第五十七話 星渡り



「あ、あのっ、助けてくれてありがとうございました!」


 花音は思いがけない展開に目を白黒させつつ、足を止めそうにない、そして自分の腕を放しそうにない男に向かって必死に叫ぶ。


「でもあのっ、あたしっ、待ち合わせしてて! 行かなきゃいけなくて!」

 刹那、男が急に立ち止まったので、その肩にぶつかりそうになった。


「す、すみませ――」

「食べ放題は、オレがおまえから褒美をもらった後じゃダメか?」


 笑み含みの甘い声に、花音はその長身を見上げる。


 この世に完璧に美しい目というものがあるなら、これがそうだろうというような、切れ長の目。そこに宿る、紫色の瞳。


「紅……!」

「尚玲に華月堂の司書女官を推した褒美を、まだもらってないんだが?」


 脳裏に、あの日の華月堂の夕暮れの色が蘇って。言えなかった言葉も、その後に気付いた自分の気持ちも。

 それは甘く切なく、花音の胸を締めつける。


「うん……」

 頷くのが、精いっぱいだった。

「お、それは了解ってことだな」


 うれしそうに言うと、紅は今度は花音の腕ではなく、手をそっと取った。

 剣ダコのある、意外とたくましい紅の大きな手。覚えのある、その優しい感触。


「行こう」


 紅は再び、七彩の光と人波の中を歩き出した。





 覆面をした黒装束姿に、周囲の多くが振り返った。

 一つはその黒装束が珍しいからだ。官吏の袍ではなく、かと言って武官のそれとも違う。

 一つは覆面で隠れていても、その精悍な顔立ちと長身が女性の目を引くからだ。


「――白司書は、何処へ」

 黒装束の男、飛燕は思わず呟く。


 飛燕の場合、人探しは造作もないことで、標的が見当たらないと瞬時にわかるが故の困惑だ。

 数か所で探した結果、泰平門前広場に白花音はいない、と飛燕は判断した。


「すでに女官寮に帰られたか……」


 白花音が爽夏殿を辞してから一刻近く。

 その間に、藍悠皇子は素早く、しかしそつなく、麗春殿と凛冬殿を訪問し、貴妃との対面を済ませ、そして華月堂へ向かった。

 麗春殿と凛冬殿で紅壮皇子とすれ違っているので、かの皇子も同じように速やかに七夕の訪問を済ませている点が気がかりだが、主の話によれば白花音は紅壮皇子と約束を交わしている様子はないという。


「ひとまず、ご報告に上がるか」


 飛燕は白花音の姿が見えない会場にすぐに見切りをつけ、華月堂へ向かった。

 






 どれくらい歩いただろう。


 すでに七夕仮装大会の喧噪は遠い。


 ここが後宮で、吉祥宮から少し離れた場所だというのはわかった。少し前に、瑠璃色の屋根瓦が林立する壮麗な風景を見たからだ。

 今歩いている場所は、吉祥宮からいくらも離れていないが、吉祥宮や後宮の他の場所と違って静かで灯りもほとんどなく、薄暗い。

 かといって裏さびれたふうではなく、綺麗に敷かれた石畳やきちんと整えられた植栽は、花音が見たことのある後宮のどんな場所よりも威厳と気品に満ちている。


「ねえ、紅。ここはどこなの? ずいぶん後宮の奥へ来たような気がするんだけど」


 思い切って花音が口を開くと、前を歩く紅がぶくく、と笑った。


「方向音痴のくせに、よくわかったな」

「なっ、失礼ねっ。誰が方向音痴よっ」


 花音の抗議を笑って交わし、「もう少しで着く」と紅は言った。


 やがて、池が見えてきた。


 夜闇の中でも、その池が入念に手入れされていることが分かった。

 池の周囲には雑草の一つもなく、植えられた白い梔子の花が夜闇に浮かび上がって甘い香りを放っている。水の中を気持ちよさげに泳ぐ金色の鯉がよく見えた。


 その池のほとりに階段があり、そこから殿舎へ上がれるようになっている。


 階段を上がり切ったとき、花音は思わずため息をこぼした。


(なんて美しい場所……)


 静謐、という言葉そのもののように、しん、としたその広い場所は、周囲四方が金色の欄干で囲われている。

 濡れたように輝く黒い床は、水の中にいると錯覚するほどだ。


 この世であって、この世でない。そんな場所。


「ここは、龍昇殿という」


 花音の手をそっと放し、紅が言った。


「普段はほとんど使われない殿舎だ。この宝珠皇宮で、最も星がきれいに見える場所の一つ」


 紅は欄干へ向かって歩いていく。花音も後に続き、紅と同じように空を見上げて息を呑んだ。



「すごい……」


 星が、降ってくる。

 大天の川が、目の前で流れているように見える。


 周囲が暗いおかげで、天の星の輝きが一層明るく見えるのだろう。まるで星がそのまま周囲に散らばっているような、星河の中にいるような。



 星の中を渡り歩いている――そんなふうに感じる。



「……子どもの頃、七夕の夜にここで星を見た」


 うっとり見惚れていた花音は、紅の呟きでハッと我に返った。


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