」

 肩を掴む蘇芳の手に力が籠ったが、鏡哉はそれを無視して一歩を踏み出そうとした。だが、その脚が動く前に、ロステアールの声がそれを止める。

「駄目だ」

 静かな言葉は、これまで以上に明確な拒絶を示している。

「……どうして?」

「この燃え上がる炎が、お前を巻き込まないとは言い切れない。だから、そこに居てくれ」

「……僕が、貴方の傍に居たいのに?」

 その問いに、ロステアールは困ったような、それでいて僅かな喜色が滲む微笑みを浮かべた。

「お前がそう思ってくれることはとても嬉しい。だが、どうかそこを動かないでくれ。そう長い時間ではない。私は直に燃え尽きるだろうから、それまでの間だけだ」

 判るな、鏡哉、と、まるで子供に言い聞かせるように、ロステアールが言う。本当に、鏡哉が理解できると信じているような口振りだ。実際彼は、鏡哉が聞き分けられると思っているのだろう。鏡哉は自我を主張するようなことはしない。誰かの期待をわざわざ裏切るような度胸もない。相手が最愛ともなれば、尚更だ。そうあれと望まれたならば、きっとその通りになるよう努めるだろう。

 だが、

 俯いた鏡哉が、拳を握る。そして彼は、両の腕を思いっきり動かして、肩を掴む蘇芳の手を振り払った。そしてそのまま、驚いた表情を浮かべているロステアールの下へと駆ける。

「鏡、」

 自分の名を呼ぶ声を遮るようにして、鏡哉はロステアールへと手を伸ばした。そして、その勢いのままに彼の胸へと飛び込む。全身で触れた彼の炎は、不思議と熱くはなかった。

 思わずといった風に鏡哉を受け止めたロステアールは、やはり驚きを隠せない表情のまま黒紫の髪を見つめたあと、恨めしそうな顔をして蘇芳へと目をやった。

 そんなロステアールの視線を受けて、蘇芳が肩を竦める。

「そりゃあ、つい最近知り合ったばかりのアンタの頼みより、愛弟子の願いを聞いてやりたくなるってもんだろ?」

 そう言って笑った蘇芳に少しだけ顔を顰めてから、ロステアールは思いの外強い力でしがみついてくる鏡哉を見下ろした。

「……お前はもっと、聞き分けの良い子だと思っていたのだがな」

 責めるでもなく、ただ困った色を隠すことのない声がそう言えば、そっと顔を上げた鏡哉がロステアールを見た。

「貴方が相手なのに、聞き分けなきゃ駄目なの?」

 迷いなくはっきりと紡がれたそれは、これ以上ないほどに無垢な気持ちそのものだ。

 自分の最愛だから、そして貴方の最愛であるからこそ、聞き分けたりなどしない。しなくて良いのだと、その互い違いの目が言っている。

 自分を見つめる鏡哉に、ロステアールが瞬きをする。そして彼は、やはり困った顔のまま、しかし愛情に満ちた微笑みを浮かべた。

「いいや」

 大きな手が、鏡哉の頭を撫でる。優しく慰撫するようなそれに、鏡哉はもう怯えたりはしなかった。

「……生き物である以上、生きてこそだと思うのだ。その生を穏やかにまっとうすることこそ、最上の幸福だと」

 零されたロステアールの言葉は、疑いようもなく本心なのだろう。だが、鏡哉は首を横に振った。

「違うよ、貴方。幸せの在り方は、人それぞれなんだ。貴方と出会ってから沢山のものを見てきて、僕はそれを知った。だからね、僕の幸せはそうじゃない」

 そっと身体を離した鏡哉が、炎に包まれるロステアールの手に触れる。

「……置いていかないで。ひとりぼっちは嫌だよ、貴方」

 縋るような声に、ロステアールが小さく息を呑む。

 それは、数多を知り、数多に出会った鏡哉が、それでも得た答えだ。だからこそ、こんなにもロステアールの心を震わせ、魂を揺さぶる。

 一際激しさを増した炎が、ロステアールの身体中から溢れて零れる。最早留めることすらできなくなったそれをそのままに、ロステアールは鏡哉を見つめた。

「…………お前は、それで良いのか?」

 優しい声が、柔らかく鏡哉の耳を撫でる。その問いに、鏡哉は微笑んだ。

「それが、良いんだよ」

 静かに落とされた言葉に、ロステアールが鏡哉の手を握り返した。そして、それを合図とするように、膨れ上がった炎が二人を包み込む。

 視界一杯が炎の赤に埋め尽くされて、その中でただ一人、ロステアールだけが鏡哉を見つめている。身を焦がすような熱ではなく、ただ心地の良い温かさだけを感じさせる炎に、まるでロステアールの全部で抱き締められているようだ、と鏡哉は思った。

 何もかもを焼き尽くす紅蓮に呑まれ、身体が端から崩れて、灰となったそれすらも焼かれて消えていく。己が無へと還っていく。

 だが、そんなことはどうでも良かった。鏡哉にとっては、吐息が感じられるほどに近くにある炎の双眸が至高の愛を湛えていることだけが、すべてだった。

 自分を見つめる金色のそれから目を逸らさず、しっかりと見つめ返して、そして、鏡哉は蕩けて滲むような極上の微笑みを浮かべる。

「…………あなた、きれい」

「……ああ、私もお前を愛しているよ」

 たった一人にだけ送る、これ以上ないほどの想いを籠めて落とされた囁きたちは、正しくその一人へと届き、そして、炎に巻かれて消えていった。

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