そして白んだ街を往く

そして白んだ街を往く

 大通りに建つ、ぽつんと眩しい二十四時間営業のファミレス。

 どうしても眠れない夜、冷えた部屋をあとにして、そこに向かうことがある。

 氷点下の暗い空の下を煌々と輝くその建物は、旅人のシェルターのような様相をしていると思う。入り口の扉を押して、暖かい空気が身体を包むとき、私はようやく自分が安全だと感じるのだ。

 その日も私は、冴えわたる目を持て余して扉を開けた。もう顔を覚えてしまった店員に作業のように「お好きな席にどうぞ」と言われ、迷うことなく窓際の、隅のほうのソファーを選ぶ。

 深夜のファミレスは、もちろん空いている。そして、空いているということは、かなり自由に席を選べるということでもある。それでも、やはり座る場所は決まっていた。誰かほかのひとが座っていない限り——これも滅多にないことだけれど——、私はいつも、外も店内も眺めやすいこの席を選んでいる。

 定位置が決まっているのは私だけではない。

 店内を見回し、私は安堵の息をつく。この時間帯に来るとよく見かけるひとたちが、よく座っている場所に腰かけている。

 すべてが整うような気持ちになった。

 コーヒーを頼み、ソファーに沈み、毎度の通り、今更やってくる睡魔に心のなかで笑ってしまう。

 ときどき車が通過していく夜の大通りを眺めながら、私は店内に意識を向けた。

 直接視線を向けなくても、位置と窓に映る人影で、店内の様子はだいたいわかる。

 例えば、少し離れたカウンター席でひたすらアルコールを仰り続ける三十代くらいの男性。見かけるたびスーツを着ているので、きっと会社帰りに立ち寄っているのだろう。深夜の常連客のなかではいつも誰よりも早く入店している。

 奥のほうでパソコンに必死になにかを打ち込む男性は、おそらく大学生。もっと言えば、きっと院生だろう。たびたび見かける彼は、いつも一番遅くまで残って作業をしている。

 その近くの窓際の席で文庫本を片手にコーヒーを飲む女性は、正直なにをしているひとなのかまったくわからない。わざわざ深夜にファミレスまで読書をしに来ているのだから、私と似たような理由を抱えているのかもしれない。小説家だったらいいなと密かに思っている。

 私のすぐ傍の四人がけのテーブル席には、三人の女性が腰かけている。二人は私に背を向けて座っていて、もう一人はその向かいに、二人のあいだからちょうど顔が見える位置にいた。

「あー、彼氏ほしー」

 あまり切実さの感じられないその声に、私は妙な懐かしさを覚える。

「さみしーよー」

 かなり酔っている様子の彼女は、口癖のようにそう嘆く。ほか二人も、惰性のように慰める。

 この女性三人は、おそらく月に一回ほどの頻度で来店して、こうして一晩中話し込んでいる。私も毎晩来店しているわけではないから彼女たちを見かけるのは三度目くらいだったけれど、数ヶ月ぶりに聞く声は、なんだか古い友人の声のようだった。

 彼女たちだけではない。店員を含め、私はこの店内にいる全員に、何十年も昔から付き合いのある友人に向けるような親しみを感じていた。

 話したこともない上に、職業も歳も、名前だって知らない。ただ同じ時間に同じ場所にいるだけの他人。私が一方的に覚えているだけで、相手は私を認識すらしていないかもしれない。

 でも、それぞれに私の知らない事情があって、人生があって、ここに来る理由がある。そう考えると、私はたまらなくやさしい気持ちになれた。

 知らない他人を、友人のように愛おしく思えた。

 言葉にしてみると、かなり奇妙かもしれない。でも、この距離が愛おしかった。

 運ばれてきたコーヒーを啜り、息を吐き出す。温められた息に、カフェインに動じない睡魔を感じた。

 半分くらい飲み終えたころ、不意に、から、とちいさな音がした。店員が素早く動き、「いらっしゃいませ」の声が聞こえる。ひとりの少年が来店した。

 少年と言うには、体つきが大人すぎるかもしれない。けれど青年と呼ぶには幼すぎる顔立ちだった。おそらくまだ高校生だろう。ただ、その幼さは服装と佇まいで巧妙に隠れているため、二十歳くらいには易々と見える。

 店員も気にした様子はなく、「お好きな席にどうぞ」と決まり文句を言っていた。少年はカウンター席に落ち着くと、コーヒーを頼んでなにやら考え込むような顔になった。

 家出だろうか。

 景色に溶け込むようにコーヒーを啜りながら、窓に映った少年を見る。

 だとしたら、声をかけるのが正しいのかもしれない。

 でも、私はまったくその気になれなかった。少年の顔つきは、かなりしっかりとしている。なにがあってここまで辿り着いたのかは知らないが、今後どうするかはもう決めてあるのだろう。

 ——だったら、私はあくまでこの距離を保とう。彼が無事に居場所に辿り着けるように、ちいさく祈ろう。

 カップを置いてそう決意すると、私は窓に映った少年から目を離した。

 少年はすぐにコーヒーを飲み終えて、追加で水を一杯頼んだ。そして、一時間ほどうとうとしたあと、誰よりも早く店を去っていった。

 大通りの信号を渡っていく彼を見送りながら、私は心のなかで「幸運を」とささやいた。どんなことが待っていようと、今夜ここを訪れたあなたたちは、温かい場所で眠れるといい。

 やがて、私は幾度目かの睡魔に襲われた。ドリンクバーの真上にある壁時計は着々と午前を進んでいる。しかし、冬の日の出まではまだ時間がある。私は睡魔に従うことにした。


 目が醒めたのは、扉が閉まる音が聞こえたときだった。店内を見回すと、サラリーマンの男性と、三人組の女性がいなくなっていた。

 私は目を擦りながら、別れの挨拶ができなかったことを後悔した。もちろん、間に合っていても心のなかでするのだから、事実はなにも変わらないのだけれど。

 伸びをしていると、タイミングを見計らったかのように、文庫本を読んでいた女性が本を閉じ、コートを羽織って立ち上がった。

 手際よく会計を済ませたあと、彼女は「ありがとうございました」と店員に頭を下げる。すると店員も、「こちらこそ、ありがとうございました」と深々と礼をした。

 私は扉を開く彼女を眺めながら、心のなかで別れを告げた。

 どうかお達者で。

 から、という音と共に扉は閉まり、店内は一瞬の静寂に包まれる。店員は奥に戻り、やがて、かたかたかた、とキーボードを打つ音が再開した。

 ついに、店内はパソコンで作業をする男性と、店員と、私だけになった。

 まだ午前の六時だから、外は暗い。私はいつもこれくらいの時間には帰るので、遠くに座る男性が普段いつまで作業を続けているのか知らない。けれど、もしもいまが夏だったとしても、彼はきっと白みだした空にも気づかずに、あの場所で熱心に作業を続けているのだろう。そう思うと、自然と笑みがこぼれた。

 長引きそうな作業に、私はコーヒーをもう一杯頼んだ。店員は相変わらず素早く注文を受け、コーヒーもすぐに届く。

 ところが、私がカップに口をつけたそのとき、奥の男性は急に立ち上がり、パソコンを閉じて瞬く間に会計を済ませ、早足で退店した。そのあまりのスピードに、私は呆気にとられる。

 作業が上手くいったのだろうか。薄着で信号を渡っていく彼の姿を眺めながら、私はそうだといいと祈った。

 取り残された私はしばらく、徐々に車が増える大通りと、からっぽの店内を見比べた。なるべくゆっくりと、最後の余韻を噛み締めるようにコーヒーを飲み切る。

 息を吐き、立ち上がる。会計を済ませると、店員と向き合った。

「いままでありがとうございました」

 小さく頭を下げると、それまで事務的な表情だった店員は顔を上げ、にこやかに笑った。

「こちらこそ、ご愛顧いただき、ありがとうございました」

 深々と礼をする相手に、私はじわりと胸に滲むものを感じた。

 すぐ傍にある扉のガラスには、小さな張り紙が貼られている。

『閉店のお知らせ』

 そっけないその書体が、今日はなんだかやさしく感じられた。

 取っ手に手をかけ、勢いよく扉を開ける。早朝の身を裂くような冷たい風が一気に流れ込む。

 暖かな空気に別れを告げ、暗闇で眩しいほどに輝くこの店に別れを告げ、私はこれから家路を辿る。

 私が見送ったひとも、見逃したひとも、全員、無事に帰れただろうか。深夜のあの時間は、なにかの価値を残しただろうか。

 あと三日で、このファミレスは閉店する。そうなったら、彼らは行く場所があるのだろうか。

 白みだした空を見上げて、息を吐く。

 きっと、あるのだろう。

 なくても、すぐに見つけるのだろう。

 私の知らない場所で、彼らはこれからも生きていく。

 その事実に、私は澄んだ朝の空気を目一杯吸い込んだ。

 幸あれ!

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そして白んだ街を往く @Wasurenagusa_iro

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