選択 5
そうして次に鏡哉が見たものは、天高く聳える、円柱状の巨大な壁だった。
煌々と燃えるような炎の色をした壁が、まるで何かを護るように行く手を阻んでいる。鏡哉は本能的に、この壁を越えることは不可能だと悟った。
それでも、壁を見つめて一歩進んだ鏡哉は、その手を前へと伸ばそうとした。そしてそこで、自分の姿がまた不明瞭なそれに戻ってしまっていることに気づく。
きっと、先ほどまでは自分の内側の領域にいたから、その影響で安定していただけなのだろう。ここは自分の内側とはまったく別の場所だから、元の不安定な姿に戻ったのだ。
そのことに僅かに困惑するも、今更それで怖気づくようなことはない。そのまま鏡哉は、手なのか何なのかよく判らない自分の一部を、壁に向かって伸ばした。だが、鏡哉が壁に触れる寸前で、耐え切れないとでもいうように壁がさらさらと音を立てて崩れていった。
そして、細かな粒子となって散っていく壁の残骸の先に、鏡哉はそれを見る。
柔らかな真綿に包まれて、すやすやと眠る、炎のように輝く髪の、美しい人。
彼を目にした途端、鏡哉のどこかから雫が溢れる。選び抜いた歓喜と選んでしまった悲哀とが混ざって、喜びとも悲しみともつかない雫が、ぽたりぽたりと地面を叩く。
落ち続けるそれをそのままに、鏡哉はゆっくりと彼の下へ歩み寄った。そして、自分の一部を動かして、そっと彼の頬に触れる。
ほんの僅かな躊躇いは、それに勝って溢れる愛おしさに掻き消された。
「……起きて、貴方」
囁くように言えば、炎色の睫毛がふるりと震えて、そして、彼の両の瞼が押し上げられた。
ああ、その炎を孕んだ金の瞳に、自分はどう映るのだろうか。醜く映るだろうか。汚く映るだろうか。気味が悪いと思われてしまうだろうか。けれど、もしそうだとしても、この人なら、きっと受け入れてくれるのだろう。
そんな不安とも期待ともつかない思いを抱く鏡哉に対し、目を開けたその人は、微睡を振り払うように一度だけ瞬きをして、それから、見ている鏡哉の方が蕩けてしまいそうな、極上の微笑みを浮かべた。
「おはよう、
その声に、表情に、鏡哉の全身が打ち震える。
知っていた。判っていた。けれど、望み願った通りに呼んで貰えたことが、どうしようもなく嬉しかった。
「……僕が、判るの?」
掠れてしまった声に、彼が身を起こして笑う。
「判るとも。少し見ないうちに随分と様変わりしたようだが、私がお前を見誤るはずがない」
「……僕、こんな姿なのに?」
「どんな姿をしていようと、お前はお前だ」
声と共に伸びてきた掌が、鏡哉の輪郭をなぞる。すると、まるでそれに促されるようにして、揺らぐ鏡哉の姿がゆっくりと安定していった。
自分の姿が本来のものへと戻ろうとしているのを感じた鏡哉は、思わずといった風に彼を見た。その顔が、悲しみと恐怖を混ぜたような色に染まる。
「僕、僕、どうしよう。手も、足も、ぐちゃぐちゃなの。それに、目が、」
それでこの人に厭われるとは、もう思わない。それでも愛してくれると、知っている。けれど、だからといって、酷い姿をこの人に晒すのは怖かった。平気だとは思えなかった。
そんな鏡哉に触れたまま、彼は優しく諭すように言葉を伝える。
「私はお前がどんな姿であろうと、僅かも気にしない。だが、お前が嫌なのだな。……ならば、望みなさい。お前は
言いながら、暖かな手が鏡哉の腕を撫でる。足を撫でる。そうやって導かれるようにして、鏡哉は言われるままに望んだ。
どうか、損なわれる前の自分に戻るように。ただひとつ、誇れるこの手を失わないように。醜い目しか残されていない自分に、ならないように。
その望みに応えるように、鏡哉の姿が確かな形を持って固定されていく。腕も、足も、抉られた目すらも、まるでそんなことはなかったかのように、元の通りに再現されて、そして、鏡哉はウロに痛めつけられる前の、鏡哉自身がよく知る形になった。
本当に望んだ通りになった自分の姿に驚いて、鏡哉は彼を見る。そんな鏡哉に、彼は笑みを返した。
「何も驚くことはない。お前はそういう生き物なのだから。……とは言え、純粋な
「…………貴方、は、とても詳しいんだね。僕ですら、エインストラのことは、よく判らないのに」
鏡哉の言葉に、彼は目を細めた。
「そうだな。少なくとも、お前よりはずっと詳しいのだろう」
「一応エインストラである、僕よりも?」
「ああ。お前よりも」
優しい笑みが、鏡哉を見つめる。鏡哉はどうしてだか彼の言葉が胸に引っ掛かり、そして、ふと湧いた疑念を口にした。
「……僕、ここに来るときに、多分エインストラの力で、来たんだけど、…………来て、良かったのかな?」
「面白いことを言う。悪いことがあるものか」
ぽつりと落ちた鏡哉の言葉に、彼はやはり朗らかに笑った。けれど、鏡哉はそれに微笑みを返すことができなかった。
「……でも、僕、貴方を覆っていた壁は、越えることができなかったんだ。実際に越えようとした訳じゃないんだけど、感覚的に、これは越えられないって、思った」
そんな鏡哉の言葉に、彼は数度ゆっくりと瞬きをしてから、口を開いた。
「そうだな。
柔らかな声に、鏡哉は悟る。そしてその両目から、ぽたりぽたりと涙が溢れた。
「……僕だから、だね」
その言葉に、彼は何も言わず、ただ微笑んでいる。
「僕だから。壁の前に来たのが、僕だったから。だからあの壁は、崩れてしまったんだね」
震える声に、少しだけ目を細めた彼が、次いでそっと頷いた。
「ああ、そうだとも。私を起こすことができるのは、お前だけなのだから」
彼の答えに、鏡哉はとうとう顔を歪めてしまう。ああ、やはりそうだったのだ。
鏡哉だけが壁を崩すことができるから。鏡哉だけがこの人の下へと至れるから。だから、向かうのは鏡哉でなくてはいけなかった。他でもない、この人に愛され、この人を愛す、鏡哉でなければ。
涙を零す鏡哉に、彼はやはり優しい顔をした。
「何を嘆くことがあるのだ。その事実こそ、お前の想いの証左ではないか」
「でも! でも……、それで、貴方が……」
「……ああ、なるほど。お前は気づいてしまったのか。万物の真実を見通す目というのは、ときに不便なものだな」
優しい手が、鏡哉の頬を撫でる。そして彼は、何かを思い出すように、そっと目を閉じた。
「……まるで、陽の光のような暖かさだったのだ」
唐突に落ちた言葉に、鏡哉は彼を見た。その視線の先でするりと開かれた瞼が、炎が躍る美しい金色を晒す。
「暴力的なまでに強い力で壁を打ち、ひびを入れ、だが、そこから溢れたのは、心地のよい光だった。……だから、何も嘆くことはない。あの日、あのとき、お前が私を目覚めさせてくれて、私は幸福だったのだ。私を目覚めさせるほどの想いを与えられて、この上ない幸せを感じたのだ」
だから悲しまなくてもいい、と。慈しむような声で、彼が言う。けれど鏡哉は、どうしてもその言葉を受け入れられそうになかった。
「……やっぱり、僕が、……僕が、貴方を、」
「鏡哉」
鏡哉の震える声を遮って、彼が名を呼ぶ。
「私は、お前に出逢えて良かった。お前のお陰で、幸福というものを知ることができた。なあ、鏡哉。お前には理解できないかもしれないが、私は本当に幸福なのだ。この強固な護りを打ち破るほどの強い想いを、お前から貰ったのだから」
「…………本当、に?」
彼を見上げ、鏡哉が呟く。
「本当に、幸せ? だって、あの壁は、貴方が貴方を護るために創ったものでしょう? それを僕に壊されてしまって、本当に幸せなの?」
鏡哉の問いに、彼は一層甘やかな笑みを浮かべて返す。
「己が生存本能を脅かすほどの愛情を向けられて、どうして至高の幸福を思わずにいられようか」
彼の言葉に、嘘偽りはない。元より、鏡哉に偽りを述べるようなことはしないだろう。だから、これは彼の本心だ。心からの思いだ。
けれど、鏡哉の目から落ちる涙は止まらない。嘆くなと言われて嘆かないで済むのならば、始めから泣いてなどいなかった。
彼が幸福だと言った以上、これは罪ではない。だから、鏡哉はただ鏡哉自身の感情として、その行く末を嘆く。彼の感情など関係なく、ただひたすらに鏡哉が悲しいから、自分勝手な涙を零す。
そしてきっと、彼はそれを知っている。判ってくれている。だからこそ、落ちる涙を無理に止めようとはしてこない。鏡哉の悲しみは鏡哉だけのものだからと、触れずにいてくれている。だから鏡哉も、ごめんなさいとは言わなかった。
少しの間だけそうして泣いて、けれどすぐに涙を拭った鏡哉は、改めて彼を見た。
老婆は、ドラゴンが召喚された以上長引かせるわけにはいかない、と言っていた。その老婆が導いた先がここなのだから、おのずと自分がすべきことは判る。だから、いつまでも泣いているわけにはいかないのだ。この人の目覚めこそ、今の世界に必要とされていることなのだろうから。
「……身体、は、大丈夫なの?」
「ああ、問題ない。ウロのあれは、タガが外れかけた私の魂を再封印するためのものであって、肉体を傷つけるようなものではなかったからな」
「……今の貴方なら、ウロに、勝てる?」
「本体に勝てるか、という問いであれば不可能だと答えるよりほかないが、ここに来ていたのは万分の一だからな。それならば、後れは取らんよ。尤も、あちらはもうケリがついたようだが」
その言葉に、鏡哉は驚いて瞬きをした。
「ケリが、ついたの?」
「ああ、ヴェールゴール王が尽力してくれたようだ。となると、残された問題はドラゴンか」
「……ウロに勝てるなら、ドラゴンにも、勝てる?」
「勝って欲しいのか?」
問いに問いで返され、鏡哉は少しだけ困った顔をして、それから、こくりと頷いた。
「円卓の、色んな人たちが、僕を助けるために頑張ってくれて。だから、皆に何かあるのは、嫌だな」
「お前のためではなく、世界のためだろうに」
「それは判ってるよ。でも、その手段として僕を助けるっていうなら、僕にとっては同じことだから。……それに貴方も、見捨てることなんてできないでしょう?」
問いと言うよりは決まっている事実を再確認するようなその声に、彼は数度瞬きをしたあと、破顔した。
「そうだな。今の私に彼らを見捨てることはできん。やれやれ、感情というのはなかなかに厄介な代物だ」
そう言ってから、彼が立ち上がる。そして彼は、これまでそうしてきたのと同じ気安さで、ひょいっと鏡哉を抱き上げた。やはりこれまでと同じように驚いてしがみついてきた鏡哉に笑ってから、彼が前を向く。
「さて、それでは行くとしようか」
「……戦うの?」
「いや、どうだろうな。戦って良いものかどうかは判らぬし、勝って良いものかどうかも判らん。だが、皆を守るくらいのことはしてみるさ」
彼の言葉は鏡哉にはいまいち理解できなかったが、彼が守ると言ったからには、それは成されるのだろう。
「半端者の私には境界を越える力はないので、お前の力を借りるぞ」
言われ、鏡哉は少しだけ困った顔をした。
「あの、でも、僕、うまく使い方が判らなくて」
申し訳なさそうな声に、しかし彼は笑って鏡哉の頭を撫でる。
「構わんよ。使い方は、私が良く知っている」
そう言った彼が、鏡哉の右目に手を翳した。
「……私はもう王ではないが、王だったものとして、最後の仕事をこなしに行こう」
声とともに、鏡哉の右目から蝶の紋様が弾けた。
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