選択 3
今度の場所は、さっきよりも歪みが強く、妙に赤黒い空間だった。歪みのところどころにひびが入り、時折ぱらぱらと塵を降らせている。
鏡哉は少しだけ立ち止まって周囲を見回してから、再び歩き始めた。そうやって少しの距離を進めば、前方に人影が現れる。
鏡哉によく似たその人は、頑丈そうな造りの椅子にがっちりと拘束されていた。
「……迅」
鏡哉の声に、迅が俯けていた顔を上げる。鏡哉ともアレクサンドラとも似ていない、きゅっと開いた小さな瞳孔が、鏡哉を見つめた。
「あの、迅、僕は、」
「好きにしろ」
鏡哉の言葉を遮るようにして、迅が言う。
「俺という人格をちようが生み出した以上、お前のその行動は、ちようにとっての望みの一つなんだろう。ならば、俺は何も言わない。そもそも俺は、何もかもがどうでも良いんだ。俺の役目は、壊すことだけなのだから」
その言葉に、鏡哉の顔が歪む。
迅はちように害なすものを排除する役目を担うと同時に、ちようの破壊願望も引き受けている存在だ。だから、彼は鏡哉の決定を問題視しない。鏡哉のその決定は、ちようにとっての一つの破壊だから。
判っている。自分が何者であるかを悟ったあの瞬間に、自分の選択がもたらす結末くらい、理解していた。けれど、迅に認められるということがどういうことかを良く知っている鏡哉は、その事実に胸が圧迫されるような心地になった。もしかすると、アレクサンドラに責められたときよりもずっと苦しかったかもしれない。
けれど、鏡哉は自分の決定を覆しはしない。覆せるようなものなら、最初からこんなことはしていない。
「……これまで、ちようの身体を守ってくれてありがとう」
「別に守りたくて守ったわけではない。俺にとっては目に映るすべてが敵だから、それを排除しただけだ。お前も判っているだろう。俺からすれば、ちようさえもどうでも良い」
迅の言葉に、鏡哉は小さく頷き、それでも、と言った。
「それでも、君がちようを守ってくれた事実は変わらない。だから、ありがとう、迅」
心からの感謝に、迅は少しだけ目を細めたが、それだけだった。そのまま、眠りに落ちるように目を閉じる。破壊衝動そのものである彼は、表に出ていないときは基本的に眠っていることが多い。だから、用は済んだということなのだろう。
そう、用が済んだから眠ったということは、何かすべきことがあって、それが成されたということなのだ。そして、その根底にあるのはちよう自身の意思である。人格でしかない鏡哉たちは、いつだってちようの意思に沿った行動しか取れないのだから。
そこまで考えた鏡哉は、ああでも、と独り言ちる。
それは、過去の話だ。ばらばらになった自分たちは、きっとその瞬間から少しずつ歪んでいった。人格としての在り方を基盤として、少しずつ個としての存在を確立し始めていた。鏡哉がそうであるように、彼らもまた、自分の意思というものを持ち始めているのだ。
だから、もしかすると、あれはちようではなく迅の意思だったのかもしれない。迅が眠ってしまった今となっては、もう確かめようがないけれど。
眠る迅を見つめてから、鏡哉は前へと視線を移して、また一歩を踏み出した。そうやって椅子の横を抜け、背を向けて進んでも、迅はもう何も反応しない。それがまた、どうしようもなく鏡哉を苛んだ。
けれど鏡哉は振り返らない。次に待っているだろう彼に向かって、歩み続ける。
そうしてまた境界を抜ければ、目に映る景色が再び変化した。
相変わらず薄暗いものの、今までの歪つな世界に対して、歪みを整えたような秩序だった空間だ。だが、どことなく気持ちの悪い、歪つを無理矢理に継ぎ接ぎして
鏡哉は、この感覚に覚えがあった。正確には、この空間が放つ雰囲気によく似た存在を知っていた。それがこの空間の主だろうと鏡哉が認識するのとほとんど同時に、鏡哉は唐突な衝撃を感じて、地面に倒れ込んだ。容赦のない力で頬を殴られたのだ、と認識するまで、少しだけ時間がかかった。
上半身を起こそうとした鏡哉だったが、伸びてきた腕がそれを邪魔する。鏡哉なりに抵抗は見せたものの、そもそも腕づく力づくとは無縁の人格である鏡哉には、彼を止めることなどできなかった。
自分に乗り上げ、ぎりぎりと両腕を締め上げる彼を見上げ、鏡哉がその名前を零す。
「…………グレイ」
こんな状況だと言うのに至極冷静な声に名を呼ばれ、グレイは眉を吊り上げた。
「テメェ、自分が何考えてんのか判ってんのか!? 何のために存在してんのか思い出せてねェのか!? ――あのクソ野郎に、自分自身の存在まで売り付けたのか!?」
激昂するグレイの手に、更に力が籠る。骨が軋むかと思うほどの力で腕を締め上げられ、鏡哉は痛みに顔を歪めた。だが、それでも鏡哉は、声を荒げたりはしない。ただ、いつもと変わらない声で、言葉を紡ぐ。
「そんなこと、僕が一番良く判っているよ、グレイ。僕が生まれた意味も、その役目も、何もかも理解しているよ。でも、」
静かな声を遮るように、グレイはまた鏡哉の頬を殴った。そして、怒りから荒くなった息をそのままに、グレイが吐き捨てるようにして言う。
「そうか。理解した上でそれなのか。オマエが、誰よりも、何よりも、ちようを理解していて、なお、そんな言葉が出てくるのか。だけどオレは許さない。アレクサンドラや迅がどう思おうと、オレは絶対に認めねェぞ。その腕と脚叩き折ってでも、オマエをここに留めおく」
底冷えのするような冷淡な声が、そう言った。ふつふつと煮えたぎる怒りをどうにか押し殺して絞り出したような、そんな声だ。
こうなった以上、グレイは鏡哉の言い分など聞かないだろう。いや、元より鏡哉に言い分などない。間違いなく悪いのは鏡哉であり、責められるべきは鏡哉なのだから。
だが、それでも譲ることはできない。引き下がることはできない。
「無駄だよ、グレイ。僕の力じゃ君に抗うことはできないけど、たとえ両腕両脚を折れられたとしても、僕は諦めない。這ってでも僕は進む」
地面にねじ伏せられてもなお真っ直ぐな目が、グレイを見つめる。その様に、グレイは自分が知らない鏡哉を見た気がした。
「だって僕は、あの人を選んだんだから」
きっぱりと、鏡哉はそう言い切った。愛を向ける先に選択肢など存在しないはずの鏡哉が、そう言い切った。その事実に、グレイは今度こそ狂ったように鏡哉を罵倒し、握った彼の腕をぐちゃぐちゃに砕こうと渾身の力を込めた。
だが、グレイがそれを達成する直前、突如として鏡哉の全身から炎が噴き上がり、グレイに襲い掛かった。鏡哉を掴んでいた手を焼かれたグレイが、思わずといった風に悲鳴を漏らす。だが、それでもグレイは手を離そうとはしなかった。握る力こそ緩んだものの、鏡哉を逃がすまいとその手を握り続けた。
しかし、それもすぐに意味を失う。
業火に灼かれたグレイの手は、見る見るうちに炭と化し、灰となって崩れて落ちた。同時に足元へと向かった炎が、グレイの両脚をも焼き尽くし、グレイはその場に倒れこんだ。
無残なその姿に鏡哉は息を呑み、自分を覆う炎に僅かな怯えを覚えたが、炎が鏡哉を焼くことはなかった。それどころか、暖かな日差しのような温度で撫でるようにして、炎は鏡哉を包んでいる。
「……火霊、なの……?」
ゆらりゆらりと揺れる炎の中に、小さな小人のような何かが複数いる。それを視た鏡哉は、そう呟いた。魔法適性のない鏡哉はその姿を見たことがなかったが、火の中にいる炎のような小人となると、火霊しか思い浮かばなかった。
そんな鏡哉の問いに頷くように、小人たちはくるりと炎の中を泳ぐ。そして、一度だけ鏡哉の頭をぽんと叩いたかと思うと、それは炎とともに静かに消えた。
助けてくれた、のだろう。
そう思った鏡哉は、同時にどうしてだろうという疑問を抱く。鏡哉には魔力がない。もしかすると、エインストラとして覚醒することで魔力を手に入れたのかもしれないが、だとしても精霊に何かを願ったりはしていない。願われなければ、精霊は手を貸さないものだ。精霊が自ら能動的に第三者のために動くことなど、基本的には有り得ないはずだ。
そこまで考えた鏡哉は、しかしそこで思考を放棄した。鏡哉には魔法や精霊のことなど判らないのだから、そんなことはもうどうでもいい。ただ、助けて貰ったことに感謝し、先に進むだけだ。
地面に倒れ伏しているグレイをちらりと見てから、鏡哉は起き上がった。そして、グレイの横を抜けようと一歩を踏み出す。
いくらなんでも、グレイももう身動きが取れないだろう、と。そう思っていた鏡哉だったが、踏み出したその一歩に、がばりと顔を上げたグレイが喰らいついた。肘から先がない腕で地面を掻いて、身体を引き摺り、大きく開いた口が鏡哉の脚に噛みつく。
止められた歩みに、鏡哉がグレイを見下ろせば、彼は血走った目で鏡哉を睨み上げてきた。
そんな彼を見て、鏡哉がほんの僅かだけ顔を歪め、そして、ぐいっと脚を引いた。
大して力を込めたわけでもないそれに、グレイの口があっさりと離れる。放したくて放した訳ではないだろう。多分、もう、とっくに限界だったのだ。
解放された脚を引いて、鏡哉はグレイに背を向けようとする。そんな彼に、グレイが叫んだ。
「棄てるのか!?」
その言葉に、鏡哉の肩が僅かに震えた。
「誰にも愛されないちようが愛を求めて生み出したオマエが! オマエだけは必ず自分を愛してくれると、オマエ以外にはいないんだと、オマエに縋ったちようを! 他でもないオマエが棄てるのか!?」
鏡哉はこの十年間、ずっとちようとして生きてきた。だからこそ、棄てられる恐怖、求められない悲しみは、これでもかというくらいによく判る。
それでも、責め立てるグレイの目から視線を逸らさず、しかと見つめ返して、そして、鏡哉は言う。
「そうだよ」
静かに落ちた言葉に、グレイが叫んだ。彼は怒りと怨嗟の限りを尽くして、鏡哉と、そして鏡哉を奪った男を呪う言葉を吐き出し続ける。
耳を殴るそれを聞きながら、鏡哉は今度こそグレイに背を向けて歩き出した。自分に向かって放たれる呪いの数々を甘んじて受け入れながら、先へと進む。
だが、どんなにグレイから離れようと、呪いの言葉は変わらずに鏡哉の耳に届き続けた。まるで、空間全体がグレイの言葉を反射し、強制的に鏡哉の元へと響かせているようだ。
恐らくそれは、グレイの思いの表れだ、と鏡哉は思った。この空間は言わば、天ヶ谷ちようの心の中にある、各人格の領域のようなものだ。だからこそ、グレイという人格の思いを反映し、空間自体が今もなお鏡哉を引き留めようと、呪いを吐き散らし続けるのだ。
それほどまでに。それほどまでに、グレイは鏡哉を行かせまいとしているのだ。四肢をもがれ、身動きが取れなくなっても、鏡哉を諦めないのだ。
見返りを求めず、ちようのことだけを考え、ちようのためだけに尽くす。ちようにとっての最善を見出し、それを実現するために、残りの人格たちを統括する。それがグレイの役目であり、存在意義だ。グレイという人格には、ちようの幸せ以外に気を配ることは許されていない。
だからこそ、グレイは間違わない。それを知っている鏡哉の胸は、殊更強く締め付けられた。グレイの怨嗟は、ちようの不幸を意味しているのだ。
けれど、それでも鏡哉は行かなくてはならない。いや、違う。他でもない鏡哉自身が、心の底から、先へ進むことを望んでいる。自分の行いの残酷さを知り、それでも止まりたくない。止まることができない。
グレイの声を振り切るように、けれど逃げることなく受け入れながら、鏡哉は進む。
そうしてようやく、その足が新たに境界を踏み越えた。
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