至殺報刃の牙 1

 一人で殺せるか、と問われたならば、それは不可能だと答えただろう。


 彼はその特性上、ありとあらゆる概念が持つ死の気配を感じることができる。それこそ、死というものが存在しない何かに対してですら、死を与える力を持っている。ただしそれは、その力が通用する相手に限った話だ。たとえ対象に死が存在したとしても、彼の力が及ばなければ、それを与えることはできない。

 彼は己の能力について語る際、“殺せる相手は殺せて、殺せない相手は殺せない”とだけ言うが、それはまさに過不足なく正しい評価だった。彼の力は、“自分が殺せる相手ならば確実に命を奪うことができる能力”なのだ。

 故に、彼自身が殺せないと判断した時点で、彼の力はほとんど無意味なものになる。そも、単純な戦闘能力だけで言うならば、彼は円卓の王の中でも中位程度にしか食い込めない存在だ。特に正面を切っての戦闘に慣れた四大国の王と比較すると、魔法も力もスタミナも何もかもが劣っていると言わざるを得ない。

 それほどまでに、彼の力は究極的に一点にのみ特化したものだった。そして、だからこそ彼は、あらゆる存在するもの・・・・・・にとって、きっとどの王よりも脅威となる。

 だが、その彼を以てしても、あれを殺すことはできない。人が持てる力だけでは、あれから己を隠し通すことすらできず、どんなに素早く動こうとも、その手が届く前に叩き落とされる。

 それならば、人である自分一人では成せないというのならば、死の権化と言われる獣と、同化してしまえばいい。

(まだ、早い。まだこれじゃあ、あいつの中に、俺の存在が爪先ほども残ってる。そうだよね、ヴェル)

 存在しない彼が、己に潜む獣にそう語りかけた。それに対し、己が肯定の意を返す。いや、違う。それは自分ではなく、獣の意だ。

 ともすればあやふやになりそうな自分の存在を必死に保ちながら、彼は己が存在しないことを維持し続けた。

 こんなにも長い時間獣と一体化したことはなかったが、それによりここまで己の存在を失えるものなのか、と、彼は思う。自分が自分なのか獣なのか判らなくなるほどに混ざり合い溶け合い、その末に、獣の存在ごと己の存在を無にしてしまいそうな、そんな感覚だ。きっと彼は今、有と無の際に立っている。

 ここで毛ほどの距離を踏み越えてしまったら、彼は本当にまったくの無になるのだろう。これまで存在していたという事実も掻き消え、初めから自分という存在はこの世にいなかったことになるのだろう。

 別に、それを悲しいとは思わないし、怖いとも思わない。何もかもが無になるのならば、自分のその思いだって、初めからなかったことになるのだから。

 ただ、そうなってしまったら、きっと民が困ることになるんだろうな、と彼は思う。結果として自分が消えるのはまあ問題ないのだろうが、やるべきことを果たせぬままにそうなるのは、あまり良くないことだ。

 だから、彼は更にその存在を希釈していく。己の使命をまっとうするために、自分で自分を消してしまう瀬戸際まで、自分という存在を無いものに近づけていく。

 竜が召喚されたその瞬間ですら、彼は感情を揺らさなかった。感情の揺れは、存在を揺らし、折角薄めたその濃度を高めてしまうのだ。だが、そうと判っていても、それを実行することはとても難しい。竜を前にしても彼が無であれたのは、きっと獣と同化していたからだろう。

 竜の存在によって、対象の意識はほとんどそちらに集中した。だが、それでもまだ足りない。僅かだが、対象には彼を警戒する意識が残っている。

 勿論、この状態で強行することは可能だ。対象のことを考えれば、寧ろこれ以上は望めないのかもしれない。けれど、彼はその先を待つことにした。それによって絶好の機会を逃す結果になるのは避けるべき事態だったが、その先に行くことができれば、彼の力はこれ以上ないほどに最高の状態で発揮できるのだ。そして、今はその状態を引き出すべき状況であると、彼は確信していた。

 ほとんど一か八かの賭けだったが、彼は待ち続ける。それはほんの僅かな間のことだったが、彼にはその時間が永久とわにも感じられた。そして――


 彼への警戒に割かれていた分のウロの意識が、その一瞬だけ、姿を消したエインストラへと向けられた。


 瞬間、黒の王は地を蹴って跳び出した。限界まで希釈しきった存在をそのままに、ウロのもとへと一直線に向かう。王獣と一体になったその目には、常以上に明確に死への軌跡が視えていた。

 まさに王獣をも超越した速度でウロに到達した王は、僅かな遅れもなく、手にした短剣を横一文字に振り切った。

 寸分の狂いもなく死の軌跡を辿った刃が、ウロの首を落とす。王の前でごとりと鈍い音を立てて転がったその首は、確かに命を失い、ただの物と化した。

 だが次の瞬間、黒の王は弾かれたように身体を翻し、腿に仕込んでいた暗器を後方へ投げつけた。太い針のような暗器が五本、それぞれに狙った場所へと放たれる。その間、瞬きの数千分の一程度の時間だっただろう。

 王が放った暗器は僅かなズレもなく、背後に迫っていた・・・・・・・・ウロの喉と胸を貫いた。

 またもや正確に死の軌跡を辿り切ったその攻撃は、今度も間違いなくウロの命を刈り取った。それが事実であることは、他でもない黒の王自身がよく判っている。

 だが、

「あーらら。いやぁ、参っちゃったなぁ」

 響いた声に、王の全身が震えた。声が聞こえたその意味を知り、しかし王はもう、何もできない。

 王獣を憑依させた肉体は、人の域を越えた動きを強要したせいで、痛みと共に悲鳴を上げ、まともに動かすことすらできない有様だ。そして何よりも、王はもうとっくに存在してしまっている・・・・・・・・・・

 限界を越えた身体から、王の意思に反して力が抜けていく。そしてとうとう耐えられなくなった彼は、その場に膝をついて頽れた。

 そんな王の目の前で、ウロから散った血液がごぽりと沸騰するようにして泡を立てた。そのままぼこぼこと激しく噴き上がったそれは、見る見るうちに形を作り、最終的にウロの姿となって、黒の王を見下ろした。

「多少の掠り傷くらいはつけられちゃうかなって、そうは思ってたんだ。少なくとも僕には、死という概念が存在する。だから、君ならそれくらいやってのけるだろうって。でもまさか、一度どころか二度も殺されるとは思ってなかったなぁ。しかも、君が完璧に存在を消してたせいで、びっくりして思わず反射的に蘇っちゃったよ。こうなるって判ってたら、蘇生するにしたってもうちょい上手く調整したのに」

 楽しそうに言うウロに、黒の王の全身から疲労とは関係のない汗が溢れた。ウロの意識が自分に向いているというだけで、とても言葉では言い表せないような種類の不安と恐怖に襲われる。

 どうせ殺されるのだから、今すぐひと思いに息の根を止めて欲しい。こんな生き物の前に居続けるくらいなら、いっそさっさと殺して欲しい。そんな考えが、王の頭を支配する。王は誰よりも死に寄り添い、死を従える存在であるからこそ、他人よりも己の死の気配にずっと敏感だった。

 だが、そんな黒の王をよそに、ウロは尚も語り続ける。

「それにしても、君のその様子、ついさっきここに来ましたって感じじゃないよね。大分前から僕の傍にいたからこその成果でしょ? でもおかしいなぁ。君はついさっきまで、確かに城下の戦地にいたのに」

 そう言って城下の方へと視線を投げたウロは、ああでも、と付け加える。

「戦地にいる君が偽物である可能性がないとは思ってなかったんだよ? だからこそ、最低限とはいえ君への警戒は続けてた訳だし。でも、エインストラがいなくなったのは正真正銘誤算だったから、思わずそっちに意識を囚われちゃったよね」

 僕もまだまだ青いなー、などと言いながら、ウロが指で輪を作り、それを覗き込むようにして戦場の方を眺めた。

「……ああ、なるほど。あれは君じゃなくて、あのエトランジェの傭兵だったのか。彼女に幻惑魔法をかけることで君と成し、同時に君の存在を幻惑魔法で惑わした、ってとこかな。確かに彼女なら、多少であれば君の真似もできそうだ。でも、一度僕を直接見ている彼女だったら、円卓に手を貸すような真似はしないだろうと思ってたんだけど……。……新しい赤の王様が、うまく懐柔したかな? 彼、そういうのに向いた特性を与えられてるもんね」

 そう言って笑ったウロが、黒の王を見下ろす。

「いやぁ、それにしたって本当にすごいね。幻惑魔法の手を借りたとはいえ、ここまで完璧に自分の存在を隠せる黒の王は、長い歴史の中にもいなかったと思うよ。その上、この僕を二度も完璧に殺し切ったんだ。万分の一の僕相手とはいえ、普通は人間じゃあとても成し得ない。うん、誇って良いと思うよ」

 そう言ってぱちぱちと拍手をしてみせたウロに、しかし黒の王は何も返さない。勝敗が決した今、彼が何かを言う意味はなく、言う気にもなれなかった。

 ただ、圧倒的な最上位種を前に、ぼんやりと思う。

(……皆には二度目はないって言ったけど、結果的に二回殺せた訳だし、十分頑張ったな)

 死ぬのは嫌だし痛いのも嫌いだけど、やれるだけのことはやり切れたから、だったらまだマシかな、と胸中で呟いた黒の王の顔が、僅かに緩む。どうしようもない諦観とも穏やかな享受とも受け取れるその表情に、ウロはぱちりと瞬きをして、そして、少しだけ困ったような顔をした。

「いや、あのね、……ああ、でも、限界かぁ……」

 無駄に引き延ばしたって、何にもならないもんね、と続いた言葉は、酷く残念そうな色を含んでいた。

 何の話をしているのか、と思った黒の王が僅かに眉を寄せると、その心の内を読んだかのように、ウロが肩を竦める。

「これ以上は打つ手なしでしょ? チェックメイト、ってことさ」

 そう言った彼が、黒の王に手を伸ばす。そのまま喉に触れてきた指先に、王はほんの少しだけ息を詰めてから、そっと目を閉じた。そして、次に来るだろう痛みに覚悟を決める。だが、


 突如空から一筋の光が降り注ぎ、脳天からウロを貫いた。

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