戦線 -薄紅の王- 2
一斉に襲い来るその熱気は本物にしか思えぬほどで、つまりそれは女王にとって本物と寸分違わないということなのだろう。生き物は幻で死ねるという事実は、女王自身が誰よりも知っていることだ。
全方位方からやってくる炎の塊は、とてもではないが避けきれるような代物ではない。故に、女王も避けようとはしなかった。代わりに、右手に広げた扇を構え、軽やかに舞うようにして閃かせる。
いや、これは最早舞いそのものであると言って良いのだろう。
彼女がしなやかに腕を振るごとに、水霊を纏わせた扇から水の衣が翻り、襲い来る火球をするりと受け止めいなしていく。くるりくるりと踊る水の衣は溜息が出るほどに幻想的であり、その中心で舞う絶世の美女も相まってか、酷く現実味の薄い光景だった。
ときに撫でるように逸れて弾け、ときに破裂するように打ち消える炎は、あたかも女王の舞に歓喜乱舞しているかのようだ。
その場のすべてを美そのものへと昇華する彼女の舞は、戦めいた要素を全く感じさせない。飽くまでも、これはただの舞踏なのだと。自分はただ、自分のためにと用意された極上の舞台で踊っているだけなのだと。彼女の全身がそう語り、周囲の風景全てがそう謳う。
予想だにしない光景に驚いたのは、女王を追い詰めている側である獣の方だった。
薄紅の女王は、戦闘ができない。故に、十二国の中でも一、二を争うほどにか弱い王だ。そう、それが獣の聞いていた話であり、まごうかたなき事実である。
だというのに、女王には獣の攻撃が通用しない。いや、正確には、全く通用していないわけではなかった。これだけの数の炎だ。女王の舞ではいなし切れなかった炎は確かに存在し、それは確実に彼女の身を焦がしている。だが、それでも女王は表情を変えない。それどころか、優雅な舞は寸分も狂うことなく続いていく。衣を焼かれ、肌を焼かれても、彼女はまるでそれすらも演出であるかのように、微笑みのままに舞い続ける。
その光景は、数千を生きる獣をも戦慄させた。同時に、このままではいけないと獣の直感が告げる。そしてその直感のまま、獣たちは炎と共に一斉に女王へと跳びかかった。
瞬間、女王の舞ががらりと変化する。先程までのそれが穏やかでたおやかな春の木漏れ日のようなものならば、今度のそれは荒れ狂う嵐のような激しさを伴っている。
ときに大地を踏みしめ、ときに大地を蹴って跳ぶように舞い。いつの間にやら水に加えて風も纏い出した扇が、炎もろとも獣を切り裂いていく。
弾ける血飛沫の中で、それすらも演出へと変えてしまう彼女は、血に濡れてもなお美しい。
水と風を操り、女王はひたすらに舞う。だが、永遠に続くかと思われたその舞は、不意に入った邪魔により止まることとなった。
女王の視界の端で、激しい光を伴う閃光弾が打ち上がったのだ。
瞬間、女王の舞が大きく乱れ、同時にやわらかな美を湛えた表情が崩れる。その先に表れたのは、まさに怒り一色であった。
「まあ! なんて迷惑なのかしら! せっかく妾が美しい舞を披露していたというのに!」
怒りのままに叫んだ女王が、半ばやけっぱちのように火霊と水霊の名を呼ぶ。互いに仲の悪い二つの精霊を調和させて何がしかの魔法を発動させた彼女は、次いで一層怒りに染まった顔で獣の群れを睨んだ。
「折角この妾が後々のことまで考えて行動していたのに、こうなっては全部が水の泡だわぁ!」
叫んだ薄紅の王が、舞もそこそこに炎や獣を切り刻みながら、形の良い唇から音を紡ぐ。
「火霊、水霊、征伐軍に掛けている“真実の幻”を解除してちょうだい。ええ、良いのよ。どうせ原因はこの魔物だわぁ。これさえ片づけてしまえば必要のない魔法よ」
『はっ、小娘がよう言う。ほんに我を片づけられると思うておるのかえ?』
小馬鹿にするような不快な声が多重に響く。それがなんとも不愉快で、薄紅の王は少しだけ眉を顰めた。だが、彼女が反応を見せたのはそれだけで、特に言葉を返すことはない。その代わりに、側に控える火霊と水霊に対して更に言葉を続ける。
「ヴェールゴール王の選択に合わせざるを得ないわ。先ではなく今を解決しましょ。――“
魔法の名を唇に上らせると同時に、女王の周囲で炎と水が弾け、霧のような細かな粒子が彼女を撫でた。
“
その高等魔法を詠唱抜きで発動させた女王は、しかし魔法の完成を待たず、続けて更なる魔法の名を紡いだ。
「“
女王が魔法の名を唱え終わると同時に、瞬きをする間すらなく獣の見る世界が一変した。
大地の果てまで埋め尽くしていた己の幻の一切が消失し、代わりに景色が昼から夜へと変化する。分厚い雲の立ち込める空は、月が隠れ、漆黒の闇に包まれていた。
突如変貌した光景に、しかしそれでも冷静さを欠かない聡明な獣は、それが正しく幻であると見破った。だが、幻を幻と認識してなお、世界はそのままそこにある。
獣の認識に揺らぐことなく、僅かな歪みも生まれない世界に、違和と焦りを覚えた獣は幻術破りを試みた。が、その強大な力を以てしても、やはり世界は変わらない。
そこで初めて、獣は己を囲む無数の何かに気づいた。いや、聡明な獣は、その認識すらも違うと知っている。
#気づいたのではなく__・__#、#気づかされた__・__#のだ。
この世界は薄紅の王が生み出した世界だ。ならば、そのすべては彼女の掌の上にある。
ぞわりと背筋を這う悪寒に、獣は全身の毛を逆立てた。
獣は幻術の極みの一端に位置する存在であるが故に、幻術というものをよく知っている。幻はどんなに真に近づこうとも幻にしか過ぎないが、その幻が偽を真と定義するほどの高位なものであれば、それは対象にとっての真になってしまうのだ。
全てを察した獣が、この後に起こる確定された未来からの抜け道を探す。だが、同時に獣は気づいていた。既に確定された未来を覆すことなど、己にはできはしないのだと。
獣を囲む何か――人々の怨嗟が込められた無数の矢が、獣に向かって一斉に放たれる。幾千幾万もの呪いを帯びた矢が身体中に突き刺さり、獣は悲鳴を上げた。
それは過去の再現だ。かつてその身が一度滅びたときの再来である。故に二度は有り得ぬはずの物語は、しかし至高の幻惑を御する女王の手によって再び紡がれた。
毛皮を、肉を、骨を焼き切る灼熱にその身を溶かしながら、獣はそこでようやく女王の姿を認める。いや、認めさせられた。終わる獣を前に、女王は自らの意思でその姿を晒したのだ。
どこまでも冷たく、しかし逸らされることなく己の死を見つめる彼女の瞳に、果たして獣は何を思ったのか。
その答えを述べることなく、獣の身体が崩れ、灰となって風に舞う。
しばしその場に留まって散っていくそれを見届けた女王は、そこでようやくそっと息を吐き出し、力が抜けたようにその場にへたり込んだ。
この瞬間を以て“万物映し出す真なる虚偽”と“永久へ誘う果てなき幻夢”は即座に解除したが、己に掛けている姿を隠す幻惑魔法はまだ継続させている。だからこそ未だに周囲に魔物が溢れるこの場で座り込むことができ、そして誰からも見られることがないと判っているからこそ晒す姿だ。
(……さすがに、少し無理をしすぎたわぁ……)
魔法の多重発動は、それだけで負担になる。そんな中、先の戦闘の最中彼女が成し遂げたのは、高位なものを含む魔法の七重発動だ。
黒の王に関する魔法が三つ、そのうち一つを、あの閃光弾を合図に数段強力なものへと変化させた。また、黒の王が持っている閃光弾にも、どこにいても彼女自身が気づけるようにと、女王にだけ見えるような幻惑魔法がかけられている。それに加え、自身の姿を隠す幻惑魔法と、敵の幻術を越えた真実を写すための魔法に、敵を仕留めるための魔法。
そして彼女は今もなお、このうちの五つを継続させている。戦いの前に黒の王にはああ言ったが、もうとっくに限界など越えているのだ。
何よりも、あの獣に勝つために発動させた二つの魔法と、黒の王の合図を受けて強化させた幻惑魔法が問題だった。
これらは全て、異次元における未知の感覚にも対応すべく、五感を越えたありとあらゆる感覚を支配し惑わす魔法だ。故に、それだけ難易度が高く、魔力の消費も著しい。
ひとつひとつは、赤の王の存在を丸ごと世界に誤認させたあのときほどのものではないが、こうもいっぺんに発動するとなると、あのときに勝るとも劣らないほどに女王の体力と精神を消耗させた。それも、今回は支えとなる王獣がいないのだ。女王にかかる負担は、およそ凡人の想像など及ばないほどに大きなものだろう。
自慢の珠の肌は所々が焼け爛れ、崩れた肉からは血が流れている。顔に浮かぶ疲労も色濃く、肩で息をしている様は、痛々しいとすら表せた。だが、それでも凛とした表情は常の彼女そのままで、踏まれようとも手折られようとも、決して枯れずに真っ直ぐ立ち続ける大輪の華を思わせる。
上がった息を整える間も惜しむように、女王は風霊の名を呼び、空へと逃がした騎獣を呼び戻させた。そして、ほどなくして傍らに降り立った獣をひと撫でしてから、懐にしまっていた小型の魔術器を取り出す。
これは、緊急の伝達用にと金の王が開発して渡してくれた、音を記録する魔術器だ。記録できる時間は短いが、こういうときに便利な代物である。
「……悪いけれど、妾は戦線離脱だわぁ。どうしても処理しきれない幻術系統の問題が発生した場合のみ対応はするけれど、戦力としては考えないでちょうだい。その代わり、残りの幻惑魔法だけは死守してあげる」
そこで言葉を終え、声の記録が完了したことを確認した女王は、風霊に命じ、騎獣鎧に結んである鳥籠の中の
そこまでを終えた女王が、のろりと立ち上がって騎獣に座る。
身体を動かすことすら億劫だったが、こんなところにいて流れ弾でも食らったら、たまったものではない。とにもかくにも、今はすぐに安全な場所へと移動する必要があった。
いっそ今すぐ眠ってしまいたい、などとひとりごちる満身創痍の女王を乗せ、騎獣は再び幻の彼方へと消えるのであった。
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