煌炎の彼方に 2
「貴公は炎に長けた存在のようだが、聡明な竜種であれば気づいているのだろう? 炎で私を傷つけることはできん」
『それがどうした。それだけでは、俺が引く理由にはならない。お前を傷つけることができなくとも、この世界を燃やし尽くすことなど容易いのだからな!』
そう言って唸った竜が、再び炎を吐き出す。先程よりも威力を増したそれは、まさに円卓の国ひとつ程度ならば容易に呑み込んでしまうだろう規模で地上へと放たれた。だが、ロステアールの足元から噴き上がった炎が広く展開し、押し寄せる竜の炎を全て受け止める。
「この次元の生き物の罪ならば、私が頭を下げよう! それに免じて引いては貰えぬか!」
ロステアールの叫びに、しかし竜は一層怒りの籠った声で咆哮した。
『いかに御子と言えど、聞き入れられぬ提言だ! お前が頭を下げて何になる? 世界の罪は世界が支払うべきであり、この件に関してはお前の謝罪など欠片ほどの意味も持たん!』
「どうあっても、世界を滅ぼすまでは引けぬと言うか!」
『くどいぞ!』
ロステアールの言葉を遮るようにして竜が吠え、強靭な後脚で大地を抉ろうと降下してくる。炎では埒があかないと、直接地上を蹂躙しにかかったのだ。
それに対し、ロステアールが片手を挙げて竜に向かって翳した。すると、彼の全身から溢れた炎が、竜目掛けて噴き上がった。
そのまま複数に割れた炎が、竜の四肢と両翼へと纏わりつく。まるで締め上げるようにして竜を拘束した炎に、竜が低く唸った。
『道理は俺にあると知っていながら、それでも手向かうつもりか!』
「貴公の言う通り、道理は貴公にあるのだろう! だが、だからと言ってこの世界を見捨てる訳にはいかん!」
ロステアールから噴き上がる炎が、より一層激しさを増す。まさに竜を焼き尽くそうとするその炎に、竜は目を細めてロステアールを睨みつけた。
『
「この世界にとってそれが必要だと言うのならば、躊躇いはせん!」
ロステアールの声に呼応するように、竜を縛る炎の力が増し、竜は奥歯を噛み締めた。竜の強靭な鱗は、ロステアールの炎を相手にしてもなお鎧のようにその身を守っているが、それも時間の問題だ。いかに竜種であろうと、この炎を長時間受け切ることはできない。じきに鱗は焼き切れ、その内にある肉をも焦がすだろう。
これが水に属する竜であれば、まだ逃れようもあったのかもしれない。だが、竜は炎竜であるが故に、ロステアールに対する決定的な攻撃手段を持っていなかった。
炎が竜の鱗を熱し、その装甲を食い破ろうと荒れ狂う。だが、いよいよ大いなる空を泳ぐものを燃え滅ぼさんと紅蓮が膨れがった瞬間、ロステアールは唐突にその手を緩めた。
突然の彼の行動に、何の真似かと睨む竜を見て、ロステアールが口を開く。
「必要であれば、とは言ったが、今それが必要だとは思えぬのでな」
『なんだと』
馬鹿にしているのかとでも言いたげに低く唸った竜を一瞥してから、ロステアールが声を発する。
「いるのだろう、ご老人」
誰に向かって言われたのか判然としないその言葉に、しかし突如としてロステアールの目の前の空間がひしゃげたように歪む。そしてそこから、鏡哉を目覚めさせたあの老婆が現れた。
「
微笑んでそう言ったロステアールに向かい、老婆が深々と頭を下げた。
「炎神の御子様におかれましては、ご自分の存在をお知りになられたご様子、……何よりと申し上げるべきか、残念だと申し上げるべきか」
「何より、で構わんよ」
そう言ったロステアールが、老婆を見て柔らかく目を細める。
「千里眼と呼ぶにふさわしい目は、あらゆる真実を見通すが故のもの。その身を隠すために使っていた空間魔法は、魔法ではなく境界を自在に越える力によるもの。……貴女こそ、混じり気のない、正真正銘の
ロステアールの言葉に、老婆は顔を上げて微笑んだ。
「いかにも。月神シルファヴール様のお導きにより、この世界を見守っておりました」
「……
確信を持って問われたそれに、しかし老婆は首を横に振った。
「送り込んでなどおりませぬよ。確かに、貴方様を目覚めさせられるのがあの坊やだけだったのは事実で、この世界のために貴方様を目覚めさせる必要があったのも事実。ですが、強制はしておりませぬ。すべてはあの坊やの意志で、儂は利害が一致した故、ほんの少しの手助けをしたまで」
「利害の一致、か。……それだけではないだろうに」
どこか可笑しそうにそう言ったロステアールを、老婆がじろりと睨む。
「察しが良すぎるのは結構ですが、くれぐれも余計なことは仰いますな。坊やを混乱させるだけですぞ」
「判っているとも。……しかし、その聞き慣れぬ敬語はどうにかして貰えんのか? ご老人にそのようにへりくだられては、どうも落ち着かん」
ロステアールの言葉に、老婆はやや呆れた顔をして彼を見た。
「そうはいきますまい。貴方様は、末席とは言え
「……ふむ、そういうものか」
その割に老婆の態度はどうも主に対するものではないように思えたが、これで態度まで目上に対するようなそれになってしまわれては余計に居心地が悪いので、ロステアールは言及しなかった。
「……して、儂を呼んだ用向きとは? まあ、大方の察しはついておりますが」
炎に拘束された竜を見上げ、老婆が言う。それを受けて、ロステアールは頷いた。
「純血ではない鏡哉には荷が重いのだ。……任せられるだろうか」
「いかに我が種族が神の御手と言えど、独断で基幹次元同士を繋ぐことはできませぬ」
「知っているとも。だからこそ、私が必要だったのだろう? ……ロステアールの名において、私が許可をする。どうか、その力をこの世界に貸してくれ」
そう言ったロステアールをじっと見つめてから、老婆はそっと目を閉じた。
「我らは神々の導きにより次元を越えるもの。しかしながら、神々からお言葉を頂く機会はほとんどなく、それ故に己の役目についてはっきりと認識しているわけではありませぬ。……ですが、儂がこの世界に長く留まっておったのは、偏に今このときのためなのでしょう。なればこの力、出し惜しみはしますまい」
そう言った老婆に、彼女が何をするつもりなのかを悟った竜が、怒りの咆哮を上げた。だがその行動に反して、竜に抵抗する様子はない。その代わりにとでも言うように、ロステアールを見下ろした竜が吐き捨てる。
『益がなくなった以上、大人しく受け入れてやろう。だが、赦されたとは思わないことだ。もしも再びがあったならば、今度こそ容赦はせん』
未だ微かな憎悪を残した両眼で睨み据えられ、ロステアールはその視線をしっかりと受け止めたあとで、深々と頭を下げた。
「その寛大なお心に、感謝申し上げる」
その言葉を合図とするかのように、老婆の姿がみるみるうちに滲んで、不明瞭な何かへと変貌していく。まるで何者でもあって何者でもないようなその姿は、まさに鏡哉が見せたあの姿そのものだ。そんな何もかもが曖昧な中で、黒に映える金色の両眼だけが、爛々と光るようにその存在を主張している。
本性を惜しげもなく曝け出した不明瞭な姿が、大地を蹴って天を翔ける。そしてそれは、竜の正面に到達するや否や、ただ二つ明瞭な瞳をいっぱいに開いて、そこから蝶の紋様を弾けさせた。
鏡哉が放ったそれとは比べ物にならないほどの輝きを放って翔けた蝶が、宙に巨大な亀裂を生じさせる。そして、老婆だったそれは、炎に巻かれた竜を引き連れ、次元の裂け目へと身を躍らせた。
そのまま、
こうして、世界を数度滅ぼしてもなお止まらないだろう脅威は、本来在るべき場所へと還っていったのだった。
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