第十二話 噂の女神に会いに


「終業の鐘は鳴ったと思うけど……残業?」

「えっ、鐘、鳴りました???」

「うん、少し前に」


 まったく気が付かなかった。

 ぽかんとしている花音に、藍悠は笑う。


「相変わらず仕事熱心だね、花音は」

「いえっ、そんな! 本が好きなだけです」

「そんな本好きな花音は、今度は何の本を探してるの?」


 藍悠は書架に手をついて、花音に微笑む。

「この前は僕の本探しを手伝ってもらったから、今度は僕が手伝うよ?」

「あ……いえ」


 夏妃のため、紅に言えなかったように藍悠皇子にも知られるわけにはいかない。


「なんでもないんです。ちょっと、迷子の本を整えていただけで」

 花音は止まっていた本の整理に戻る。

 そんな花音をじっと見つめて藍悠皇子は憂い気に言った。


「さみしいな」

「え……?」

「僕は頼りにならない?」

「そういうわけではなくて、あの……」

 微笑む藍悠の双眸には寂し気な影が揺れている。


(優しい藍悠様を傷つけたくない、けど)


 夏妃の人形のような姿が脳裏に浮かぶ。

 藍悠皇子の后となるかもしれない夏妃は、花音が選書係をすることやその理由を藍悠皇子に知られたくないだろう。


「ごめんなさい。あの、仕事で……どうしても事情を話せなくて。だから藍悠様が頼りにならないとか、決してそういうわけでは」

「花音」


 本に置いていた花音の手を、藍悠がそっと握った。


「『花草子』のとき、花音は僕が話せないと言ったのに快く力になってくれた」

「藍悠様……」

「事情を知らなくても、少しでも僕が力になれることがあったら何でも言って? 何でもしよう、花音のためなら」


 藍悠の眼差しは真剣で。

(こんなに気遣ってくださるなんて)

 花音は胸がいっぱいになって目の奥が熱くなり、あわてて目をしばたいた。


「あっ、あの、そういえば藍悠様、どうしてこちらに? 伯言様はもうとっくにお帰りになっていますけど……?」

「うん知ってる。伯言はたいてい、午後は出かけるからね。伯言が帝の側近だってことは知っているよね?」

「あ、はい、そういえば」


 そうだった。忘れていたが、鳳伯言は今上帝の側近らしい。藍悠皇子の口から聞いたことだから間違いないのだろう。

 しかし美しい容姿なのはともかく、あの衣装、あの化粧、あの態度。花音にとってはうっかり忘れるほどの事実でしかないのだが。


「ああ見えて、けっこう働き者なんだ。伯言は」

「そう、なんですか……?」


 働き者という言葉と伯言がどうにも重ならない。


「僕が華月堂に来たのは、女神に会いにきたんだ」

「え? 女神、ですか?」


 周囲をきょろきょろ見回す花音に藍悠皇子は笑う。

「昨日、花音が林簾君と抱き合う前にちょっとした騒動があったそうだね」

「あ……」


 範文若はんぶんじゃく礼部尚書の件だろう。さすがの情報網だ。


「範文若礼部尚書は、皇城内の若い兵士を捕まえては小言を言うので有名らしくてね。その餌食になった可哀そうな新人兵士を救った、勇気ある女神がいたと」

 藍悠皇子が悪戯っぽく笑う。花音は目をまるくした。

「あ、あたしですか?!」

「そう、花音のこと」

「女神って……そんなんではなくて」


 ただ腹が立ったのだ。範礼部尚書の理不尽な態度に。


 藍悠皇子はくすくすと笑った。

「皇城ではひそかに有名になっているようだよ。大荷物を背負った子猫のような女神だったと」

「そんな! は、恥ずかしい……」


 今度から平包を背負って皇城に行くときは、頭巾を被らなくては。


「恥ずかしいことなんてない。僕は誇らしいよ。でも心配でもある。花音に変なムシが付かないだろうかと」

「藍悠様のお気持ちはありがたいですけど……ムシとかそんなことは絶対に無いから大丈夫ですよ!」

「花音は無自覚だな。げんに林簾君だって花音を抱きしめたわけで」


(藍悠様、けっこう根に持ってるーっ)

 花音はあわてて否定する。


「ですからあれは幼馴染だからで」

「……それに、ムシというのは色のムシばかりではないからね」

「え?」

「範文若は大貴族五家、範家の当主だ。長女が同じ礼部の次官ということもあって、礼部を完全に掌握し、皇城内で我が物顔で振舞う姿も目立つらしい」

「はあ……」

「目を付けられると厄介だということさ」

「あ」


 ならば花音は完全に厄介なことになっているだろう。


「範礼部尚書の陰湿な嫌がらせは有名みたいだからね。今後、何か困ったことがあったら相談してほしいと思って」


(尊すぎる……どこまでお優しいのですか藍悠様!)

 藍悠皇子の優しい気遣いに胸がじーんと熱くなる。


「ありがとうございます、藍悠様」

 花音はにっこり微笑んだ。

「でもたぶん、大丈夫ですよ。ほら、畑違いっていうか、皇城と後宮ですし。範礼部尚書とはたぶん、今後お会いしてもすれ違う程度だと思いますし」


 しかし、畑違いの人物でも密接に会うことになる事態が待ち受けていようなどとは、このときの花音は思いもよらなかった。


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