戦線 -薄紅の王- 1

 幻惑魔法で騎獣ごと姿を隠した薄紅の王は、基本的には黒の王のすぐ傍に控え、有事の際に彼をサポートするつもりだった。

 それができなくなったのは、偏にこの目の前の魔物のせいである。

「……妾のことが見えると言うんだから、腹立たしいわねぇ」

 言葉通り、その表情に不満をたっぷり乗せた女王が、敵を睨む。

 まるで黒の王と薄紅の王を分断するかのように突如として割り込んできたのは、九つの尾をもつ白い獣だった。一見すると優美さを感じさせる見た目の獣は、しかし酷く厭な気配を漂わせている。感覚的に評するのならば、見た目は良いのに雰囲気が醜い、と言ったところだろうか。万人がその醜さを感じるかどうかは知らないが、少なくとも薄紅の王はこの獣を酷く醜いと感じた。

 なんにせよ、幻惑魔法で身を隠している薄紅の王の姿を見出したことも厄介だが、前を進んでいた黒の王がこの獣に気づく様子が一切なかったことも厄介だ、と女王は思う。

(つまり、妾と同じ系統の能力、ってことなのよねぇ)

 代々の薄紅の王は、円卓の王の中でも一、二を争うほど戦いが得手ではない。当代もその例に洩れず、防衛に特化している紫の女王よりも戦闘行為は苦手だった。

 だが、その実薄紅の国は、歴史的に見ても戦争に駆り出される割合が非常に高い。偏に、幻惑魔法と戦争との相性が非常に良いためである。それこそ、時代によっては“円卓最弱にして最強の王”と呼称されることさえあるほどに、代々の薄紅の王が扱う幻惑魔法は強力だった。

 だが困ったことに、今女王の目の前に立ちはだかる敵は、彼女と酷似した系統の能力を持つ魔物である。幻惑を扱う生き物というのは、総じて幻惑に対する耐性が非常に高いものなのだ。

(さっき征伐軍の一部を惑わした広範囲の幻惑術も、多分この魔物の力よねぇ。となると、ここでさっさと始末するのが一番なのだけれど)

 幻惑系統の能力がぶつかり合う場合、基本的には能力値の高い方の幻惑が勝るものだ。その要素だけで判断するのであれば、薄紅の王が負けるなどということはまず有り得ない。だがそれは、彼女が万全の状態であればの話である。

 自分が今担っている幻惑魔法の数々を脳裏でなぞった薄紅の王は、次いで深々と溜息をついた。

「どうしても、貴女の相手は片手間になってしまうのよねぇ……」

 誰に届けようと思っての呟きではなかったのだが、その小さな声は、どうやら獣の耳に届いたらしい。獣は優雅に首を傾げて女王を睥睨した。

『片手間で我の相手が務まると思うのかえ?』

「あらぁ、珍しい。人語を喋る獣がいるのねぇ」

 小馬鹿にするようにそう返した薄紅の王だったが、内心では一層良くない状況になったと考えていた。

 己の種族の言語のみならず、人などの他種族の言語まで扱える魔物は、基本的に知力、能力共に高いことが多い。その上、この獣の声は非常に冷静だ。他の魔物のように、異世界に無理矢理召喚されて使役されている現状に怒りを覚えているようには思えない。仮にその怒りを抑え込んでいるだけなのだとしても、それはそれで強靭な精神の持ち主であることになる。

 内心に怒りがあるにせよないにせよ、冷静さを失っていない敵というのは面倒なものだ。

『さて、おぬしのような小娘の技で、数千を生きた我を越えられるとでも思うておるのかえ? ほほほ、人というのはどの世界においても、ほんに傲慢な生き物よなぁ』

 鈴の音が鳴るような声で軽やかに笑った獣に、女王は嫣然たる笑みを返す。

「どんなときでも、若く見られるというのは心地が良いものねぇ。そのお礼と言ってはなんだけれど、ご老体はきちんと労わらせていただくわぁ」

 微笑みのままにそう言った女王が、乗っていた騎獣を上空へと逃がしたのち、火霊と水霊の名前を呼ぶ。すると、彼女の姿を覆い隠すように、周囲に深い霧が立ち込め始めた。

(正面から向かっていくと、きっと美しくない結果になるわ。まずはこの霧でもう一度姿を隠してから、今出せる範囲の幻惑魔法で相手の五感を奪いましょう)

 見る見るうちに霧に溶け込んで見えなくなっていく薄紅の女王だったが、しかしそれを嘲笑うかのように、獣の尾の先に炎が燈った。

 霧の向こうで女王が僅か息を呑んだ瞬間、尾から放たれた九つの炎が、彼女に襲い掛かる。

「っ!」

 咄嗟に身を捩って回避した女王の肩や脚を、炎が掠める。衣や肌を焼くそれに、彼女はすぐさま水霊魔法を発動して対応したが、それでも無傷ではいられなかった。

 己の姿を隠す魔法は依然として保っており、それに加えて霧の幻で二重に姿を隠したはずだ。その上万全を期して、使用している幻惑魔法は、視覚だけでなく五感の全てに作用するような等級のものを選択している。それでも尚、敵が己の居場所を正確に把握してくるということは、

(……五感ではない、何か別の独自能力で察知しているのね)

 女王にとって、相手は未知の生物だ。どんな能力を持っているのかなど、皆目見当もつかない。

『おお、上手いこと避けたものだ。褒めてつかわすぞ』

 楽しそうにころころと笑う獣に、薄紅の王は思わず顔を顰めそうになり、寸前で堪えた。しかめっ面は美しくない。

 しかし、この霧でも身を隠せないとなると、これ以上この魔法を持続させるのは魔力の無駄だ。そう判断した女王が、潔く魔法を解除する。少なくとも、霧の魔法以前に行った幻惑魔法を保ちさえすれば、基本的には他の魔物や兵に存在を気取られることはない。

 だが、霧を解除した女王は、直後目に入ってきた光景に、柄にもなく悪態を吐きそうになってしまった。

「…………似たような話を、ギルヴィス王から聞いた覚えがあるわぁ」

 霧が晴れた先では、彼女を取り囲むようにして、無数の獣がその視界を埋め尽くしていたのだ。

 この時点で、薄紅の王が危惧しなければならないことは複数あった。

 まずは、ここは未だ戦場であり、周囲には多くの敵兵や魔物がいた点だ。それは確かな事実であるにも関わらず、今の彼女の視界にはそれが一切入ってこない。

 そしてもうひとつ。薄紅の王の幻が生んだ霧は、相手の五感を奪うものであっても、自分の五感に影響を与えるものではなかった点だ。故に、霧があろうとなかろうと、彼女が見る世界が変わることはないはずだった。

 これらを総合して考えるに、

(妾が魔法を解除するのに合わせて、妾に幻術をかけた、ということになるわねぇ……)

 そう。この敵は、この世界における幻術使いの最高峰である薄紅の女王に、幻を見せることができるのである。

 地平線の果てまでをも埋め尽くす量の獣が、獲物を狩るときの目をして薄紅の王を見る。そして彼女には、己を取り囲むそれらのうちのどれが本物なのか、全く判らなかった。

 にやにや、とも表現できそうな厭な笑みを、獣が浮かべた。それを受けた薄紅の女王は、数度の瞬きのあと、ほう、と息を吐く。

「本来であれば、こういうときのためのヴェールゴール王なのだけれど……」

 かの王ならば、幻になど惑わされない。無限の幻が敵ならば、その全てを一瞬で屠るのがあの王の理不尽さなのだ。本物が判らないんだったら全部殺せば良いんだよ、とは、一体いつ聞いた台詞だったか。

 だが、その彼は今近くにいない。もしも彼がこの場にいたならば、この獣の幻術などものともせずに女王のピンチに現れ、面倒臭そうな顔をしながらも全てを屠ってくれたことだろう。

(まあ、ないものをねだっても仕方がないわねぇ)

 ひとりごちた女王が水霊の名を呼び、ぱさりと広げた扇を撫でる。それとほぼ同時に、ひしめく獣たちの尾から、無数の炎が迸った。

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