悲しい蝶 2

「帝国兵さんたちのぬるーい拷問に慣れちゃった身体には、染み渡るでしょー。なんか思ってたより手加減されてたみたいだから、想定よりずっと効果的かもねぇ」

 楽しそうに言いながら、まるで楽器でリズムでも取るように、少年の頭を何度も何度も床に叩きつける。ウロの言う通り、これはこれまで自分が受けてきた暴力とは全く種類が違うものだ、と少年は思った。

 少年が受けてきたそれらは、いつだって一種の恐れを孕んでいた。殺したくない。自分の手でとどめを刺したくない。自分が命を奪ったという実感を持ちたくない。そういう、少年の安否とは全く関係ない純粋な自己保身が故に、彼が晒される暴力は、いつだって最後の枷が外れていないそれだった。

 だが、ウロは違う。ウロは、少年が死のうと生きようとどうでも良いのだ。痛めつけた末に少年が死んだとしても欠片も気にしないし、それが自分の手によるものだとしても、悲嘆も歓喜も抱かない。

 どうしてだか、少年にはそれが事実だと判った。故に恐怖する。自らの手による相手の死を厭わない暴力を受けるのは、初めてだったのだ。

(…………あれ? ……本当に、そうだっけ……?)

 朦朧とする意識の中で、ふとそんな考えが浮かぶ。初めてのはずだ。そうでなければ、脆弱な自分がこうして生きているはずがない。だが、まるでそれを否定するように、頭の中に何かの影が浮かぶ。

(……なんか、前にも、こんなことが……)

 状況はまるで似ていないように思えるが、そう、かつて似たような暴力に晒されたことがあるような、妙な既視感がある。そっちはもっとずっと悲惨で、悲壮で。もうどうしようもなかったから、最後の枷が外れてしまったような、そんな。

(……でも、それならどうして、僕は生きているんだろう……)

 浮かんだ疑問は、何度目になるか判らない衝撃を顔に受けたところで、その意識ごと霧散した。しかしウロは、それで許してくれるような相手ではない。

「あれれ? トんじゃった? はーい、それじゃあ起きようかー」

 そう言って笑ったウロが、意識を失ってぐにゃりとした少年の身体に手を伸ばし、その左足首を掴む。そして彼はそのまま、握ったそこに力を込めた。

 ぐちゃり。

 硬質な音と粘着質な音が混じった嫌な音が響き、同時に少年が目を見開いて悲鳴を上げる。あまりの痛みに痙攣しながら音の方を見た彼は、目に映ったものに再度悲鳴を洩らした。

 左の足首が、文字通り千切り取られていたのだ。

「あ、ちょっと骨を折るだけのつもりだったのに、加減をミスっちゃった。人間の身体は脆いねー」

 赤く染まった手をひらひらと振りながら、ウロが肩を竦める。だが、少年にはそれを見ている余裕などなかった。想像を絶する痛みと恐怖に全身を引き攣らせて、はくはくと荒い呼吸を繰り返す様は、まるで陸に打ち上げられた魚のようだ。

 燃えるような熱と凍えるような寒さが同時に身体を襲い、冷や汗がどっと溢れ出す。何もかもが絶望を訴える中で、しかしその首元で広がる熱だけが、少年がひとりぼっちではないことを教えてくれた。

 縋るべきものを求める少年の手が、ほとんど無意識に自分の首元に伸びる。こんな状況だというのに、遠慮するような控えめな強さで、その手がストールの縁を握った。そうしていると、ほんの少しだけ痛みが和らぐような気がしたのだ。

 少年のその行為を受けてか、首元が更にふわりと熱くなった。それがまるで怒ってくれているように思えて、少年の心がほんの少しだけ凪ぐ。

「うーん、やっぱりこれくらいじゃ駄目か。君を護る盾は剥いだ筈なんだけど、一人になっても意外と耐えるね。まあ君の源流を考えれば、その肉体を生かすことに固執するのも判るけど」

 ウロの話は少年には理解できないものだったが、だからどうということもなかった。そもそも今の少年には、他人の言葉に耳を傾けるような余裕はないのだ。

「この様子じゃ、もう片方の脚をもいでも意味ないだろうなぁ。君にとって脚はそんなに大事なパーツじゃないもんね。うん、それじゃあ、」

 ウロの血濡れた指先が、少年の右腕を滑った。

「この手を潰しちゃおうか」

 ごくごく軽い声で、なんでもないことのように、ウロがそう言った。

 瞬間、少年の顔からこれ以上ないほどに血の気が失せる。最早脚の痛みなどはその意識から飛び、彼は彼らしくない大きな声で叫んでいた。

「駄目! それだけは駄目!」

 縋るような声に、ウロが仮面の内でにんまりと笑う。

「うんうん。駄目だよねぇ。知ってるよ。でも、だからそうするんだ」

 壊れものに触れるような手つきで、ウロが少年の右腕を優しく撫でる。そしてそのまま、ウロは触れているそれをそっと握った。たったそれだけの動作で、少年の身体ががちがちに強張る。先ほど自分の左脚を襲った悲劇を思い、それが右腕にも成されるのだと理解して、だが凍ったように固まって動かない身体では、逃げを打つことすらできない。

 駄目だ。逃げろ。それは己の意義そのものではないか。心の奥底がそうやって叫ぶのに、それを実行するには余りにも少年は弱すぎる。

(この手は、たった一つ僕に許された誇りなのに)

 握られた場所が、みしりと音を立てる。その恐怖に、少年は思わず目を瞑った。

 だがそのとき、ずっと首元で存在を主張していた温もりが、弾かれるようにしてストールから跳び出した。

「っ、ティアくん!?」

 少年の声に振り返ることなく、トカゲが大きく口を開ける。そしてトカゲは、その口から灼熱の炎を吐き出した。

 駄目だと思った。トカゲがこれまで身を隠し続けた事情を思えば、ここでこんなことをしてしまってはいけないと思った。だから少年は止めるべきだったのだ。そんな余裕はなかったけれど、それでも、止める意思を持つべきだったのだ。

 だというのに、トカゲの炎がウロを覆い尽くすその光景を見て、少年の心に真っ先に浮かんだのは、別の感情だった。恐らく、安堵とは違う。けれど、それに似た何かだ。そんなことを思うべきではないのに、少年はその感情を抱いてしまった。

 吐き出された業火は、まるで輝くような光を孕んでいる。その小さな身体のどこからそこまでの炎が生み出されるのか不思議になるほどに、無尽蔵な灼熱が辺り一帯を舐めていく。人間など一瞬で蒸発するほどの熱が、少年の周囲を除くあらゆる場所に流れていった。

 それは勿論ウロとて例外ではなく、最も至近距離で炎に抱かれた彼は、通常であれば痛みを感じる暇すらなく消し炭になったことだろう。だが、

「いやぁ、腹立つなぁ。ただの炎獄蜥蜴バルグジートごとき、いてもいなくても何も変わらないと思ってたのに」

 炎の中から、声がした。その瞬間、トカゲの生み出した炎の全てが、一瞬で掻き消える。

「油断したね。ほら、ちょっと仮面が焦げちゃったよ。お前、まだあの王様の火種を持っていたんだね」

 消えた炎があった場所で、ウロが一切の傷を負うことなく立っている。彼の言う通り、その仮面には少しだけ焦げたような形跡があったが、それだけだ。

 そこで改めてウロを含む周囲を見て、少年は愕然とした。

 ウロの背後には、炎の爪痕が一切なかったのだ。つまり、ウロはトカゲの炎を背後に漏らすことなく、正面から全て受け切ったことになる。

 勿論、トカゲがウロに敵わないだろうことは察していた。だが、これほどまでに絶望的な力の差があるとまでは、思っていなかったのだ。

 そこではっとしてトカゲを見れば、彼は小さな身体を一杯に反らせて、少年の前に立っていた。少年を護るように庇うように立ち、効かないと判っていて尚も炎を吐き続けるその姿は、しかし僅かな震えを孕んでいる。

 それが恐怖であると正しく理解した少年が、トカゲに向かって手を伸ばす。先ほどの自分を恥じ、悔いる心が、無意識にだが、己よりも圧倒的に強者であるトカゲを庇護しようとさせたのだ。

「うん、君はやっぱり、とても良い感じに成長の兆しが見られるねぇ。だからこそ、とても折りやすい」

 相変わらず愉快そうな声が降ってきて、そして、

 

 少年の手がトカゲに触れるその直前で、トカゲの身体はウロの足に踏み潰された。


 ぐちゃっと嫌な音がして、小さな身体は呆気なく靴の下敷きになる。理解の範疇を越えた出来事にただ呆然とする少年の目の前で、ウロは靴に敷いたそれを丁寧に踏みにじってから、すっと足を上げた。

「ぁ、あ……」

 少年の唇から、意味を成さない音が漏れる。

「ティ……、ティア、くん……?」

 その視線の先には、トカゲだったものがある。無残に踏み砕かれた身体は既に原型を留めておらず、臓腑も肉も判別がつかないほどにぐちゃぐちゃになっていた。

「ティア……く……、」

 のろのろと震える手が伸ばされ、べちゃべちゃになったそれに触れる。まだ生温い体液が指に纏わりついて、そこでようやく、少年は現実を理解した。

「あ、あ、あああああああ! ティアくん! ティアくん!」

 叫びながら、手が汚れることも厭わずに、少年がトカゲの残骸を掬い上げる。掬ったところで、ただの肉と骨の欠片たちだ。少年を見上げて愛くるしく首を傾げてみせたあの姿は、もうどこにもない。しかしそれでも、少年はその手を止めることができなかった。

 だが、そんな少年を嗤うように、ウロが彼の両手を肉片ごと軽く踏みつけた。思わず身体を震わせた少年が、咄嗟に手を引こうとする。だが、柔い力で踏まれているだけだというのに、どうしてか指先ひとつ動かすことができない。まるで、両の手を釘で縫い留められているようだった。

「さすがだね。炎獄蜥蜴バルグジートの無残な死は、君にとって結構なダメージになったと思うんだけど。いやぁ、自分本位な人間ってのは恐ろしいなぁ。所詮君には、他者を悼む心なんて備わっていないんだよね」

 小馬鹿にするような言葉たちは、しかし少年の耳には届かない。今の彼の意識は、全てウロの足の下にある己の両手に向かっていた。ついさっきトカゲを襲った悲劇が鮮明にフラッシュバックし、同じことがこの手に起こる未来だけを恐れ、全身が震え上がる。

「ふふふ、そうだね。君はそういう奴だ。だから、こうでもしなきゃ足りないんだよね?」

 楽しそうな声が降ってきて、そして、

 少年の誇りである両手は、呆気ないほど簡単に踏み潰された。

 肉が裂けて潰れ、骨が砕け散る音が耳に響く。同時に激しい痛みが少年を襲ったが、彼の意識は痛みそのものには注がれなかった。

 まさに蒼白の顔が、踏み潰された己の手に向けられる。その視線の先で、ウロが殊更ゆっくりと足を上げる。そこから現れた残骸に、少年は今度こそ絶叫した。

 声にならない声が喉から漏れ、痛みなど吹っ飛んだとでもいうように、手を失った手首が、手だったものを掻き集めようと床に擦り付けられる。ただでさえ激痛を伴うだろう傷口を石の床に擦り付けるなど、その痛みは想像を絶するものがあるが、それでも少年は、まるでそれしかできなくなったかのようにその行為を続けた。

 だって、この手がなれけば、もう少年は刺青を刺すことができない。刺青の技術は、少年がただひとつ自信を持てるものであり、あれがあるからこそ、彼は生きることを許されているのだ。それを失ってしまえば、もう少年に価値らしい価値はなくなってしまう。生きていても死んでいてもどうでもいい何かに成り下がってしまう。

 それだけは駄目だ。少年は生きなくてはならない。違う、生かさなければならない。少年はあの子を生かすために生まれた一人で、あの子を愛すための存在なのだ。だから、この身体を死に追いやることはできない。あの子を見捨てることはできない。何を捨ててでも、少年だけは最後まであの子の味方でなければならないのだ。

(……あの子、って誰……?)

 ぐちゃぐちゃになる思考の中で、ふと思う。おかしい。こういうときはいつだって、誰かが自分を助けてくれて、思い悩む種を取り除いてくれていたはずだ。なのに誰も助けてくれない。ノイズを払っていつも通りに戻してくれない。何故だろう。どうして。なんで自分が全てを負わなければいけないんだろう。

(…………あの子……?)

 頭が割れるような頭痛がする。脳裏に、自分によく似た誰かが浮かんだような気がして、けれどすぐにそれは陽炎に揺らいだ。そして、浮上しかけたその影を焼き払うように、炎の赤が頭一杯を支配する。

「…………あな、た……?」

 結局最後に残ったのは、どうしてだか、炎のようなあの人の顔だった。いつもと変わらない穏やかな笑顔が少年を見つめて、そしていつものように言うのだ。

(……ああ、……あの人、なら……、)

 あの人なら、もしかすると、こんな自分でも。

 奥底を抉り出すような激しい胸の痛みが、ゆるりと収まっていく。乱れた呼吸が少しずつ穏やかになり、少年は床を掻いていた手を止めた。

 そんな少年の様子を見て、ウロが眉根を寄せる。

「……ふぅん。まだ足りない、……というより、踏みとどまったね? まったく、眠らせておいてもなお邪魔してくるなんて、ほんと嫌な王様だよ」

 そう言って溜息を吐いたウロが、爪先で少年の顎を蹴り上げる。その衝撃で跳ね上がった頭を掴み、ウロは少年の顔を覗き込んだ。そしてその手が、己の仮面を剥ぎ取る。

 底なしの虚ろのような黒い瞳が少年を捉え、にんまりと笑った。

「でも、これは耐えられないよね?」

 その言葉と同時に、ウロの右の指先が、少年の左目に深々と突き刺さった。

「~~~~っ!!」

 少年が、引き攣った声を断続的に零す。これ以上ないほどに絶望に染まったその表情を見て、満足そうな顔をしたウロは、まるで駄目押しだとでもいうように、丁寧に丁寧に左の眼窩を掻き混ぜてから、原型を失った目玉をずるりと引き抜いた。そして、少年の頭をひと撫でしてから、彼の右目を覆う眼帯を取り去る。

 

「あーあ、汚い目」

 

 瞬間、少年の異形の目が強く輝いた。その口からは獣の慟哭のような絶叫が吐き出され、それに呼応するように右目の蝶がちかちかと明滅して、床に描かれた魔導陣が端から流れるように光を放ち始める。

 もう何も考えたくない。早くここから逃げたい、逃げ出したい。そう、どこか遠く。ここではない、遥か遠くへ――!

 そんな思いだけが少年を支配し、その思いが強くなるほどに、蝶が輝きを増す。そしてついに、右目の蝶が一際強く輝いて、その模様が、ぶわりと宙に浮かび上がった。

 そのままカッと爆発するように光を弾けさせた蝶が、一瞬で天へと昇り、巨大な紋様となって空一面を覆い尽くす。そして、まるで蝶が羽ばたくように、その羽が一度だけひらめいて。

 

 次の瞬間、空が大きく二つに割れた。

 

 蝶を割るようにして裂けた空のその先は、水面のように揺らぐ膜のようなもので覆われており、そしてその膜を破るようにして、巨大な何かが堕ちてくる。重力に引かれて落下するようにやってきたその姿を認め、ウロは掴んでいた少年の頭を放り投げて、その目をきらきらと輝かせた。

「やあ! よく来たね!」

 その声に反応するように、落下してきたそれが宙で大きく翼を広げる。


 光の蝶の羽ばたきに導かれるようにして現れたのは、かつてロステアール・クレウ・グランダが出会った、あの真紅の竜だった。

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