降臨

 天を割って現れたその姿に、皇帝は無意識に一歩後ろへと下がった。少し遅れて、それが畏怖から来る行動であると理解した彼は、汗ばんだ掌を隠すように拳を握った。

 あれを従えることができるのだろうかという不安と、従えなければならないのだという使命感が、強張った表情の下で鬩ぎ合う。

 そう。あれを従えることができなければ、皇帝の生涯に意味はないのだ。いや、これまでに流してきた血を思えば、無意味よりも尚酷い。皇帝の采配は全てこのときのためのものであり、これを成せるからこそ、あの行いが許されるのだ。

 己の思う最善のためにその意思を貫き通す彼は、間違いなく強靭な心の持ち主だ。それこそ、その一点にのみ限って言うのであれば、円卓の王たちにも及び得るほどに。

 だが、その彼を以てしても、竜を前に踏みとどまることは難しい。竜の黄金のような目に、つい、と見つめられて、彼はまた一歩後退した。

 何か言葉を投げ掛けられるのだろうか。そう思った皇帝だったが、まるでそこにあった小石がたまたま目に入っただけだとでも言うように、竜の視線はすぐさま皇帝の後方へと逸らされた。金色の瞳の見る先が変わったことで、少しだけ息苦しさが和らいだ皇帝は、次いで思わずと言った風に、竜の視線の先を追った。自分を見た時とは違い、竜の目がきちんと何かを認識したように見えたので、無意識に気になったのだろう。

 そして振り返った先にあったものに、皇帝は絶句した。

 そこは、先程までエインストラが居たはずの場所だ。だが、今そこで慟哭しているのは、得体の知れない何かだった。

 とても、言葉で言い表せるような存在ではない。美しくて醜く、強靭で儚く、秩序だっていて混沌であり、巨大で矮小で、善であり悪である。そんな、この世に相反するありとあらゆるものを持った生物であり、非生物であった。

 己の抱いたその思考に、他でもない皇帝自身が混乱する。だが、抱いたそれを疑うことはできない。比喩でも何でもなく、それは本当に、真逆のすべてを兼ね備えた何かだったのだ。

 ただ、そんな形容し難い姿の中に、ひとつだけ見覚えのあるものが存在することに、皇帝は気づいた。月の色と言うには余りに主張が強い、金色の瞳。蝶のような紋様が浮かぶ、あれは、

『……世界の隔たりエインを越えるものストラ。まさか、真の姿なきものの真の姿を目にする機会があるとは』

 頭に直接響くような不思議な声に、皇帝の意識がそちらへと移る。理由は判らないが、彼の直感が、これこそが竜種の声なのだと告げていた。

 得体の知れない何かをエインストラであると断言した竜は、僅かに憐れむように目を細めたあと、ゆるりと周囲を睥睨した。

『精霊の気配が色濃く、しかし五大精霊王は存在しない。それに加えて、この残り火のような気配。……基幹次元、リエンコルムか。基幹次元同士の干渉は、万に一つも偶発的に生じることはない筈だが……』

 そう言った竜は次いで、ウロを睨んだ。

『また貴様の仕業だな、第四座』

 明確な殺意と共に対象を射抜くその目は、間違いなくウロをのみ捉えている。だが、それでも皇帝は、逃げるようにして数歩後退ってしまった。一方で、当のウロはまるで気にした様子もなく、人懐っこい笑みを浮かべて返した。

「さすがは竜種。十年くらい前のあれも、僕がやったことだって気づいてたんだ」

『お前の残滓は吐き気がするほどに臭うからな』

「やだー、まるで僕が臭いみたいな風に言わないでよ。これでもきちんとお風呂入ってるんだよ?」

 頬を膨らませて言うウロを見て、竜が喉の奥で唸るような声を出す。だが、やはりウロはまるで気にしていないようだった。

『それにしても、また随分と悪趣味なことをしたようだな。エインストラがあの姿を曝すなど、そうあることではない。己の姿を見失うほどに追い詰めたか』

 唾棄するように言った竜に、ウロが肩を竦める。

「嫌だなぁ、悪趣味だなんて。寧ろ僕は、精一杯情けをかけたよ? だって炎獄蜥蜴バルグジートは火の眷属だし、あれに至っては、半端ものとはいえ神の目エインストラじゃないか」

『果てに至る結果がどうあれ、悪趣味なことに変わりはない』

「おや、竜種しては珍しく感傷的だね。他種に何がしかの感情を抱くなんて、竜王よろしく誇りも忘れたかな?」

 小馬鹿にするような物言いに、竜が纏う空気が一変する。

『……俺をここに喚び出したこと、後悔させてやろうか?』

 低く唸った竜が、その口端から灼熱の炎を覗かせた。だが、それを見ても尚怯まないウロは、静かに目を細めてから、ぱちんと指を鳴らす。

 その瞬間、床に描かれていた魔導陣が更に強く発光し、その中心から漆黒に染まった鎖が現れた。そして、先端が鋭い矢じりのようになったその鎖は、真っ直ぐに皇帝へと向かって奔っていった。

 避ける暇すら与えず皇帝の胸を貫いた鎖が、その勢いのまま、今度は竜へと向かう。加えて、魔導陣の端々から更なる鎖が複数出現し、それぞれが竜を目掛けて伸びていった。

 ウロが見守るなか、魔導陣の端から伸びた鎖が、竜の身体へと纏わりつく。そのまま、両の翼に、四肢、そして首や尾までをも拘束したところで、最後に皇帝を貫いた鎖が竜の胸を貫いた。

 ここまで、ほんの一瞬の出来事であった。

 鎖をその身に受けた竜は、僅かに目を見開いたあとで、その目を細める。

『…………よもや、この俺を使役しようと言うのか』

「それが皇帝陛下のお望みだからねぇ。これで、皇帝陛下と君の心臓は繋がった。あとは陛下が気力で君をねじ伏せれば、魔導契約完了だ。だけど、たかだか人間如きが竜種に敵う訳がない。そこでこの魔導陣だよ。これは、エインストラの力を利用して君をここに招くためのものであると同時に、君をねじ伏せるためのものでもある」

 そう言ってから、ウロは皇帝を振り返り、大袈裟に両腕を広げて見せた。

「さあ、皇帝陛下! 今こそ竜種を己の配下に抑え込むときだ! 僕は僕に出来得る限りの力を尽くした! あとは貴方があの竜の精神を屈服させて、その力で天に至って神に成り代わるんだ!」

 ウロの言葉に、皇帝が両の手を強く握る。

 そうだ。そのために、皇帝はこれまでの道を歩んできた。あらゆるもの、あらゆる命を犠牲にして、それだけを成すために生きてきた。ならば、今こそが――、


『くだらん』


 心底から蔑むような声とともに、竜を拘束していた鎖が千々に弾け飛んだ。そして、竜のその強靭な爪先が、まるで糸を断つかのような容易さで、皇帝と竜とを繋ぐ鎖をぶつりと切る。

 あまりに呆気なく砕かれたそれに、皇帝は一瞬何が起こったのか理解できなかった。理解しきれないままに、しかし目の前の光景は間違いなく現実で、呆然とそれを見る。その視界の端で、ウロが肩を竦めた気がした。

「あーあ。僕、本当の本当に本気で頑張ったから、ワンチャンくらいあるかもって思ってたのに。こんなに簡単に破られちゃったかー」

 ショックだなぁ、と、思ってもいなさそうな声でそう言ったウロを、竜が睨む。

『この術式の根幹は、人が創ったものなのだろう? ならば、いかにお前が手を加えたところで、俺に通用する筈もない。竜に通じるのは竜か、それこそお前のような“外のもの”だけだ。……判っていて言うのは、竜種に対する明確な侮辱だな?』

 目を細めた竜が、再びその口に炎を揺らす。

『……やはり死ぬか』

 地を這うような声に、しかしウロはにっこりと笑って片手を挙げた。

「はいストップ。確かに、今の僕じゃあ君には敵わない。でも、飽くまでも、今は、だ。だから、君は僕に手を出さない。だって君がここでそれをしてしまったら、ようやく訪れる僕の楽しみを邪魔することになる。そんなことになったら、まあ君の手に負える話じゃなくなって、確実に竜王にまで話が回るだろう。誇り高き竜種として、そんな真似はできないよね?」

 その言葉に、竜が炎を吐き出そうと開きかけた口を閉じた。そして、それこそありとあらゆる憎悪を満たし尽くしたような目をして、ウロを睨む。

『どこまでも腹立たしい生き物だ。竜の誇りを踏みにじるお前が、竜の誇りを盾にするか』

「おや、それこそ竜種らしくない物言いだ。君たちは知っているはずだよ。僕は傍観する者ヴィデルゼーレの中でも異端。利用できるものは何だって利用するさ」

 にんまりと言うウロに、やはり竜は殺意の籠った目を向け続けたが、それ以上何かをすることはなかった。

 人ならざる二者のやり取りを唖然と見ることしかできなかった皇帝は、そこでようやく己の置かれている状況を理解し、思わずと言った風にウロに詰め寄る。

「どういうことだ!? お前が手を加えた魔導ならば、竜を召喚して使役することも可能だと! 竜を御して私を天に至らせると! そう言ったではないか! それがこうも容易く破られるなど!」

 叫びながらウロの胸倉を掴んだ皇帝は、ほとんど錯乱していたのだろう。そうでなければ、異質なこの生き物に喰ってかかるなど、できようはずもない。

 襟元を掴んで揺さぶらんばかりの勢いの皇帝に、ウロは数度瞬きをしたあと、まるで天上に住まう天使のような顔をして、にっこりと微笑んだ。

「あはは、まーだそんな妄言吐いてるの? 無理無理。無理に決まってるじゃないか。人の身で神になる? ちゃんちゃらおかしいね。人が至れる神なんて、せいぜいが“他者の望みや願いでそういう概念に昇華したもの”が限界さ。君が成り代わろうとしている神は、そんな次元の生物じゃない。そも、人がそれに至ることなんて不可能なんだよ」

「だ、だが、お前は約束したではないか! 私を神に至らせると! お前の目的もまた、私と同じだからと!」

 悲痛な叫びに、ウロが慈愛の笑みを深めて皇帝を見る。

「君はさ、虫けらと交わした約束を律義に守るのかい?」

 そう言ってこてりと首を傾げたウロに、皇帝の顔が今度こそ絶望に染まる。

 ならば、彼はどうして数多の命を犠牲にしたのか。失われたあれらは、一体何のための贄だったのか。

 いかに後悔しようと、もう遅い。転がり始めてしまった石は、もう止めることなどできない。

 だが幸いなことに、彼がそれ以上己の罪過に苛まれることはなかった。

 竜の翼から奔った一筋の風が、その首と胴とを分かったのだ。

 悲嘆に暮れる表情のまま、皇帝の首が床に落ちる。それを見て、一歩遅れて悲鳴とともに逃げ出した兵たちも、等しく竜の生んだ風によって屠られた。

「せっかちだなぁ。折角花開いた絶望なんだから、もう少し楽しませてくれても良いのに。同情した? いやぁ、有り得ないな。竜が人間に頓着するなんて、そうないことだ。なら、ただの僕への嫌がらせかな」

『お前の楽しみに付き合う義理はない』

「そうだろうねぇ。こうなった以上、君は君の誇りのために、この世界を蹂躙するしかない。確かに僕がタッチしてはいるけど、そもそもこれは、この世界の生き物の傲慢さが招いた事態だ。なら、その責はこの世界の生き物が負うべきだよね。そして君たちにとって、竜種よりも下はおしなべて同じ、路傍の石ころだ。……うん、君が君の誇りのためにそうするのであれば、その末に、元の世界に戻してあげるよ」

 約束、と言って笑ったウロを、竜が汚物を見るような目で見る。

『お前の約束など、あらゆる次元の中で最も当てにならん』

 そう言い捨てて、竜が翼を大きく羽ばたかせる。そして上昇した竜は、次いで帝都の城下へと向かって飛翔した。

 人の集まる場所、帝国軍と征伐部隊とがぶつかり合う戦地へと移動する竜を見送りながら、ウロはふとそこで思い出したように、後ろを振り返った。そして、散らばる帝国兵たちの遺体をぐるりと見渡してから、僅かに眉を顰める。

「……あれ? 天ヶ谷鏡哉エインストラ、どこに行った?」

 著しく精神が摩耗したあの状態のエインストラが、自分で動けるとは思えない。かといって、誰かが彼を連れ出したとも考え難い。確かにウロの意識は竜に集中していたが、だからといって誰かの侵入に気づかないほど落ちぶれてもいないはずだ。

 じゃあどうして、と、そう思ったあたりで、ウロの肩がぴくりと震える。そして、その顔が後方へと振り返ろうとしたその瞬間、

 

 一陣の風が吹き、ウロの首がごとりと落ちた。

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