第五十八話 伝えられた言葉と、受け止めた願い



「ほんの数年だったが、そのときのことはよく覚えている。花音と一緒に大天の川を見たいって思ったとき、真っ先に思い浮かんだのがここだったんだ。たくさん歩かせて、ごめんな」


 珍しく紅が殊勝な顔をしているので、花音は逆に慌てた。


「そ、そんなこと……嬉しいよ! こんなに綺麗に星が見れる場所って、あたし初めてだよ」


 紅は覆面を取って、笑んだ。


「そうだろ? オレもそう思ってた」


 いつものオレ様口調にホッとするが、なぜだろう。紅はどこか哀し気で。


「久しぶりに来たけど、やっぱり綺麗だと思う。星空は変わらない。でも……変わるものもある」


 紅は欄干に背を預け、空を仰いだ。花音は、じっと紅の言葉を待ちつつ、大天の川を見上げる。


「当時は、四季殿にも福鳴殿にも多くの妃嬪が入内していた」

 紅は、ぽつぽつと話し始めた。


「だから七夕の日、父上は忙しかった。しかし、父上は急いで妃嬪への訪問を切り上げて、必ずこの龍昇殿へ駆けつけた。オレと藍悠と、母上のいるこの場所に。母上はここで星を見るのが、好きだったから」


 少しだけ、陽玉からの噂話で聞いてことがあった。

 亡き皇后様は今上帝からそれは深く愛され、寵愛を一身に受けていたと。

 それ故に、皇后様は後宮の中で多くの嫉妬と嫌がらせをも一身に受けたこと。

 そしてその皇后様こそ、紅と藍悠様の母君、月読の君と呼ばれる御方だったこと。


「父上は……母上だけを愛していた、らしい。それは当時の記憶からもわかる」


 紅は目を閉じる。その神々しいほどに整った横顔に思わず見入る。紅は何を思っているのだろうか。懐かし気な、でもどこか哀し気な表情。


「でも、それじゃダメだったんだ」


 目を開けた紅は、身を起こし、花音を真っすぐに見た。


「父上が、よく言っていた。星に願って叶わぬものなど無いと信じていた頃が懐かしい、と。皇族として生まれ、望むことは何でも叶えられ、龍玉を宿し、帝位についている。臣下からは希代の帝と尊崇されている父上がそんなことを言うなんて、オレはものすごく不思議だった」


 紅は何を言おうとしているのだろう。真っ直ぐな双眸の光は強く、目を逸らすことができない。


「今は、その言葉の意味がわかる。花音と出会った今なら」

「紅……」

「だからオレは、花音をここに連れてきたんだと思う。同じ景色を、見てほしくて。父上と母上が、そうだったように」



 花音は息を呑み、そして――思い出す。

 あの時、言えなかった言葉を。

 今、伝えなくては。

 あと戻りできなくなる前に。



「……うれしかったの」


 花音は大きく息を吸った。


「七夕の日に、一緒に大天の川を見ようって言ってくれて。すごく、すごくうれしかった。でも……でもね」


 花音は少し考えて、そして思い切って言った。


「あたしは、華月堂の司書女官だから」


 紅が、わずかに首を傾げる。


「つまり、その……紅の臣下だから。うれしかったけど、うれしいけど……七夕を一緒に過ごすことは、ダメなんだと思う、たぶん」


 どうしてだろう。声が震える。

 自分は今、どんな顔をしているだろう。見られたくない。ここにいたくない。いてはいけない。



――身分が、違いすぎるのだから。



「あたし、帰らなきゃ」


 急いでその場を離れようとして――強い力に引き寄せられた。



「アホ。こっから一人で帰れないだろ、方向音痴が」

「う……」


 体中を包む、焚き染められた香の薫り。

 その香りは心地よく花音の心も身体も痺れさせるのに、なぜだか胸がとても痛い。


「それに、そんな顔してる花音をそのまま帰せない」


 低く甘い声が、紅の胸を通して耳に響く。


――顔? あたしはどんな顔をしている?

 そう思って、花音は自分の頬が濡れていることに気付いた。


(あたし泣いてるの……?)

 そう思ったとたん、止まらなくなっている涙に気付く。


「えぐ」

 変な声まで出てしまう。紅の胸の中でしゃくりあげる。紅は黙って、花音の背中を優しく撫でた。


「な、なんで……あたし……」

「牽牛と織女は、運命に切り裂かれたな」

「う……うん」

「オレは、運命になど負けん」

「う、ん」

「だから、花音も負けるな」

「う……へ?」


 思わず顔を上げると、笑みを含んだ端整な顔が間近にあった。


「オレは星に祈らない。欲しいものは自分の力で手に入れ、守る。だから花音も負けないでほしい」

「負けない、って……」

「さっきの言葉でわかったんだ。もしかしてオレのこと……好きだと思ってくれてる?」


 一気に鼓動が速くなる。顔が瞬時に沸騰したように熱くなる。


「そ、それは……」

「違うのか?」


 哀しそうに眉を寄せた紅を見て、う、と花音は言葉を呑みこむ。


「違わない、けど……」

「だから負けないでほしいんだ」


 紅は真剣な眼差しで花音を見つめた。


「オレはおまえを傍に置きたい。おまえがオレを嫌いでないなら、玉座と向き合うオレの傍にいてほしい」

「で、でも」

「オレの気持ちは変わらない。ぜったいに。だが、周囲の状況や人の心は変わり移ろい、ときに残酷な刃となって襲い掛かってくる。それに負けないで待っていてほしいんだ」


 何を、と問う前に、紅は言葉を重ねた。



「おまえを、オレの専属司書女官に任命する準備ができるまで」



 しだいに丸く大きく見開かれる翡翠色の目を見て、紅は困ったように笑む。


「前に一度断られたよな。でも諦められない。花音の気持ちがわかったから、尚更」

「紅……」

「強制はしない。オレの七夕の願いとして聞いてくれればいい。伯言並みの無茶ブリ言ってんのは、わかってるからな」


 口を尖らせた紅に、花音は思わず笑った。泣き笑いだ。


「伯言様並みって……それはひどいね」

「でも伯言より待遇はいいぞ。それは自信を持って約束できる。だから――準備ができたら、オレの任命を受けてほしい」


 花音は、ひとつこくんと頷いた。頷いていた。

 それを見て、紅がふわりと微笑む。長い指が、花音の涙をぬぐいつつ覆面をそっと取った。


「いつまでこんなもの付けてんだよ」

「わ、忘れてた……」

「じゃまだろ」


 何が、という言葉は、降ってきた唇にふさがれた。



(……え?? ええーっ)



 一瞬で頭が真っ白になった。

(く、唇がっ……)


 恥ずかしさに顔が火傷しそうなほど熱くなる。同時に、柔らかい感触に酔いしれる。


(これが……口づけ……)


 それは切なく胸を締めつけると同時に、甘い。


 ややあって唇が離れ、互いに鼻が触れ合う距離で紅がささやく。


「こういうことは、双方合意の上でないとな」

「……え?」

「いや。ひとりごと。やっとわかったんだ」


 一人笑んで、再び紅は優しく口づけを落とす。





――これは、恋。



『花草子』を追っていた数か月前を思い出す。


 初めて会ったとき、面白いヤツだと思った。接するうちに、使えるヤツだと思った。だから接近した。


 けれどだんだん、花音に対して自分でも説明のつかない想いが湧き上がってきて。


 自分でも言葉にできなかった、切ないほどの胸の痛み。くるおしさ。会いたいと願う気持ち。

 そして、特定の女人と一緒にいたいと願う、その強い気持ち。

 それらが何なのか、七夕の星河の下、やっとはっきり言葉にできた紅壮だった。

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