第十一話 夏妃


夏妃かひ様に御目通りを?」

「はい。選書をするのに、夏妃様がどんなことに興味がおありかざっくり知りたくて」


 次の日の朝いちばんに伯言へ頼むと、あっさり伯言は快諾した。

「わかった。すぐに尚玲ちゃんに使いを出すわ」



 そして数刻後、花音は爽夏殿の大広間に通されたのだった。





 開け放した扉から、初夏の青葉が茂る庭が見える。

 大輪の薔薇には蝶が舞っていた。どこからともなく、甘い薫香くんこうが香ってくる。どこかで香を焚いているのだろう。開け放した扉に垂れる布帛ふはくは濃い桃色で、縁取りにふんだんに飾り布がしてある。

 部屋が主の性格を表すのだとすれば、確かに。あのお人形のように愛らしい姫にぴったりな可愛らしいしつらえだ。

 どことなく落ち着かなくて花音がきょろきょろしていると、「夏妃様がお見えです」という女官の声がした。

 平伏して待っていると、衣擦れと軽やかな歩揺ほようの音が通り過ぎ、正面の籐椅子に人が座った気配がした。


「白花音、おもてを上げよ」

 尚玲の声がして、花音は顔を上げ、目を瞠った。


(うわあ……なんて可愛らしい)


 尚玲が相好そうごうを崩して自慢するのもじゅうぶん頷ける。

 清秋せいしゅう殿で見かけたときも美少女だと思ったが、対面するとわかる。美少女という形容がこれほどふさわしい女の子は世界にそうはいないだろう。


「爽夏殿の主、華憐様じゃ」

 尚玲は花音の反応に満足げに頷いた。


 陶器のような白く滑らかな肌。色素の薄い栗色の髪は蝶のように結い上げられ、花びらをかたどった歩揺がいくつも揺れている。大きな瞳は、けぶるような睫毛に縁取られ、赤いべにを差しているだけでほとんど化粧をしていないかんばせは、シミひとつなく咲き誇る大輪の薔薇のようだ。


 尚玲は夏妃が座る籐椅子の横に立った。

「華憐様。この者は、白花音と申しまして、後宮内蔵書室・華月堂の司書女官でございます」

「…………」

 夏妃は黙っている。


「華憐様に、ぜひとも面白き本を御持ちしたいとのことで、御希望は、と」

「…………」

 やはり夏妃は黙っている。


(どうしたのかしら?)

 あまりに黙っているので拍子抜けして、花音はちら、と視線を上げた。


(……!)


 すぐに視線を伏せる。

 最初に見たときと同じくらい、花音は衝撃を受けた。


(夏妃様は、何もご覧になっていないわ)

 いや、見てはいる。目の前に座っている花音を見てはいるのだが、そこに心がないのは明白だった。


 見ているが、その大きな美しい双眸には何も映っていない。

 真っ暗な空洞を覗きこんでいるように――そう、うつろなのだ。


 尚玲が大仰に咳払いをした。

「夏妃様はお疲れのところをそなたの希望を聞き入れたいと目通りを許したのじゃ」

「そ、それはたいへん恐縮でございます」

 花音はいろんな意味で身の縮む思いがしたが、尚玲はほほ、と笑った。

「よい。夏妃様は御心が広いゆえ、許すぞ」

「は、はい」

「そういうわけで、すまぬが白司書。まずはそなたが選定した本を持って三日後にこちらへ来てくれぬか」


 どういうわけなのかはまったくわからないが、こう言われては頷くしかない。


「かしこまりました」

 花音はが叩頭すると、頭上からぽつり、と、

「よろしく頼む」

 透き通った声が降ってきた。


 抑揚に欠けたその声に、花音は背筋が冷えるのを感じた。

 よくできた人形に、話しかけられた気がして。



「何を話しかけてもだんまり、ねえ」


 花音が後宮厨から持って帰ってきた点心盛り合わせを広げつつ、伯言が言った。


「夏妃様、一筋縄じゃいかないようね」


 花音はどんよりとしつつも、取り皿にちゃっかり海老焼売を多めに取る。


「そりゃそうですよ、あんなに有能そうな尚玲様があたしなんかに選書を頼むって、よく考えたらおかしいじゃないですか」

「あんた、面倒なことをていよく押しつけられたかもね、尚玲ちゃんに」

「やっぱりそうですよね……っていうか! この話受けたの、伯言様ですよね?!」

「だってぇ、引き受けてくれたら爽夏殿にある本、好きなだけ持っていっていいって言うんだもの」


 花音の箸が止まった。


「……な、なんて言いました伯言様。も一回、も一回言ってくださいっ」

「だからぁ、夏妃様の選書係を引き受けてくれたら、夏妃様に献上されたけど読まれないまま新品同様に眠っている本を好きなだけ持っていっていいって言ったのよ、尚玲ちゃんが」

「本当ですか?!」

「本当よ。夏妃様はまったく、見向きもしないらしいから。絵巻物から学問書まで、幅広くあるみたいよ。ちょうど華月堂の蔵書を増やしたかったから絶好の機会だと思ってね。あんたもこの条件なら乗ってくれると思ったし」

「それを! それを早く言ってくださいっ!」

「ちなみに、尚玲ちゃんの頼みごとを実現してくれたら、あんたが好きな本を個人的にお持ち帰りしてもいいって」

 子猫のような翡翠色の双眸が、ぱっと輝いた。

「お任せくださいっ、もちろん何とかしてみせますっ!」





「……とは言ったものの、どうしたものかしら」


 貸出業務がひと段落ついてから、花音は小さく呟いた。


 例によって伯言はいない。

「今日はとある御方の御屋敷へ招かれているのよ~。あたしも行きたくないんだけど、人付き合いも仕事のうちって、ね? あたしは外で営業、あんたは内で司書業務、ってことでよ・ろ・し・く」

 仕事にしては今日も青緑の孔雀羽模様の袍に揃いの扇子という派手な出で立ちで、鏡をいろんな角度から見て念入りに化粧を直して伯言が出かけてから、かれこれ数刻。


 その間、花音はずっと考えていた。夏妃への選書のことを。


 夏妃から希望や好みを聞けない、尚玲には「まずはそなたの選定した本を」と言われてしまったからには、花音の独断と偏見で選んでいくしかない。


「もし、今、好きなように本を買っていいって言われたとして……」

 想像してみる。

 物語なら、一つの部分、一つの章をじっくり読む。

 学問書なら、できれば目次のあるもの、索引があれば言うことなし。


 日の長い今の季節だが、とりの刻も近くなると西日の色が濃く変化してくる。

 茜色の西日が華月堂内に差しこみ、訪れる人もいなくなった頃を見計らって、花音は受付から出た。


 華月堂内の本は、印別に分かれている。

 同じ印の書架に同じ印紙の貼られた本が収められているのだが、たまに、急いでいたのか戻し方がわからなかったのか、迷子のように違う書架に入っている本もある。

 そんな本を元の書架に戻しつつ、花音は三日後に夏妃の元へ持っていく本を探していた。


「何か探しているのかな?」


 背中からの声に振り向いて、花音は一瞬ハッとする。

 もしかして、という淡い期待に、立っている人影に目を凝らす。


 しかし、きちんと着こなされた涼し気な青色の袍も、きちんと結われた髪も、ではないとすぐにわかった。


「……藍悠様」

 ホッとしたようながっかりしたような気持ちで、花音は思わず微笑んだ。


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