戦線 -橙の王- 1
「こりゃあどうも参ったな」
時にして、緑の王が火の鳥と交戦しているちょうどその頃。空を見上げてそう呟いたのは、橙の王である。
硬く重そうな装甲に覆われた大型の騎獣の背の上で、うーんとひと唸りした王は、空に佇む存在と己を乗せている騎獣とを交互に見比べ、もう一度唸るような声をあげた。
そんな王を見下ろすのは、骨と皮だけで構成されているような、痩躯の獣だ。風を纏った四肢で空に浮かぶその獣は、ただの獣と呼ぶにはあまりに不気味な見た目をしていた。まるですべての毛が抜け落ちたかのような薄い皮膚はところどこが垂み、肉のない身体には骨の輪郭が浮いている。
何より、頭部に二つ、ぽっかりと開いた空洞が印象的だ。通常の生物であれば目が嵌まっているだろうその空間には何も存在せず、ただ虚ろな眼窩が橙の王を見下ろしている。
生を感じさせないその魔物に、橙の王はがりがりと頭を掻いた。
空に浮かぶこれは風に属する魔物であり、その身で感じる空気から相当の手練れであることまでは理解できたが、相手の性質が判らないと思ったのだ。
よく大雑把でがさつな男に見られがちな橙の王だが、その実彼は、その場の状況に応じて比較的柔軟に思考を巡らせることができる、器用な男である。それは戦闘においても例外ではなく、特に強者との戦いにおいては、相手の性質に合わせて戦法を変化させることが常だった。だが、
(どうにも感情が見えん生き物だなぁ。魔導契約に憤っているようにも見えんし、儂に対する憎悪はおろか、敵対心すら感じん。……こういう類の輩との戦闘は、大体が面倒臭いことになるもんだが、さて)
どのみち、空を飛ぶ相手と橙の王とでは相性がすこぶる悪い。王の跨る騎獣は橙の国の中では随一の強さと機動力を誇る騎獣だが、残念ながら風の属性に対して優位性を発揮することはできないだろう。
王がそんなこと考えていると、身動きひとつせずに彼を見下ろしていた魔物が、不意に一歩を踏み出した。いや、踏み出したと言うよりも、まるで蹄で地面を鳴らすように、空気を踏みしめたと言った方が正確だったかもしれない。
瞬間、己の背中がざわりと粟立つのを感じた王は、咄嗟に地霊魔法による岩の壁を目の前に展開していた。
果たして、その判断は正しかった。
どこからともなく吹き荒れた風の刃が、分厚い岩の壁をズタズタに切り裂いて掻き消えたのだ。この壁がなければ、切り裂かれていたのは王と騎獣だったことだろう。
「……いや、参ったな」
崩れ落ちた岩の壁を見て、王は思わず冒頭と同じ言葉を漏らした。
一見すると風と大地のぶつかり合いは互角で、結果的にうまく相殺されたようにも見えるが、王が展開した石壁は、強度をそれなりに与えた防御用の魔法である。それが簡素な風の刃程度でこうなるということは、石壁の方が耐久負けしたとみなすのが正しいだろう。
「……お前さんがやられると困るしなぁ」
そうぼやきつつ王が見たのは、自分を背に乗せている騎獣だ。
風霊魔法を使えず、本人の機動力もあまり高くはない橙の王にとって、足である騎獣を失うことはかなりの痛手である。
だが、ここで騎獣を逃がしてしまうと、機動力のない王一人で相性の悪い属性を相手取ることになり、それはそれで避けたい事態だと王は思った。
(……いや、ここは更なる劣勢を覚悟の上で、一度騎獣を逃がすべきか。足がなくなると、儂一人では移動速度が大幅に落ちるしなぁ)
ひとつ息を吐き出した王が、騎獣の背から跳び下りる。そして目線だけで騎獣を引かせた王は、次いで風の魔物へと視線を戻した。
相変わらず王を見下ろしている魔物は、しかしあれから動きを見せない。先ほどの攻撃はどうせ小手調べ程度のものだろうに、何故次を打ってこないのだと内心で首を傾げた王に、魔物が声を上げた。
『先の壁は、貴様の魔法とやらか?』
突然話し掛けられた王は一瞬面食らったような表情を浮かべたが、素直に頷いて返す。
「おう、そうとも。まあ残念ながら、お前さんにはあまり効果がないようだったが」
『何を言う、十分ではないか。我にとっては脆弱な攻撃だったとは言え、よもやあれを人間が防げるとは思わなんだ。貴様、誇ってよいぞ』
「そいつはどうも」
随分と上から目線で物を言う魔物に、しかし王は笑って言葉を返した。
(異世界の人語を操れるほどに高等な生き物、と考えると厄介極まりないが、会話が通じるというのはある意味有難い。相手の考えが判らんと、どうにもこちらも動きにくいからな)
そう思考を巡らせる王に、なおも魔物が語り掛ける。
『その背に背負っているのは、貴様の武器か? 随分と重そうだが、そんなものを振り回せるのか?』
魔物が興味深げにそう言ったのは、橙の王が背に備えている巨大な斧のような武器のことである。これは、元よりあまり期待できない機動力を捨て、単純な破壊力のみに特化させるために作られた特注の品だ。確かに、これほどまでに巨大な武器を扱う人間はそういない。
「儂の自慢は力があることくらいだからなぁ。これくらい振り回せなくては、他の王と渡り合えないというものよ」
そう言った王が、斧を掴んでぶんと振り回してみせる。すると、魔物は素直に感嘆したような声を上げた。
『おお! これは素晴らしい! どうにも我には純粋な力が足りないと思っていたところなのだ。その力、是非手に入れたいものだな』
「手に入れたい、と言われてもなぁ。残念ながら、儂はお前さんの味方に回る気はないぞ?」
王の言葉に、魔物が心底不思議そうに首を傾げた。
『何故そうなる?』
「何故って、手に入れたいと言っただろうに」
『ああ、そうとも。手に入れたいとも。だが貴様が我の味方になる必要はない』
言われ、王が片眉を上げる。
「……どういうことだ?」
その問いに、魔物の口が、獣に似つかわしくない人間じみた笑みを象る。大きくにたりと笑い、剥き出しになった歯はまさに人間のそれとまったく同じもので、その歪さに背筋が冷えるのを王は感じた。
『生きたまま貴様を食らえば、貴様の力も我の力になるのだ』
ぞっとする声が耳に滑り込み、王は思わず盛大に顔を顰めた。そして、珍しく吐き捨てるように呟く。
「……なるほど、心の底から厄介な性質のようだ」
喰らったものの能力を吸収、もしくは模倣することができる生物、と判断して良いだろう。つまり、これまでにどれだけの生き物を食らったかによって、この魔物の力量が大きく変わるということである。その程度を正確に把握することは不可能だが、王はこの短い会話の中で、おおよその検討をつけることに成功していた。
(貴様の力も、ということは、既に複数人は喰らっているのだろう。だが、発言から察するに、生きたまま食らうことが、吸収なり模倣なりの条件のように聞こえる。この条件を達成できる相手、すなわち生け捕りが可能な程度の力量の持ち主しか喰らっていないと仮定すると、それだけならばそこまでの脅威じゃあなかろうな。……しかし帝国のことだ。国民なり兵士なりを大量に喰わせるくらいのことはやっていてもおかしくはない。さすがにそれだけの人数の力を全て吸収なり模倣なりしているとなれば、それこそ属性の相性など抜きに純粋な脅威とみなせるんだが、……それにしては、どうにも敵の圧が足りんなぁ。……ふーむ、喰らった相手の力の全てを手に入れられる訳ではなく、その内の数分の一なり数十分の一なりを自分のものにできる能力、あたりが妥当なところか)
思考の末、面倒な敵であることに変わりはないが、魔物が示してきたこの能力をそこまで恐れる必要はない、と王は切り捨てる。
(異次元の生物の気質なんぞ知らんが、あの発言はほとんど脅しのようなものだろうなぁ。この件については、こちらの恐怖心を煽って悦に入る嫌な性格のひねくれもの、とでも考えておけばまあ良いだろう。そんなことより問題は、敵がかなりの力量を持った風属性である点か……)
いつだかに行った緑の王との模擬戦を思い出した橙の王は、げっそりとした顔をした。あのときの模擬戦では、騎獣を使うことができないのも相まって、随分と一方的な戦いになってしまったものだ。
確か、びゅんびゅん空を飛びまわっては容赦なく風で殴ってくる緑の王に、最終的に両手を上げて降参したのだったか。どう足掻いても勝てないからと降参しただけなのに、やる気がないのかと怒った緑の王から酷く罵倒されたな、と橙の王がひとりごちる。
敵を前に呑気なように思えるが、別に現実逃避をしているわけではない。あの模擬戦が何かの参考にならないかと思考を巡らせている過程で、ふと思い出してしまっただけだ。
(……まあ、互いに本気を出せない模擬戦であったとしても、仮想的に本気の戦闘を想定することはできるからな。今回はそれが役に立つかもしれん、といったところか)
そう結論づけた王が、手にした斧を両手でしっかりと握る。それを合図とするかのように、敵が動いた。
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