煌炎の彼方に 1

 大いなる竜を前に、誰もが絶望を思い、ともすれば諦めを抱いた者さえいた。

 だがそんな中でも、王たちだけは未だ諦めていなかった。いや、諦めることは許されなかった、というのが正しい。

 王は王であるが故に、たとえ何一つ打つ手がなくとも、その肩に背負う幾千幾万の民のために、諦める訳にはいかなかったのだ。

 だが、だからと言って、人の身で何ができると言うのか。折れることを許されぬ心を抱え、王たちは思考を巡らせる。神性魔法が通用しない以上、もう為す術などないと判っていて、それでも奇跡の一手を求めて抗う。それが義務だから。それが王という生き物だから。叶わないと知って尚、願いを捨てる訳にはいかないのだと。

 しかし、そんな中で唯一、本当の意味で希望を失わない男がいた。

 自分ではもう竜をどうすることもできない。早ければ今すぐにでも、辺り一帯は何も残らぬ焦土と化すだろう。けれど、彼は知っている。誰もが成し得ない奇跡を成し遂げてみせる存在がいることを。人の意を越えた未知を、確固たる足取りで歩む者がいることを。

 何故なら、彼はそれを一番近くで見てきた。物心ついた頃からずっと、その背中だけを追ってきた。きっと誰よりも、その存在を知り、その存在を信じている。

 だから、赤の王――レクシリアは立ち上がる。最早指先ひとつを動かすのも難しいだろうその身体で、それでも地面を踏みしめ、立ち上がってみせる。

 全てはその信をまっとうするために。全てはその誓いを守るために。

「……あいつが来るまで持ち堪えるのが、俺の仕事だ」

 絞り出すようなその声は、もうずっと昔から決めている誓いそのもので、そして己を奮い立たせるためのものでもあった。

「……水の流れに逆らう存在もの

 小さく、だがはっきりと紡がれたその音に、近くにいた赤の国の騎士が驚愕の表情を浮かべる。

「赤より赤き紅蓮の覇者よ 全てを滅ぼす破壊の御手よ」

 荒い呼吸に紛れるように、しかしそれでも朗々と唱えられるそれは、まさに先の詠唱の再現だ。それに気づいた騎士たちが、赤の王の名を呼んで彼を止めようとする。だが、レクシリアはその制止が耳に入らないような様子で、尚も詠唱を続けた。

 この詠唱を唱えきれるかなど、レクシリアにも判らない。そも、神性魔法とは一度きりの奇跡の筈だ。一度使ってしまえば、いかに王と言えど数日はまともに動けない、そういう魔法なのだ。それを続けざまに二度など、前例があるはずもない。

 仮にこれを通常の精霊魔法と同じであるとみなすのならば、詠唱の途中で魔力に相当する何かが尽きた時点で、レクシリアは絶命するのだろう。果たして神性魔法が糧としているものが何なのかは知らないが、一度使っただけでこの反動だということを鑑みれば、二度はないことなど容易に想像できる。そもそも、仮に二度目が発動できたところで、それで竜が倒せる訳でもないのだから、無意味に等しいだろう。

 だがそれでも、僅かな足止めくらいにはなるかもしれない。たとえそれが瞬き一度程度の時間であったとしても、その一瞬によって無が有になるかもしれない。ならば、その可能性が残されているのであれば、それを成すのがレクシリアの役目だ。

 身体は重く、立っているだけで膝が震えてきそうな有様で、しかし頭はすっきりしている、とレクシリアは思った。周囲の喧噪が随分と遠くで聞こえるようで、思いの外静かで落ち着いた心地だ。ぼやけた視界の先に見据えた竜が大きく口を開き、炎を吐き出そうとしているのが見えたが、不思議と恐怖は感じなかった。

(……竜の炎か。神性魔法でなら、一度くらいは受け切れるんだろうか)

 冴えた頭で、ぼんやりとそんなことを思う。その視線の先で、竜の口から紅蓮が溢れて放たれた。それこそ視界一杯にすら収まらないほどに広範囲に渡って放たれたそれに少し遅れて、レクシリアも魔法を完成させるため、最後の一節を唇に滑らせようとした。そのときだった。



「そこまでで良いぞ、レクシィ」



 唐突に背後から声が落ちてきて、そして、レクシリアの肩に、ぽんと手が置かれた。

 そのぬくもりに、レクシリアが僅かに目を開く。

 振り返らなくとも判る。この手を、この声を、レクシリアが間違える筈もない。

 今まで何をしていたんだとか、どうやってここに来たんだとか。言いたいことは溢れるほどにあり、聞いて貰いたい話は山ほどあった。だが、レクシリアは咄嗟に開いた口を一度閉じてから、背後を見ることなく笑う。

「おせーよ、馬鹿王」

 ただひと言そう言って、張り詰めていた緊張の糸がほどけたように、レクシリアはその場に頽れた。

 決死の覚悟で完成させようとしていた詠唱は、切り上げた。もう必要がなくなったことを知ったから。

 立つことを止めたレクシリアの膝が地に着くと同時に、彼の前で噴き上がった炎が、向かい来る竜の業炎に向かって迸る。そのまま二つの炎は宙で激しくぶつかり合い、互いに互いを打ち消すように弾けて散った。

 突如として竜の業火を迎え撃ったその赤に、人々は炎の生まれた場所を見た。中には神性魔法が発動したのかと思いかけた者もいたが、赤い炎は神の力によって喚び出されるそれとは異なっている。だからこそ、その正体を見極めようと、皆が一斉にそちらを見たのだ。それは王たちも例外ではなく、動ける王は魔法を、動けない王は騎獣を駆使して、彼らは誰よりも素早く炎の発生地点へと駆けつけた。


 そして人々は、その姿を目にする。


 溢れんばかりの神々しさを湛えた輝く炎のような男と、その傍らに寄りそうようにして立つ、黒紫の髪の少年。

「諸王方々、並びにリアンジュナイルの民よ。大変申し訳ない、随分と寝過ごしてしまったようだ」

 周囲に視線を巡らせ、そう言ってすまなそうな笑みを浮かべたのは、ロステアール・クレウ・グランダだった。

 かつてのくすんだ赤ではなく、輝ける炎のような鮮やかな髪の彼に、誰もが驚き、言葉を呑み込んだ。手練れであればあるほど、直視しがたい何かを彼に見たのだ。それこそ、慣れ親しんだグランデル王国の騎士たちですら、彼から滲み出る威光を前に、言葉を発することができずにいた。

 だが、そんな沈黙は一瞬の後、青の王の怒声によって破られる。

「な、にが、寝過ごしたですか! 冗談は存在だけにしたらどうです!? 貴方が馬鹿のように惰眠を貪っている間、こちらがどれだけ苦労をしたことか!!」

 場の空気を容赦なく壊したその声に、ロステアールは少しだけ驚いた顔をしたあとで、人好きのする笑みを浮かべた。

「おお、ミゼルティア王。神性魔法を放っても尚それだけの元気が残っているとは、さすがだな。いやしかし、この空気をどうしたものかと思っていたところだったのだが、こうも容易くぶち壊してくれるとは」

 さすがはミゼルティア王、有難い限りだ、と続いた言葉に、青の王が更に激昂する。

「馬鹿にしているのですか!?」

「そんなつもりはないのだがなぁ」

 困った顔でそう言ったロステアールに、青の王が更なる罵声を浴びせたが、それに対する返事は肩を竦めるだけに留め、ロステアールは空を仰いだ。

「すまんが、これ以上の問答は後回しだ。今はあのドラゴンをどうにかせねばなるまい」

 そう言ったロステアールが、傍らの鏡哉を見る。

「鏡哉、お前はここで待っていなさい」

「で、でも、」

 離れがたい、とでも言いたそうな鏡哉に、ロステアールが少しだけ困った顔をする。すると、不意に鏡哉の背後から伸びてきた手が、鏡哉の首根っこをむんずと掴まえた。

 突然のことに驚いた鏡哉が振り返ると、そこに居たのは蘇芳だった。

「お、お師匠様!?」

 なんでここに、と言いたげな弟子に、蘇芳は諸事情でなと返してから、弟子の頭をぽかりと軽く殴った。

「お前が傍にいると足手纏いなんだろうよ。駄々捏ねてないで大人しく待ってろ。おい、こいつはアタシが見といてやるから、アンタは存分に火でも何でも噴いてこい」

「これは蘇芳殿。詳細な事情は判らぬが、結局貴公のことも巻き込んでしまったのだな。その上で更に図々しいことこの上なく申し訳ない限りだが、お言葉に甘えて、鏡哉はお任せさせていただこう」

「おうよ。アタシはアタシで、アンタの実力のほどってやつを見物させて貰うさ」

 こんな面白そうなものが見られるなら来たかいもある、と言った蘇芳に苦笑してから、ロステアールは一度だけ鏡哉の頭を撫で、再び空へと視線を戻した。その目が見つめる先で、竜もまた彼を見下ろす。

「貴公は、次元の裂け目で出会ったあのドラゴンだな?」

『ほう、判るのか』

「判るとも。一度出会った相手であれば私は忘れないし、そもそもいくら虚従えし嬉戯ヴァロウネインであろうと、この次元に縁のないドラゴンを喚び出すなど、干渉が過ぎる」

 そう言ったロステアールに、竜が目を細める。

『己を得たか、御子よ』

 竜の言葉に、ロステアールは一度目を閉じてから、ゆっくりと瞼を押し上げた。そして、竜を見据えて朗々たる声で言う。

「私の名は、ロステアール・クレウ・グランダ。グランデル王国の王族が末席にして、炎神フラメスの息子」

 その言葉に、人々は幻と思われていた伝説を目にしたときのような、信じられないものを見るような目でロステアールを見た。それは鏡哉も例外ではない。ロステアールという人間の魂を見た鏡哉ですら、その正体までは知らなかったのだ。

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