選択 4
膜を抜けたその先は、真っ暗闇だった。いや、完全な闇ではない。前も後ろも、天地すらもよく判らないようなその場所で、少し先に、ぽつりと小さな灯りが見える。
一歩踏み出した鏡哉は、知らず泣きそうな顔をしてしまった。
小さな小さな灯りの下、蹲る小さな身体が見える。酷く懐かしい、ボロきれのような擦り切れた服と、痩せ細って折れそうな体躯に、脂でべったりとした髪。
この状況を想定していなかったわけではない。寧ろここまでの過程を考えれば、順当であると言えるだろう。
それでも鏡哉は、その背中を見たときの胸の震えが、歓喜によるものなのか恐怖によるものなのか、判断できなかった。
眠り続けて、何も知らぬままでいて欲しいと思ったのは、愛情だったのだろうか、保身だったのだろうか。
あれだけ頑なに止まることを拒んでいた足が止まり、その場に立ち尽くす鏡哉の視界の先で、子供がゆっくりと振り返る。
「……だあれ?」
怯えを孕んだ声でそう呟いた子供が、鏡哉と同じ互い違いの色の目に、鏡哉の姿を映した。
「きょうや!」
その声に、鏡哉は思わず唇を強く噛んだ。だが、そんな鏡哉の様子に気づかない子供は、鏡哉の存在を認め、ぱっと笑顔になる。
「きょうやだ!」
完全に信頼しきった顔で、子供は鏡哉に駆け寄る。そのままぎゅっと抱き着いてきたその子に、鏡哉は反射的に慈しみの笑顔を浮かべようとして、失敗した。中途半端な笑顔のまま、凍り付いたように表情が動かない。
「よかった、きょうや! グレイも、アレクも、じんも、呼んでもだれもいないから、こわかったの」
すりすりと懐いてくる子供をやはり反射的に抱き締めて、その頭を撫でてやる。そこに鏡哉の明確な意思がなくとも、そうすることが当然だからと、身体が勝手に動く。ちようを慈しむため、ちようを愛するために、肉体が行動する。以前のように、いつものように。
ただ、表情だけが、前と同じようにいかない。愛しさだけを満たした笑みを浮かべられないまま、鏡哉はどこか引き攣った笑顔で、腕の中の子供を見下ろした。
「でも、きょうやがいっしょだから、もうだいじょうぶだよ! だいすき、きょうや!」
そう言って顔を上げた子供は、鏡哉がいつもとは違う表情を浮かべていることに気づいたのか、不思議そうな顔をした。だが、そこに疑念はない。鏡哉という存在は絶対的に自分の味方であり、何があっても自分を愛してくれる、と。そう信じ切っているからこそ、疑念を抱く余地などないのだ。
それがどうしようもなく、鏡哉の胸に刺さる。
鏡哉もまた、同じ感情を知っている。そうだ。この子のそれは、鏡哉があの王に抱くそれとまったく同質のものだ。心の底からその愛を信じているから、疑うことすらしない。しなくて良いと知っている。
「きょうや? どうしたの?」
笑顔のまま、子供が小首を傾げる。そんな子供に、鏡哉は口を開こうとし、そこで初めて、口の中がからからに干上がり、舌が口蓋に張り付いてしまっていることに気づいた。
この子を、愛しいと感じている。目に入れても痛くないくらいに、可愛いと思っている。心の奥底から湧いてくるこの思いに、嘘偽りは一つもない。
鏡哉はきつく目を閉じる。閉ざした瞼の裏の闇を焼くようにちらつくのは、鮮やかな炎だ。
深く息を吐き出した鏡哉が、ゆっくりと目を開ける。そして彼は、真っ直ぐに子供を見つめ返した。
「……ちよう」
名を呼んで、鏡哉はちようの肩をそっと掴んだ。そのまま、優しい力で、ちようを自分から引き離す。そして、無様に震える声が、はっきりと言葉を紡いだ。
「僕、もう一緒にいてあげられないんだ」
静かに落ちた言葉に、ちようはぽけっと呆けた顔をした。何を言われているのか、本気で判らないのだろう。そんなちようの様子に、鏡哉の胸が酷い痛みを訴える。だが、それを無視して、鏡哉はもう一度同じ言葉を放った。
「僕は、……もう一緒に、いてあげられないんだよ、ちよう」
さよならなんだ、と続けた声は、自分でも笑えてしまうほどに引き攣っていた。
「……きょうや? どうしたの?」
先程までは何を言っているのか判らないという様子だったちようの表情が、何を言っているのか判りたくないというそれに変わっていく。
「さよならって、なぁに? きょうやは、ずっとぼくといっしょでしょ? いっしょだって、やくそくしたもん。ねぇ、そうでしょ、きょうや」
僅かに震えている声に、責めるような響きはない。ただ、裏切られるのだろうかという怯えだけが滲んでいる。
ちようの言葉に、鏡哉の表情が歪む。そしてそんな鏡哉を見たちようもまた、恐怖や悲哀や絶望がない交ぜになった表情を浮かべた。
「……ごめんなさい」
ぽつりと、ちようが言う。
「ごめんなさい、きょうや」
もう一度そう言ったちようは、縋るように鏡哉の服を掴んだ。
「ぼくが、ぼくがわるいこだから、きたないわるいこだから、ごめんなさい、きょうや、ぼく、ごめんなさい、」
鏡哉の服をぎゅっと握ったまま、ちようはただひたすらに謝罪を口にする。そんなちようの手に、鏡哉はそっと触れた。
「違うよ、ちようは悪い子なんかじゃないよ」
何も悪くないこの子にそれを言わせているのは、他でもない鏡哉自身だ。けれど鏡哉は、ちようにそんなことを言わせたくはないし、思ってだって貰いたくない。だから、自分がその原因だとは判っていても、はっきりと否定をする。
だが、ちようは鏡哉の言葉を理解できないようで、泣きそうな顔で鏡哉を見上げてきた。
「じゃあなんで? なんできょうやはぼくのこときらいなの? ずっといっしょっていったのに、ぼくのことだいすきだっていったのに、あいしてるよってたくさんいってくれたのに!」
「違うよ、ちよう。僕はちようのことを嫌ってなんかいない。嫌いになるわけないじゃないか」
「じゃあなんでさよならなの!? ぼくがわるいこできたないから、きょうやもぼくのこときらいになっちゃんたんでしょ!?」
叫ぶちように、鏡哉は首を横に振る。
「違うんだよ、ちよう。本当に、嫌いじゃないんだ。ちようのことを嫌いになんてなれない。僕は今でも、ちようのことが大好きだよ。ただ、」
その先を言うべきなのか。一瞬迷ってしまった鏡哉の言葉が、そこで途切れる。
ちようにとっての鏡哉とは、鏡哉にとってのあの王と同質なのだ。もたらされる愛を心から信じている相手。ただひとりのひと。そんな相手から、自分が今言おうとしていることを告げられたら、鏡哉は絶望するだろう。だからきっと、ちようだって同じはずだ。
けれど、選択したのは鏡哉なのだから、言わないまま逃げることはできない。言わなければ、けじめをつけることはできない。
だから、鏡哉は閉じた口を開いた。
「一番、……誰よりも、大切なひとが、できたんだ」
そう言って、鏡哉はそっと、自分の服を握るちようの手を解いた。きつく握りしめているように思えた小さな手は、鏡哉が手をかければ簡単に外れて、もう一度掴もうという意思も見せずに、だらりと落ちた。
伸ばす手が払われることを恐れているから。望んだところで自分にそれが与えられないことを知っているから。それ故の受容。それ故の諦念。
鏡哉にそれが判らないはずがなかった。ちようが今抱えているそれは、この十年ほど、鏡哉がずっと抱いていたものと同じだから。
ちようの表情は、ただただ静かに、深く絶望している。
可哀想なちよう。母の愛を求めて、一つも得られないまま、自分が生み出したもう一人の自分である鏡哉でその心を誤魔化し続けた、哀れなこども。
今のちようには、どうしたって判らないだろう。鏡哉がちようを本気で愛しているということも。ちようを愛する気持ちは欠片も変化していないということも。何もかも、理解できないだろう。ちようは、唯一絶対として捧げられる鏡哉の愛しか知らないから。愛情の質や形の多様性の多さを知らず、判らないのだ。
本当は、そこまで教えてあげられたら良いのに、と鏡哉は思う。そうすればせめて、愛する人に嫌われたという思い込みは取り除いてあげられるだろう。けれど、鏡哉がここまで生きてきて、沢山の人に出会って、ただ一人として愛されて、誰かを心から愛する人を見て、そうやってようやく理解できたそれを、今この場で理解させるなど、到底不可能だ。
それでも。それでも、と、鏡哉は思う。
ほんの少しでも良いから、判って欲しい。判らなくとも、そうなのだと知って欲しい。
「ちようはなんにも悪くない。君を愛しているよ、ちよう。……でも、さよならなんだ」
鏡哉の言葉に、ちようがその場にぺたりとへたり込む。俯いてしまった顔は伺えないが、どんな顔をしているのか、鏡哉には容易く想像できた。
張り裂けそうなくらいに胸が痛む。けれど鏡哉は、一瞬小さな頭に伸ばしかけた手を、そっと止めた。もう、この子をすくってあげられるのは、鏡哉ではないのだ。
「……もう、行くね、ちよう」
そう言って、動かない子供に背を向ける。
謝罪の言葉は、口にしなかった。それを言って救われるのは自分だけで、ちようにとっては何の意味も持たないものだと思ったから。
唇を噛み、鏡哉は一歩を踏み出す。その一歩は、鏡哉自身が思っていたよりもしっかりとした足取りになった。そうやってゆっくりと、何かに耐えるように進んでいく。可愛いちようから離れていく。必死に足を動かしながら鏡哉は、胸の苦しさに押し出されるようにして、細く息を吐き出した。
その時だった。
「――おいていかないで、きょうや」
か細く濡れた声が、耳に届いた。その瞬間、鏡哉の足が震えて竦み止まって、彼はどうしようもなく振り返りたくなった。振り返って抱き締めて笑いかけて、ここにいるよ、君だけだよと囁いて、溺れそうな程の愛を捧げてあげたい。そんな暴力的なくらいの衝動が、鏡哉を襲う。
(……ねぇ、ちよう。君、さっき諦めたじゃないか。お母さんと一緒だって、望んでも願っても血を吐きそうなくらい乞うてもどうにもならないからって、手を伸ばすことすら、しなかったじゃないか)
そんな君が、呼吸の音にすら負けて掻き消えそうなくらいの声で、それでもまた、僕を呼んで、求めてくれるのか。
どれだけ勇気が要ったことだろう。自分を嫌いになってしまったと思った人に、もう一度手を伸ばすのは、どれだけ怖くて、辛くて、苦しいことだっただろう。
(それなのに、ちよう、――頑張ったんだね)
そう思った途端、鏡哉の両目がにわかに潤んで、盛り上がったそれがぽたぽたと頬を伝って滴り落ちていく。
ちようは泣かない。天ヶ谷ちようという子供は、泣かない子供だった。どれ程に泣いたところで、何にもならないと知っていたからだ。泣いても何も変わらないと判っていたから、いつの間にかちようは、泣かない子供になっていた。今だって、どれだけ絶望しようとも、ちようの瞳は僅かな潤みを見せこそすれ、殆ど乾いたままだった。
そんなちようを引き継いでいた鏡哉も、今まで泣いたことがなかった。瞳にどれだけ涙が滲んでこようとも、泣いてしまうことだけは、その涙が雫として零れ落ちることだけは、ただの一度もなかったのだ。
それが今、こんなにも溢れて止まらない。
鏡哉はこのときようやく、あまりにも今更に、本当の本当に自身が愛しい子供と別たれたのだと、骨の髄まで理解した。
きつくきつく、砕けそうなくらいに歯を食いしばり、けれど鏡哉は振り返らない。なんて可哀想、なんて報われない、と嘆く胸の痛みがどれほど鮮烈でも、また再び足を動かして、前へと進む。
選んだのは鏡哉なのだ。愛しい子供よりも、愛した人を選んだ。愛した人を選んで、愛すべき子供を切り棄てた。だからもう、鏡哉はちようを傷つけることしかできない。それならせめて、少しでも与える傷を少なくしたいと思った。振り返ることで僅かな期待を抱かせて、もう一度突き落とすようなことは、したくなかった。
どうせ結果は何も変わらないのだから、それがただのエゴでしかないことは判っている。けれど、それでも、
(――今までの全てが報われるくらい、どうか幸せになって)
そのひたすらに身勝手な願いに、偽りはないから。たとえそれが伝わらずとも、心からの祈りと祝福を込めて。
「さようなら、ちよう」
せめて、君を切り棄てた罪だけは、ずっと赦さぬままに背負っていくよ。
胸の内で誓うようにそう呟いて、溢れる涙を拭った鏡哉は、地面を大きく蹴った。
思い切った跳躍は鏡哉の身体を浮かせ、そしてその先に、蝶のような光の紋様が浮かび上がる。それに向かって、鏡哉は迷わず身を躍らせた。自分でもどうしてそんな行動に出ているのか説明ができなかったが、エインストラとしての本能が、鏡哉の身体を勝手に動かした。
そして、その身体が紋様にぶつかり、すり抜けるようにして越えた瞬間、光が溢れ出して、視界が白く染まった。
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